第110号
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中国の大学発ベンチャー企業(科学技術型)について(その1)

2015年11月9日  陳 強(同済大学経済・管理学院管理科学与行程系教授)、
余 偉 (同済大学経済・管理学院博士課程)

一、中国大学科技型企業の発展プロセス

 大学科技型企業の設立目的は総じて、技術産業化の実現だが、歴史や文化、科学技術の発展水準、社会制度などの違いから、大学科技型企業のあり方は国によって異なる。中国の大学科技型企業の誕生と発展は大学の役割の進化の結果であると同時に、中国の特殊な時期の特殊な事情によって影響を受けている。中国の科学技術資源は歴史的な事情から、高等教育機関や公共研究機関に集中し、技術革新と知識創造の主体であるはずの企業はイノベーションと研究成果を引き寄せる能力を欠いていた。このため中国の科学技術の成果の産業化には、大学が能動的に企業を設立することが重要となった。中国の大学科技型企業のこれまでの発展は、「萌芽段階」「成長段階」「制度改変段階」の3段階に分けられる。

1.萌芽段階(1949-1985)

 1949年の中華人民共和国誕生から1985年の国家による科技・教育体制改革までの30年余りは、中国の大学科技型企業の萌芽段階と言える。計画経済が実行されていた時期には狭義の大学科技型企業はなかったが、多くの大学では「校営工場」が設立され、後の「大学科技企業」の原型となった。

 当時、中国の大学による「校営工場」の設立には主に次の3つの目的があった。第一に、科学研究のためのパイロット試験の場所を得ること、第二に、学生に実習場所を提供すること、第三に、一部の家族の就業問題を解決することである。技術の産業化の実現という現在の大学派生企業の目的とは大きな隔たりがある。

 校営工場の制度は、現代の市場化された企業とは異なっていた。第一に、行政面で大学の総務部門に属し、独立採算の事業単位ではなく、法的な独立性を備えていなかった。第二に、大学の校営工場設立の最終目的は経済利益の獲得にはなく、科学研究と人員分配にあった。独立法人資格を持ち、経済的な利益を追求する現代の公司制の企業とは大きく異なっている。

 当時の校営工場は規模が小さかったことも特徴である。多くは大学が自発的に組織したもので、全国的な制度としては形成されず、小規模にとどまっていた[1]

 当時の「校営工場」は今から考えれば、目的や形式、規模のいずれからも、「大学科技型企業」とは大きく異なる。しかし歴史の進化は「経路の共通性」を呈するものであり、「校営工場」はその後の「大学科技企業」の誕生と発展、変化に大きな影響を与えた。

2.成長段階(1985-1999)

 1985年の政府による科技・教育体制改革の実行から1999年の校営企業改革までの十数年は、中国の大学科技型企業の発展の黄金期となった。中国の大学科技型企業は、「校営工場」という形から「科技型校営企業」という形に変化し、爆発的な発展を遂げた。厳密に言えば、「科技型校営企業」とその後の「大学科技型企業」は違うが、「科技型校営企業」は、経済体制の転換を背景とした中国の大学科技型企業の移行形態であり、中国の大学科技型企業の発展の重要な歴史的形態であったと言える。この段階の中国の大学科技型企業は実質的には「科技型校営企業」を指す。

 「校営工場」と同様、「科技型校営企業」の誕生と発展は、当時の経済・科技・社会環境と大きくかかわっている。1980年代に入って中国は改革開放政策をはじめ、計画経済から市場経済への過渡期に入った。1980年代中期からは、中央政府が改革の重心を農業から工業・科学研究教育系統へと移し始めた。改革プロセスでは、「ソ連モデル」に基づく中国の科学技術の中央計画管理体制に「科学技術と産業の乖離」「工業研究開発力の欠如」「科学技術と教育のずれ」などの問題があることが明らかとなり、科技体制改革が必然の流れとなった。

 「科学技術は第一の生産力である」という指導思想の下、中国共産党と中央政府は1985年3月13日、国務院による全国科学技術工作会議後、「科学技術体制改革に関する決定」を発表し、科学技術政策について「経済建設は科学技術を拠り所とし、科学技術は経済建設を目指すものでなければならない」という新たなモデルを打ち出した。科学技術改革の実際の措置の一つは、公共科学研究所への中央政府からの研究経費の直接支給を削減したことだった。統計によると、全国公共研究所の研究経費に占める政府支出の割合は、1986年には64%にのぼっていたが、1993年までに28%に縮小した。同様に、全国の各大学の研究経費に占める政府支出の割合も1986年の54%から1995年の23%に下がった。この措置の直接的な効果の一つは、公共研究機関が、新たな経費の要求先を探して自身の研究活動を維持する必要に迫られたことにある。これと同時に、「科学技術体制改革に関する決定」の発表から間もない1985年5月27日には、中央政府が「教育体制改革に関する中共中央の決定」を発表し、「教育は社会主義建設に奉仕し、社会主義建設は教育を土台としなければならない」という方針を示し、「大学が産業活動に参加し、社会奉仕の役割を担う」ことを国家が積極的に奨励するようになった。その後の数年間、中央政府は、科技・教育体制改革に関する一連の政策を次々と発表した。国務院は1987年に「科技改革のさらなる推進に関する若干の決定」、国家科学技術委員会(当時)と財政部は1988年に「高等教育機関による社会奉仕展開の関連問題に関する意見」をそれぞれ打ち出したが、この中では、大学科技産業の社会奉仕が高く評価され、資金・人員・税収などの面での支援の方針が示された。科学技術と教育との二重の改革を背景に、中国の多くの大学は、派生企業を作ることが研究経費調達と社会奉仕の二重の目的を実現するという認識を持つようになった。北京大学や東北大学などによる科技型校営企業のモデルにも促され、多くの大学が自らに属する科技型校営企業を次々と設立した。科技型校営企業は一時期、「雨後の筍」のように設立ラッシュを迎え、規模は急速に拡大し、中央政府の注目度も高まった。

 1992年、国家科学技術委員会(当時)と国家教育委員会(当時)は、「高等教育機関の科学技術成果の普及・応用の強化に関する決定」を打ち出し、科技型校営企業の任務を「大学の科学技術の強みを十分に発揮し、科学技術の成果が早期に現実の生産力となることを促すこと」と明確化し、「条件の整った大学は、民間企業の開発が難しい技術製品を探し、これを開発し、国際市場に乗り出す」という方針を打ち出した。この政策は、中国の科技型校営企業の新たな発展の動力となった。各大学は、科技型校営企業を設立すると同時に、それまでの校営工場の製品構成を調整し、これを科技企業に変え、科技型校営企業をさらに増やしていった。また市場経済の深化に伴い、一定規模に急成長した科技型校営企業はさらなる拡張のチャンスを迎えた。大学は、科技型校営企業を非独立採算の事業単位から大学の直接管理する独立採算全民所有制(国有)企業へと転換することを通じて、中国の科技型校営企業に独立法人資格を取得させ、市場からの融資を得るチャンスを広げた。1992年、いくつかの科技型校営企業が率先して株式制への移行を行い、公開市場での活動によってさらなる発展期を迎えた。大学科技型企業の発展の黄金期と言える。中国の大学科技企業は2012年までに3,000社近くに達し、販売収入は1,370.75億元を超え、利潤総額は56.52億元にのぼった[2][3](表1参照)。

表1 1996-2012年全国大学科技型企業生産経営データ対照表
出典:中国高等教育機関校営産業統計報告(1996-2012)
年度 企業数 収入総額 利潤総額 純利潤 納税額 大学納入額
(社) (億元) (億元) (億元) (億元) (億元)
1996 2912 122.61 12.34
1997 2464 184.87 18.2
1998 2355 214.97 17.7 15.84 8.31 6.58
1999 2137 267.31 21.56 18.04 10.96 13.92
2000 2097 368.12 35.43 28.03 18.79 8.46
2001 1993 447.75 31.54 23.98 20.09 7.78
2002 2216 539.08 25.37 18.63 25.92 7.61
2003 2447 668.07 27.61 14.73 29.4 7.74
2004 2355 806.78 40.98 23.86 38.48 8.25
2005 909.69 45.23 29.76 35.92 6.09
2006 1933 992.12 49.02 30.72 35.78 5.70
2007 1185 1180.12 103.74 79.80 43.76 3.87
2008 911.58 44.44 22.01 42.32 3.01
2009 1138 984.78 50.66 32.62 42.54 3.13
2010 1044 1135.49 62.28 21.06 46.54 3.32
2011 957 1273.31 60.21 46.58 43.80 4.03
2012 988 1370.75 56.52 40.59 47.61 5.52
図1

図1:1996-2012年中国大学科技型企業収入総額

出典:中国高等教育機関校営産業統計報告(1996-2012).

図2

図2:1996-2012年中国大学科技型企業利潤総額

出典:中国高等教育機関校営産業統計報告(1996-2012).

 だが1990年代末になると、政策面での管理が欠如していたために、科技型校営企業の弊害も明らかとなっていった。一方では、行き過ぎた急成長のため大学の企業設立が過熱し、十分な研究開発能力を持たない大学も企業設立に走るようになった。開発能力と実績に欠けた科技型校営企業が市場に氾濫したことで、大学ブランドへの消費者の印象は大きく損なわれた。一部の大学では、教授が企業経営に熱中するあまり研究活動が疎かになる状況も生まれ、商業行為と大学の運営目標が矛盾し、大学の社会的イメージが損なわれた。制度の問題も少しずつ表面化した。企業制度の不整備で、一部の科技型校営企業は効率が低下し、毎年のように損失を出し、大量の公共資源を消耗した。これに加え、外部の経済環境の変動によって、急速に拡張していた中国の科技型校営企業は行き詰まりに遭遇した。こうした様々な弊害を受け、政府は新たな政策を打ち出し、中国の大学科技型企業の改革に踏み出し、大学科技型企業の発展は新たな段階を迎えた。

3.制度改変・規範化段階(1999年以降)

 中国の大学科技型校営企業は2000年頃から低迷期に入り、全国の大学科技型校営企業の利潤総額は2000年の35.43億元から2002年の25.37億元に低下し、30%近く減少した。純利潤は2000年の28.03億元から2003年の14.73億元までほぼ半減した(表1参照)。国家の産業科学技術と経済発展に科技型校営企業が大きな影響をもたらすことを考慮し、国務院経済体制改革委員会や教育部などの部門は2000年から大学科技型校営企業の制度改革を始め、まずは清華大学北京大学の2校を試行対象として制度改革を行った。2001年11月に国務院弁公庁が通達した経済体制改革委員会と教育部の「北京大学清華大学の校営企業管理体制規範試行に関する指導意見」(略称:58号文)は、中国の大学の科技型校営企業の制度改革の幕開けとなった。

 「58号文」は改革目標として次の二つを示した。一つは、校営企業に大学が無限責任を負っていた状況を改変し、大学と企業の分離を実現すること。科技型校営企業はこれで、有限責任を負い、自主的に経営し、損益の責任を自ら負う市場主体となり、国有資産の価値の保持と増大の責任も負うことになった。もう一つは、大学によるハイテク企業への参入と撤退の制度を構築・整備すること。北京大学清華大学は規定に従い、「北大資産経営有限責任公司」と「清華控股(持株)有限公司」をそれぞれ設立し、国有資産経営のための資産経営会社とした。この2社は大学を代表し、それぞれの大学の科技企業を統一的に保有・経営・監督・管理することとなった。この仕組みは、大学と企業との間に「防火壁」を設け、大学と企業とを形式的に分離するものとなった。ほかの大学の科技型校営企業もこれに続いて次々と制度改革され、中国の大学科技企業は規範化の段階に入り、現在の大学科技型企業として成長していった。

 この段階では、科技型校営企業の制度改革が行われたほか、大学関係者個人の起業が増加した。これは、大学生の起業と科技型中小企業を国家がさらに重視するようになったためである。様々な起業大会が開催されたり、サイエンスパークやインキュベーターなどのインフラが整備されたりしたとで、学生や教員による起業の条件が整った。だが大学の推進によって生まれた科技型企業と比べると、学術関係者が個人で興す企業は数量でも規模でもわずかだった。また中国の大学のほとんどは、これらの企業を専門管理する技術移転部門を設けておらず、中国の大学科技型企業の主体は依然として制度改革を経たもしくは制度改革の段階にある大学科技型校営企業となっている。本稿では以下、「中国の大学科技型企業」として、大学によって推進・設立された科技型企業を指すこととする。

その2へつづく)


[1] 智瑞芝.「地域革新から見た大学派生企業の研究――日本の事例」[M]. 北京: 経済科学出版社, 2008.

[2] Kroll, H., Liefner, I. 「Spin-off enterprises as a means of technology commercialisation in a transforming economy--Evidence from three universities in China」[J].『Technovation』,2008, 28:298-313.

[3] 智瑞芝.「地域革新から見た大学派生企業の研究――日本の事例」[M]. 北京: 経済科学出版社, 2008.