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【16-011】中国的権利論①

2016年 8月 5日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

処方箋の作られ方の学習=私たちの責務

 前回のコラム の最後で、現代中国法においては処方箋の作り方が私たちと違うことを指摘しました。これはとても重要なことです。そして、この作り方の違いについて説明することはさらに難しい。そのため、説明し難いということは問題があるのだと突き放してしまった方が楽なのです。例えば、本コラムで真っ先に取り上げた「人民主権の法秩序」もその例です。ここで国民主権の法秩序でないことが問題だと突き放した方が説明しやすく、分かりやすい。しかし、それでは現代中国法を説明したことに必ずしもなりません。

 前回までのコラムでお話ししてきたことは、言ってみればソフト面からの説明です。私たちが誤解する理由(第1回) 、現代中国法の正当性(第2回) 、そして双務的状況の例(第3回) において現代中国法と対話するうえで、私たちの分析視点を確かめました。一方、今回の3部からなるコラムは、ハード面からの説明です。現代中国法と向き合って因果関係を解明する場合に、偏見や上から目線にならないための方法論をご紹介します。いわば処方箋の作られ方の学習です。

 これは、私たち日本人にとっては責務であると言えるかもしれません。なぜなら、日本国憲法を通じて、いずれの国家も自国のことだけに専念して他国を無視してはならず、自国の立場を維持しつつ他国と対等関係に立とうとする責務があることを信じ(参考:「日本国憲法」国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html)、この崇高な理想と目的を達成することを、私たちは誓っているからです。私たちが他国と対等関係に立とうとするならば、共に生きる社会(共生社会)を実現することが必要です。そのためには相手の思考を理解して対処するだけの力量を備えなければなりません。

権利論研究の現在地

 ハードの面に当たる権利論で重要なことは、いわば「自分勝手な前提を持ち込むな!」として叱りつけないこと、すなわちその前提を構造化し、(可能な限り)非主観的に整理することです。もし、人民主権の法秩序を実現する権利論を構造化できれば、対話をその分だけ進められますし、お互いの懸念事項についての合意点も探りやすくなるでしょう。また、どうすれば相手の懸念を解消できるか、どうすれば自分の懸念を解消させられるかも伝えやすくなるでしょう。(例えは悪いですが)実体が掴めない現代中国という「ごんごし(お化け)」に、私たちが骨格を与えることによってその動きを解明する手段が権利論なのだと考えて頂ければ結構です。

 さて、この権利論の研究につながる先行研究が戦後直後の日本に幾つかありました(例えば平野義太郎「新民主主義の国家」『人民の法律』近代評論社1949年、福島正夫「社会主義社会における矛盾と法――中国法理論の新動向」『東洋文化研究所紀要』1966年および同『中国の人民民主政権』東京大学出版会1965年など)。しかし、その後、現代中国自体が混乱したこと、東西冷戦という外部環境の出現等によって、この研究は回避されてきました。回避するだけならばまだ良かったのですが、その間に独裁というレッテル貼りの嵐を吹き荒らし、問題視することを研究とするようになりました。そして、文化大革命が終結した80年代以降は、現代中国の社会現象を日本へ伝えることが研究であるとさえされました。

 肯定的に捉えるならば、これらの「研究」は現代中国法の権利論研究を進展させる材料や機会を提供したと言えるでしょう。しかし、私たちはそれを活かせず、ツケてきたとも言えます。そこで今回、このツケを完済して現代中国法を研究するスタートラインに立ちたいと思います。

出発点としての権利論

 権利論は法秩序を実現するための手段です。では権利論とは何かと言えば、それは人間関係を秩序づける考え方です。権利論とは権利を媒介にして人間関係を関係づける論理群なのです。そうすると、権利とは何かが問題となります。この問題を考えていくと、権利を規定するのは法であるため、法とは何かが問われることになります。そして、法学は、道徳や宗教と何が違うのかという説明から、法について明らかにしてきました。

 結論から言えば、法が道徳や宗教と違うところは、法がその社会の構成員全員の行動原理として作用するための外的強制力をもち、社会を秩序づけるところにあります。道徳は個々人の内面的原理として作用し(これを内的強制力と言います)、自己を秩序づけます。宗教は超越者との関係を秩序づけます。要するに、法、道徳および宗教はいずれも人間関係を秩序づけますが、道徳は自己の自律を直接に促すだけ、宗教は超越者との関係で自己を関係づけるだけなのです。したがって、法が道徳と偶々重なることはあっても、法が道徳に取って代わることは有り得ません。

 一方、法が想定する範囲は道徳や宗教以上のものです。法は社会の構成員全員の行動原理(遵守するか、遵守しないならばそれを回避するように行動するという意味を含む)です。したがって、法が社会の構成員全員に影響するには自己の外側から強制する何か、すなわち外的強制力が必要で、この外的強制力を正当化するものこそが権利論です。

 それでは、権利論そのものの話に移りましょう。私たちの権利論は、媒介となる権利について、権利を行使するところに注目して人間関係を関係づけてきました。例えば、守られるべき権利が侵害された(る)から、その損失(将来的損失も含む)を回復するよう訴える、またはその権利を保護するという論理です。権利の行使は権利を保護するためです。ゆえに、攻撃を受けることを想定し、どのような論理で権利を保護するかを中心に権利論を進展させてきました。これを保護論理と言います。

 このような権利論において重要なことは、権利の行使を国家対個人の対決型の行為として捉えること、すなわち国家権力は常に個人の自由の侵害を企む悪い奴ということです。ジョーカー的な国家権力は暴走する危険が常にあり、個々人が権利を意識しなければ、知らず知らずのうちに侵害されてしまうから、国家対個人における権利論を深化させ、そこで守るべき権利についての保護論理を充実させなければならないとされてきました。

主張型権利論という考え方

 例えば、表現の自由(という権利)は、まさにこの国家対個人の関係を前提に進展してきました。ジョーカー的な国家権力に一個人が対峙するのはどう考えても一蹴されるに決まっています(上司に逆らうことが出世の機会を失うことを意味するのと同じですね)。この場合、合理的に考えられる個人であれば、沈黙を守るか、対峙しないで嵐が過ぎ去るのを待つことでしょう。

 しかし、この態度が大きな危険をはらむことになります。直接の被害者であるこの一個人についてそれで良いとしたら、国家権力から侵害されているこの一個人さえ守れなかったという事実が、なし崩し的に他の個人に対する侵害の可能性を高めることになるからです。つまり、第一の被害者であるこの個人に国家権力と対峙できる程度の声を挙げる権利を保障しなければ、表現の自由一般を失いかねないわけです。つまり、この個人の言いたいことを言う自由を保障することが、国家権力の暴走を抑制することにつながるのです。私たちの権利論は、このような国家対個人の関係を前提にしています。

 そして、このことを個人対個人の関係でも応用しています。例えば、AさんとBさんが売買の約束をし、この売買の合意に基づいてAさんがBさんに代金を支払ったとします。代金を支払った時点で目的物であるその物に対する所有権をAさんは得ているはずですが、Bさんがその物を引き渡さない場合もあるかもしれません。この場合、Aさんは約束を果たしているのだから、Aさんの所有権が侵害を受けていると解釈してAさんを守らなければ、同様の取引の自由が脅かされることになります。Bさんに目的物を引き渡すよう請求する権利をAさんに認め、Bさんに売買の合意を履行させることが、結果として取引の自由一般を保障することにつながります。

 このように、個人対個人の関係においても損害を受けることを想定し、受けた損害を保護するために被害者にどの程度までの主張を認めるのか。言ってみれば、主張を可能とする権利の内容をどうやって充実させていくかを保護論理は考えるのです。したがって、保護論理が私たちの権利論を進化させてきたと言えます。

 国家対個人および個人対個人の例に共通するのは、自己の権利を保護するために、個人が主張することを前提として保護論理を組み立てるところです。保護論理とは攻撃こそが最大の防御、つまり主張する自由を最大限に認めることによって、法が定める権利を保護しようとする論理です。この保護論理を私たちは権利論の中心に置きます。私たちの権利論はいわば主張型の権利論なのです。主張型権利論においては個人が強くなければならないし、強い個人の存在が前提でなければ実現できません。

合理的個人という前提

 主張型権利論は、権利を媒介として対立的に個々を関係づけていきます。極端な話をすれば、極めて軽微な被害であろうと誇大してみせることで(そしてその主張に成功すれば)自己の権利を保護できます。法が定める権利について条文を解釈し、自己の主張の論理整合性を高める一方で、相手の主張する論理の問題を指摘し、相手の条文や判例に関する解釈を誤りだとして退ける「口のうまさ」、あるいは情報や証拠等を独占する個人が必然的に強くなります。

 もちろん、主張型権利論は、このような口のうまさ等の不平等が「強い個人」かどうかの分岐点となることを警戒する論理を組み込んでいます。誇大行為による個人の権利行使(権利の濫用)を戒める公共の福祉や公序良俗の規定、あるいは情報強者に情報の提供を強いる挙証責任の転換の規定等の論理がこれに当たります。これらは自制的な主張を求めるので、自制的論理と言えます。この自制的論理が主張型権利論の中で調整的な役割を果たしていると考えて結構です。

 とはいえ、自制的論理に依らなければならないケースはレアなもので、軽視(無視)できるものとして扱われていることも事実です。例えば、表現の自由を定める日本国憲法21条も、条文自体は無制約の自由を与えます。同条は集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由を保障すると規定し(1項)、検閲の禁止、通信の秘密の保護を規定します(2項)。この条文を解釈する限り、日本社会において表現の自由は国民である否かに関わらず認められ、検閲が禁止され、また通信の秘密も侵されないと理解できます。

 同条の立法趣旨をめぐっては、戦前の日本における表現の自由を侵害した歴史によるという説明が一般です。しかしながら、それに加えて重要なことは、表現の自由を無制限に与えても、合理的な思考のできる人間(これを合理的個人と言います)は、軽微な侵害による損失とそれを誇大してみせて法的救済を受けるためのコストとを比較し、合理的な判断を下せるはずであるとの前提があったからこその、無制約の自由でした。それゆえに、表現の自由を侵害する権力からの規制を厳格に制約する方向で議論は進展してきました。

主張型権利論の課題

 主張型権利論は私たち一人一人に確かな自由を与え、強い個人になることを勧め、私たちもそれに応じて成長してきました。しかし、現代社会は主張型権利論に組み込んだはずの自制的論理が抜け落ちた権利論へと変質しつつあるように思います。

 例えば、ヘイトスピーチはその例と言えるでしょう。自己の表現の自由を過度に行使すると、それは他人の自由を脅かす可能性がありますね。また、表現の自由の行使だからといってどんな表現を用いても構わないとすると、それは言葉の品位を落とすだけでなく、それが直接の暴力を誘発する可能性を高めることになります(貶し合うことを美徳とする人からは理解できないかもしれません)。しかし、これらの事象は、表現内容の規制に関する問題として憲法学などでこれまでも研究されてきたものでした。

 先ほど自制的論理が抜け落ちた権利論へ変質中であると言いましたが、それはこのようなことを指します。その一方で、そもそも私たち一人一人が合理的個人であるならば、ヘイトスピーチといった社会現象が問題化することはないはずです。共存社会から共生社会へと社会の進む方向を修正する中で、合理的個人という前提の見直し時期を私たちの社会はとっくの昔に迎えていたのかもしれません。

 対中関係における諸問題においても、同じことが言えます。自制的論理が抜け落ちているために平行線を辿っている節があるように見受けられるからです。お互いに主張し合うこと自体は、相互理解を深めるという意味で結構なことだと思います。しかし、合意点を見出せない中での対立は、時に判断を誤らせる危険を極度に高めます。「自分勝手な前提を持ち込むな!」と突き放すことは、この危険を「終わりのはじまり」に立たせるトリガーに見えて仕方がありません。そして、中国的権利論はこのような主張型権利論とは一線を画すような権利論を確立する途を辿って来たために、私たちには自分勝手な前提に見えてしまうのです。私たちは、私たちの責務をまず果たすべきではないでしょうか。


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