神経回路の構造と機能研究の現状および展望
2010年 8月12日
伊佐 正(いさ ただし):
自然科学研究機構 生理学研究所 認知行動発達機構研究部門 教授
1985年 東京大学医学部医学科卒業
1988-1990年 スウェーデン王国イェテボリ大学客員研究員
1989年 東京大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)
1989-1993年 東京大学医学部助手(付属脳研究施設)
1993-1995年 群馬大学医学部講師のち助教授
1996年 岡崎国立共同研究機構生理学研究所教授
2004年 改組により自然科学研究機構生理学研究所教授、現在にいたる
2006年 ブレインサイエンス財団塚原仲晃記念賞受賞
2002年- 文部科学省ナショナルバイオリソースプロジェクト「ニホンザル」代表研究者
2008年- 文部科学省脳科学研究戦略推進プログラム課題C「独創性の高いモデル動物の開発」拠点長
2009年 第32回日本神経科学大会・大会長、日本神経科学学会庶務理事
専門
運動制御の中枢神経機構、神経回路の損傷後の機能代償機構
学術誌編集
Curernt Opinion in Neurobiology, Acta Physiologica, Neurosceince Research, Journal of Physiological Sciences
人間の脳は、数百億個の神経細胞がシナプスと呼ばれる結合部位で信号をやり取りすることで成り立っている情報処理のためのネットワークである。従って、脳の神経回路を研究するということはすなわち脳における情報処理のメカニズムを理解することに他ならない。しかし、その出口としては、脳の機能を知ることだけでなく、脳に習った新しいコンピューターやロボットを作ろうという工学的応用もあれば、精神神経疾患のメカニズムを理解して治療につなげること、また脳や脊髄の損傷に対するリハビリテーションをより有効に行うための治療法の開発など、いずれも社会的ニーズの高い分野として注目されている多様な分野での展開が期待されている。
1950年代頃から、神経回路の構造と機能を調べることが脳神経科学の中心的課題とされ、多くの研究が行われてきた。その中心となってきたのが、解剖学的手法や電気生理学的手法であり、主に脳の離れた部位同士がどのように繋がっているのか、そしてその経路が障害を受けるとどのような症状が現れるかを調べることでその経路の機能を推定する、というものであった。しかし、このような「マクロの神経ネットワーク」に関する研究は、1980年代に一旦下火になる。それに取って代わって現れたのが、ひとつは分子生物学的研究手法によって、神経細胞膜のイオンチャネルなど、神経系を構成する素子の構造と機能を明らかにする研究であり、一方では覚醒動物での単一神経細胞活動記録によって高次な認知機能に関係する情報表現を明らかにする研究、またヒトの精神活動と関係する脳の部位を同定するための機能的MRIなどの非侵襲的脳機能イメージング法といった認知神経科学的研究であった。それが、ここ数年来、多くの研究者が再び「これからは神経回路研究の時代」と言うようになってきている。その原因のひとつは、分子神経生物学的な立場からすれば、脳を構成する多くの基本的な素子に関する知識が集積され、それぞれの生体における機能を明らかにするためにそれらの遺伝子を欠損する動物(主にマウス)が作られ、その行動解析が行われてきたが、結局分子と行動の間の相関はある程度わかってもやはりその間の階層である「神経回路」レベルでの理解が進まないと、脳の機能がわかったとはいえない、ということが切実に実感されてきたからであろう。また、認知神経科学的な立場からも、単一神経細胞活動で、大変興味深い情報を表現するニューロンが見つかったとしても、また、機能的MRIによる脳機能イメージングの画像データを見ても、それらがどのような過程を経て生成されたのか、またそれがその後どのように処理されて、認知や行動に使われるのか、ということを神経回路を基盤として理解しなくてはいけないということがこれまた強く認識されてきたからであろう。このようにして現在「神経回路」がキーワードになり、日本国内でも科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業でも平成21年度より「神経回路の形成・動佐原理の解明と制御技術の創出」(CREST、研究総括:小澤瀞司)、「脳神経回路の形成・動佐と制御」(さきがけ、研究総括:村上富士夫)という事業が開始され、多くの研究が支援されるようになるなど、神経回路研究に関する機運が高まっている。
現代の神経回路研究は1980年代まで行われていた古典的な神経回路解析の知識、手法に基づきつつも、この間の分子神経生物学の発展の成果を取り入れた新しいものに様変わりしてきている。古典的神経回路研究が脳の離れた領域間の神経結合の構造と機能の解析が主体であったのに対し、現代の神経回路研究は
(1)個々の神経細胞種の形態・電気生理学的特徴の精緻な解析と多光子電子顕微鏡などの先進技術を取り込んだ局所神経回路の研究
(2)先進的な分子遺伝学的ツールによって神経回路の特定の要素の活動や機能を時空間特異的に制御する手法により、特定の神経回路の機能と行動との関係を明らかにする研究
(3)神経系の特定の神経回路が損傷を受けた場合に起きる機能代償機構を学習の一過程ととらえ、様々な手法を組み合わせて解析する研究
(4)多くの神経細胞の活動を多重電極によって記録し、その中の情報表現を読み出す研究
などに分けられる。これらはいずれも新しい動物モデルと計測・解析技術の発展に支えられて、実験手法の精度が飛躍的に向上している。
(1)については、特に大脳皮質の局所神経回路に関する研究が進展している。特に過去10数年来の蓄積で、大脳皮質を構成する興奮性の錐体細胞以外の複数の種類の抑制性の介在ニューロンの特徴に関する研究が大きく進展し(川口ら)1)、大脳皮質の機能の調節には抑制性ニューロンの果たす役割が大きいことが強く認識されるようになってきた。そしてこれまではネズミの大脳皮質を300ミクロンくらいの厚さのスライスにして、パッチクランプ法という記録法を用いて局所神経回路の構造と機能を解析する手法が主流であったが、最近は丸ごとの個体で、傍細胞記録法と呼ばれる、細胞体に極めて近接してガラス管電極を留置して細胞外で神経活動を記録するとともに色素を電極から流出させて記録していた細胞を染色する方法や、2光子レーザー顕微鏡を用いて、カルシウム指示薬をロードした神経細胞集団の活動を全て記録・解析する手法2)を麻酔下の動物だけでなく、一部では覚醒行動下の動物、特に分子遺伝学的手法によって特定の細胞種が蛍光色素を発するようにしたトランスジェニックマウスなどに適用することで、細胞種が同定された細胞が運動や感覚情報処理を行っている際の活動を解析できるようになってきた3)、4)。
(2)については、例えばTet-off法と呼ばれる、テトラサイクリン関連物質が体内から失われた時にだけ特定の神経回路に神経細胞の伝達を停止させるテタヌストキシンという毒素を可逆的に発現させる手法を、トランスジェニックマウスの作製技術とウィルスベクターを組み合わせることで可能にする手法(reversible neurotransmission blocking (RNB) technique)を中西ら5)は開発した。大脳と大脳基底核を結ぶ神経回路については近年その構造については多くの知見が集積され、直接路、間接路という2種類の経路があることはわかってきていたが、それらがどのような機能を有しているかはわかっていなかった。それに対して中西らは直接路、間接路をそれぞれ選択的に大人のマウスで遮断する方法を開発し、それらのマウスの行動を解析したところ、直接路は報酬による学習の強化、間接路は忌避的判断に関わることを明らかにした。(2)についてももう一つの大きな流れは、光遺伝学(optogenetics)という手法6)で、藻類の膜タンパクで、青色の光によって活性化してNa+やCa2+イオンを細胞内に取り込んで興奮に導くチャネルロドプシン(ChR2)や黄色の光によって活性化してCl-ポンプとして細胞内にCl-イオンを取り込んで神経細胞の活動を抑制するハロロドプシン(NpHR)をトランスジェニック技術やウィルスベクターを用いて発現させる技術である。これによって例えば細胞種選択的にこれらの分子を発現させると、ミリ秒オーダーの正確さで特定のニューロンを選択的に活性化したり抑制したりすることができる。これはこれまで神経科学で用いられてきた電極による電気刺激(細胞選択的な刺激ができない。細胞体だけでなく通過線維も活性化する)や薬物による活性化・不活性化法(拡散する。時間経過が緩やか)の問題点を克服する革命的な手法である。現在世界中の多くの研究室がこの手法を用いて先端研究のしのぎを削っている。
(3)は、リハビリテーションの基礎研究として重要な研究である。筆者らのグループはヒトに近いサルを用いて随意運動制御の最終出力経路である皮質脊髄路を脊髄ないしは大脳皮質運動野のレベルで損傷し、その後の手指の巧緻運動の機能回復過程を陽電子断層撮影装置(PET)を用いて経時的に解析している。その結果、例えば、頚髄C5レベルで皮質脊髄路を損傷すると器用に物をつまむ精密把持運動は一時的に障害されるが、C3-C4レベルにあって皮質脊髄路の信号を手の筋の運動ニューロンに伝える脊髄の介在ニューロンの働きによって1-2ヶ月の訓練によって回復してくる。その際の大脳皮質の活動をPETで解析すると、回復初期(1ヶ月目)では両側の一次運動野が関わっているが、回復が安定する時期(3-4ヶ月)においては損傷同側の一次運動野の活動は再度低下し、本来使われている損傷反対側の一次運動野の活動領域が拡大するとともにより高次な中枢である運動前野がより直接的に運動制御に関わることが明らかになった(図1)7)。さらに実際にこれらのイメージング解析で見つかった領域が本当に回復に関わっているのかを明らかにするためのこれらの領域にムシモルという薬物を注入することで活動をとめてやるとせっかく回復してきた運動が再度阻害することがわかり、実際にこれらの領域が回復の時期依存的に役割を変えつつ貢献していることがわかった。また、マイクロアレイ法による遺伝子発現の網羅的解析により、多くの可塑性関連遺伝子群が大脳皮質で発現を増加させることがわかってきた。
一方、一次視覚野を損傷すると、反対側の視野が「盲」になり、視覚が消失するが、強制されると実は「見えない」場所に置かれた対象に対して眼を向ける、手を伸ばすといった運動が可能であることが知られている。この「視覚的意識と行動の乖離」という興味深い現象は「盲視」として知られ、現在大変多くの研究者がこの問題に興味を持っている。筆者らのグループは一次視覚野を片側損傷したサルを用いて様々な解析を行い、「盲視」には一次視覚野を介さない視覚系として鳥類以下の動物で主要な視覚伝導路として働いている中脳の「上丘」が重要な役割を果たすことを明らかにしてきた8)。これらの研究も大脳皮質の障害で視覚障害となっている患者のリハビリテーションという観点からも重要な研究である。
(4)については近年、多重電極によって100-200チャンネルという多くの電極から記録された情報を記録・解析する技術が進展してきている。有名な事例として、サルの一次運動野の多くの神経細胞の活動から腕の運動の軌跡を読み取り(デコード)して、ロボットの腕を動かす技術がある(Nicolelisら) 9)。これはブレイン・マシーン・インターフェース(BMI)と呼ばれ脊髄損傷などの患者に福音をもたらす技術として注目されているが、一方で、多くの針電極を脳に刺すことはその侵襲性とともに記録の長期の安定性という観点から問題も多いとされてきた。それに対して最近注目されている技術は脳の表面から皮質脳波(electrocorticogram=ECoG)という技術を用いてより多くの情報を抽出しようとする技術である。当然ながらECoGの方が侵襲性が低く、安定性は高いが、情報の精度にも問題があるとされてきた。ところが周波数別に信号のパワーを解析する手法やsparse regression法などデコーディング技術の発展により、ECoGから多くの情報を取り出すことが可能になりつつある。日本国内では文部科学省の脳科学研究戦略推進プログラム課題A「ブレインマシーンインターフェースの開発」においてはECoGによる高機能BMIの開発を旗印に研究を推進し、既に難治性疼痛の患者の痛みの軽減のために運動野に留置されたECoG電極を用いてロボット義手を駆動させることに成功している10)。
今後の展望
(1)、(2)は主にマウスを用いた研究が主軸であり、(3)、(4)はサルやヒトを対象とすることを主軸に置いている。しかし、(1)、(2)の研究で培われた洗練された分子遺伝学的手法を霊長類に適用することができれば、高次脳機能の理解及び精神神経疾患の理解と治療法の開発に革命的な展開をもたらすことが期待できる。そこで文部科学省の脳科学研究戦略推進プログラム課題C「独創性の高いモデル動物の開発」では、霊長類の脳での遺伝子発現を調節する技術の開発を行っている。欧米の研究がマウスを中心とする研究にシフトしつつある中でこの動きは日本独自のものである。ひとつはトランスジェニック技術をコモンマーモセットに適用することで、既に2009年にGFPを発現する安定したトランスジェニックマーモセットの作製技術に成功した報告がなされている11)が、それに加えて脳科学研究に汎用性のあるマーモセットラインや神経疾患のモデルマーモセットラインの作製が軌道に乗りつつある。また、ウィルスベクターを霊長類に導入して、神経回路特異的な遺伝子発現操作技術やoptogeneticsの技法を霊長類に導入する研究が行われている。マウスで上手く行ったベクターがサルではそのままでは使えないことが多い、などの当初な深刻な問題に直面したが、現在これらの研究も軌道に乗りつつあり、日本発の革新的な研究パラダイムを発信できるようになることが期待されている。
(左)サルの皮質脊髄路を頚髄C5レベルで損傷後約2週間目の手指の運動と3ヶ月後の運動。精密把持運動は顕著に回復している。
(右)その過程での精密把持運動遂行中のPETによる脳活動の計測で損傷前より活動が増加している部位。
上:回復初期(1ヶ月目)。両側の一次運動野の活動が亢進している。
下:回復安定期(3ヶ月目)。損傷反対側の運動野の活動が増加するとともに両側の運動前野。さらに側坐核の活動の増加が観察される。
主要参考文献:
- Kawaguchi Y, Kubota Y (1997) Cereb Cortex 7: 476-486.
- Ohki K et al. (2005) Nature 433: 597-603.
- Isomura Y et al. (2009) Nat Neurosci 12: 1586-1593.
- Kameyama K et al. (2010) J Neurosci 30: 1551-1559.
- Hikida T et al. (2010) Neuron 66: 896-907.
- Zhang F et al. (2007) Nat Rev Neurosci 8: 577-581.
- Nishimura Y et al. (2007) Science 318: 1150-1155.
- Isa T, Yoshida M (2009) Curr Opin Neurobiol 19: 618-614.
- Wessberg J et al. (2000) Nature 408: 361-365.
- Yanagisawa T et al. (2009) Neuroimage 45: 1099-1106.
- Sasaki E et al. (2009) Nature 459: 523-527.