第149号
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科学技術イノベーションシステム改革開放40年の縮図(その1)

2019年2月6日 楊智傑(『中国新聞週刊』記者)/江瑞(翻訳)

改革開放当初、科学技術界が重点的に取り組んだのは、極左思想を一掃して正常な研究秩序を取り戻し、研究者を増やし、科学技術関連事業を「文革」前の水準に戻すことだった。大学入試が再開されると、大学や研究機関における人材育成や留学生の派遣なども続々と復活を遂げた。

 季向東(ジー・シアンドン)は最初にこの政策の恩恵を受けた1人だ。1978年に同済大学に合格、学部卒業前の1982年に北京大学物理学部の大学院に進学が決まり、同時に北京大学の推薦で当時の公費留学プログラムCUSPEA(米中物理学大学院生共同育成プログラム)にも選抜された。

 当時、中国の科学技術人材は極めて不足しており、鄧小平は「主に自然科学を専攻する留学生の数を増やすことに賛成する」と発言していた。1979年1月の訪米では、当時のカーター大統領との間で米中留学生相互派遣協定を交わすことに成功したが、両国の試験制度の違いから、中国人学生は当初、なかなか留学の道を開けずにいた。こうした状況を見かね、海外で高い学術的評価を得ていた華人研究者が、中国が世界から進んだ科学技術を学ぶための窓口役を買って出た。

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写真1:2017年9月13日、「暗黒物質探索」というテーマで講演中の上海交通大学四川研究院院長・季向東氏。主として核及び粒子物理学の先端分野の研究に従事しており、国際チームPandaXの発起人兼スポークスマンでもある。 写真/中新

科学技術体制改革のスタート

 1979年、GREやTOEFLに代わる新たなアメリカ留学の選抜方法を模索していたノーベル物理学賞受賞者の華人・李政道(リー・ジョンダオ)氏は、物理学専攻の中国人学生をアメリカに派遣するプログラムCUSPEAを提唱した。これに触発され、80年代には生物化学分野のCUSPEAプログラムや数学分野の陳省身(チェン・ションシェン)プログラムも誕生した。改革開放後、最初の留学ブームを牽引したのはまさにこうしたプログラムである。

 季向東はCUSPEAの筆記試験と面接試験を無事パスし、人生初の「大金」である800元 ―― 大学時代に支給されていた奨学金は毎月わずか19.5元だった ―― の留学用衣服代を手にした。外国のことは何も知らなかった季向東は、その資金でスーツと革靴、革の旅行カバンに各種生活用品を買い、ドキドキしながらドレクセル大学に飛び立った。1983年のことだった。

 中国国内では、研究体制の回復と再建が進むにつれ、経済建設も科学技術の支援を必要とするようになっていった。1982年に開かれた中国共産党第12回全国代表大会〔十二大〕の政府活動報告では、科学技術が初めて国の経済発展における戦略的重点に掲げられた。続く10月に開かれた全国科学技術奨励大会では、国務院指導部が「科学技術事業は経済建設志向(面向)でなければならず、経済建設は科学技術に依拠(依靠)したものでなければならない」(略称「面向」「依靠」方針)という戦略的指導方針を打ち出した。これは以後の科学技術体制改革を指導する際の基本方針となった。

 建国初期の中国の科学技術体制は「ソ連モデル」を基にしており、経済体制同様、政府による計画管理がなされていた。この体制は「挙国体制」とも呼ばれている。その長所は明確で、重要な科学技術上の課題を解決するために、限りある資源を戦略目標に集中的に振り分けることが可能な点だ。しかし、「挙国体制」は市場に対する感度と調整に対する柔軟性が欠けており、目標設定にズレが生じた場合の軌道修正メカニズムがないという指摘もあった。

 1980年代初頭、中国国内では科学技術資源の蓄積が図られ、科学技術者は数万人から数百万人に、研究機関は数十カ所から1000カ所以上に、科学技術投資も年数千万元から数十億元に膨れ上がった。それに伴い、産業部門の研究・開発力の弱さ、人員の必要以上の多さ、効率の低さという体制の問題が日に日に明らかになってきた。

 1984年10月、中国共産党第12期中央委員会第3回全体会議〔第12期三中全会〕で「中国共産党中央委員会の経済体制改革に関する決定」が承認され、計画的商品経済を発展させることが提案された。その1カ月後、当時国家科学技術委員会委員だった呉明瑜(ウー・ミンユー)氏は、代表団を率いてオーストラリアを訪問中、突然帰国命令を受けた。帰国後にようやく知ったのだが、党中央が科学技術体制改革の実行を決定したため、一刻も早く改革方案の起草に加われとのことだった。

 呉明瑜氏は口述筆記による自伝『科学技術政策研究三十年』の中で、他分野に先んじて改革に踏み切った科学技術は1977年から対外交流を開始しており、科学技術事業の体制や傾向等について、先進国からいろいろ学んだと語っている。

 1985年3月13日に「中国共産党中央委員会の科学技術体制改革に関する決定」が公布されると、中国の科学技術体制改革は本格的に始動した。改革の本質的目的は、「科学技術の成果を迅速に幅広く生産に応用し、科学技術者の役割を十分に発揮させ、科学技術による生産力を向上させ、経済・社会の発展を促すこと」と明確であった。

 胡耀邦(フー・ヤオバン)は科学技術体制改革を「大軍を動員して山に桃を取りに行かせる」とたとえた。「山に」は、科学技術界と知識界を「四つの近代化」に動員すること、「桃を取る」は、生み出した科学技術上の成果を「四つの近代化」に応用することを意味していた。

 科学技術と経済との関係は、終始中国の科学技術体制改革について回る核心的問題だったが、1985年の改革が1つの大きな節目となり、以後30年以上に及ぶ技術発展の最終目的は、「早急に経済に貢献すること」だと定められた。

 当時、科学技術の有用性が過分に強調されていたことについて、中国科学学・科学技術政策研究会名誉理事長で元中国科学院党組副書記の方新(ファン・シン)は、具体的な歴史的背景と結びつけて考察することが必要であり、多くの「賭け」も致し方ない選択だったと考えている。80年代初期は何を買うにも配給切符が必要で、結婚して家具を買うための切符ですら長いこと待たされた。当時は計画経済の時代で物資が不足しており、社会全体で供給が追いつかず、いかに経済を発展させ人々の需要を満たすかということが課題となっていた。それゆえ政府は科学技術に大きな期待を寄せたのである。

 当時の経済体制改革同様、科学技術体制改革の重要な方法の1つが市場メカニズムの導入だった。例えば、研究機関への割当金制度を改革したことで、研究機関はこれまでのように「受け身」の姿勢でプロジェクトをただ待つのではなく、どこか他のところから資金を獲得してこなければならなくなった。競争型助成金や整備された技術市場といった経済的利益は、研究機関及び研究者の考え方を変えていった。改革はまた、科学技術者の終身雇用制を打ち砕き、合理的な人員流動を促しもした。「863」計画〔国家ハイテク研究発展計画〕は、当時の科学技術体制改革を代表する政策の1つだ。この計画の背景には、当時、中国が科学技術の発展において直面していた現状があった。

 1984年、米ソが覇権争いを繰り広げる中、アメリカのレーガン政権は「スターウォーズ計画〔戦略防衛構想/SDI〕」を打ち出した。これを受け、翌1985年にはヨーロッパ諸国が「EUREKA〔ユーレカ/欧州先端技術共同研究計画〕」を、ソ連と東側諸国が「2000年までのコメコン諸国の科学技術促進に関する総合計画」を、韓国が「2000年に向けた国家長期発展構想」をそれぞれ制定した。

 中国の科学技術もそれ以前に、ウシ膵臓由来インスリンの人工合成や、「二弾一星〔原爆・水爆・人工衛星〕」の開発成功といった重要な成果を収めていた。だが、改革開放が始まり国外に目を向けてみると、世界の科学技術は大変革の真っ只中にあった。科学と技術、技術と経済が緊密に結びつき、研究成果は直ちに経済分野に応用されるようになっており、各国間の競争も、軍事、経済といった単一分野の競争から、科学技術を中心とした総合的国力の競争に移行していた。

『中国科学技術統計年鑑(1992)』を見ると、改革開放初期の中国ハイテク産業の生産額は100億元未満である。当時の国内外の現状を憂慮した4人の科学者は、1986年3月3日、連名で鄧小平に書簡を送り、中国も独自のハイテク戦略が必要だ

と訴えた。

 鄧小平は「この件は先延ばしにすべきでない」と判断し、すぐにゴーサインを出した。そして1986年8月に採択されたのが「863計画」であり、1987年から実施された。

「863計画」は、従事する専門家が選抜を経なければ参加できなかったり、研究課題を企業から募集するなど、従来のプロジェクトとは異なっていた。これらの変化は、1985年からスタートした科学技術体制改革の成果である。

 この時期におこなわれた科学技術体制の調整としては他に、科学技術によって農村経済の振興を図り農民を豊かにすることを旨とし1985年から実施された「星火計画」や、1987年採択の「技術契約法」等がある。

 研究機関の発展は計画通りに進んでいたが、問題も生じていた。科学技術体制改革を実行したことで、研究機関は予算を割り当てられなくなったが、経済発展は科学技術に対して特に内在的ニーズを持たなかったため、自力で資金を獲得できない研究機関は給与を支払えなくなっていた。80年代末には「ミサイル研究より茶卵を売ったほうが儲かる」という現象が起き、科学人材は枯渇していた。

「863計画」は、世界最先端の技術に追いつくために制定されたものであったが、同時に、ビッグプロジェクトを通じて科学人材の確保を図ろうという政府の狙いもあったのだ。

「攀高峰」〔高みを目指す〕

 1991年、マサチューセッツ工科大学〔MIT〕で博士課程を終え、そのまま准教授となった季向東は、たびたび中国国内の学術界と交流する機会を持つようになった。そのとき肌で感じたのは、中国国内の科学研究の条件の悪さと、教授の待遇の低さだった。しかも当時、中国は民間ビジネスへの転向ブームで、科学研究を志す者は少数派だった。

 この当時、アメリカと中国の大学教授の給与格差は、なんと100倍もあった。国際会議に中国の研究者を招く場合は、往復の飛行機代を負担するのが暗黙の了解になっていた。

 1992年初頭、鄧小平は南巡講話を発表し、経済体制改革の加速を打ち出した。同年10月の中国共産党第14回全国代表大会〔十四大〕で、社会主義市場経済体制の建設が正式に提起され、中国共産党第14期中央委員会第3回全体会議〔第14期三中全会〕でも「中国共産党中央委員会の社会主義市場経済体制建設における若干の問題に関する決定」が採択されたことで、次なる段階の科学技術体制改革において市場メカニズムを運用する際の重要な根拠が出揃った。

 この段階に至り、科学技術事業の方針には明らかな変化が生じていた。1995年に「科学技術の進歩を加速させることに関する決定」が公布され、80年代初頭に打ち出された「面向」「依靠」方針に「攀高峰」が加わった。

 これが科学技術体制改革における重要なターニングポイントになったと方新は見ている。「攀高峰」が強調しているのは、科学技術は経済建設に貢献するだけでなく、技術の高みを目指し科学そのものを発展させなければならないということだ。国の科学技術政策もこれに伴い、基礎研究と科学技術人材を安定させると同時に、これまで以上に社会や経済建設に貢献していく政策に変わった。

 明らかな変化は、科学研究への財政投入が増加し、基礎研究が重視されるようになったことである。1992年、国は長らく経済と社会の発展を妨げていた科学技術分野の重要問題の解決を図るため、「攀登計画」(国家重点基礎研究・重大基幹プロジェクト計画)を打ち出した。同時に自然科学基金への投資も拡大させ、設立当初の1986年にわずか8000万元だった割当金は、1996年には6億4500万元まで増加した。1996年以降は、国家財政にそれほど余裕がない中でも年率20%を超えるペースで自然科学基金への投資を拡大させていった。

 1997年の国家科学技術指導グループ第3回会議では、「大集中、小自由」の原則に基づく基礎研究事業計画が決定された。これは、自由な方向性の研究は自然科学基金が主に支援し、重要な科学技術上の問題については、国が計画的に支援するというものだった。

 これを受け、「攀登計画」をベースに、オリジナルなイノベーションを強化し、農業、エネルギー、情報、資源・環境、人口と健康問題、素材、総合・学際及び重要先端科学などの学課で総合的な研究をおこなう「973計画」〔国家重点基礎研究発展計画〕が実施された。「973計画」は2006年までに計301項目のプロジェクトが立案され、国家財政投入は62億元にのぼった。同計画の資金援助の範囲の広さや金額の多さは、いずれも前代未聞だった。

 「科学技術の進歩を加速させることに関する決定」が果たしたもう1つの重要な貢献は、「粗放型」の経済成長を「集約型」の経済成長へと転換させ、科学技術の進歩と労働者の素質向上により経済成長を実現させる道へと進む、「科学教育立国」戦略を提唱したことだ。

 80年代末から生じていた科学研究人材の高齢化と後継者不足問題を解決するため、各部門は人材誘致計画を多数打ち出した。例えば国家自然科学基金委員会は、科学及び技術分野の若い人材の成長を促し、海外で活躍する研究者の帰国を奨励するため、1994年に国家傑出青年科学基金を設けた。同年、中国科学院は、国内外の優れた人材を極めて高待遇で誘致する「百人計画」を制定した。上記以外の海外人材呼び戻し政策である「長江学者奨励計画」「春暉計画」「国家百千万人材育成プロジェクト」、並びに、高等教育機関の重点化政策である「211」「985」プロジェクトもこの時期に決定されたものだ。

 中国科学院大学公共政策及び管理学院教授の劉雲氏の統計によると、1995年から2001年までの間、中国国内では107の科学技術人材政策が実施されており、うちインセンティブ政策の割合が最も多い21%、人材活用政策が15%を占めていた。プロジェクトによる支援と人材政策による誘致の効果で、社会における科学技術人材の地位は回復していった。

その2へつづく)


※本稿は『月刊中国ニュース』2019年3月号(Vol.85)より転載したものである。