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第115回CRCC研究会「中国工業化の歴史-化学の視点から-」(2018年3月7日開催)

「中国工業化の歴史-化学の視点から-」

開催日時:2018年3月7日(水)15:00~17:00

言  語:日本語

会  場:科学技術振興機構(JST)東京本部別館1Fホール

講  師:峰 毅 氏

講演資料:「 中国工業化の歴史-化学の視点から-」( PDFファイル 568KB )

講演詳報:「 第115回CRCC研究会講演詳報」( PDFファイル 4.08MB )

中国工業化のルーツの一つに日本の技術 峰毅氏が指摘

 中国の工業化を中心に中国経済研究を続ける峰毅氏が3月7日,科学技術振興機構(JST)中国総合研究交流センター主催の研究会で講演し,中 国が清朝末期から今日に至るまでどのように工業化を成し遂げてきたかを詳しく紹介した。

 現在では中国が重視する国はアメリカであり,日本が中国に及ぼす影響は年ごとに小さくなっている。しかし,中国に近代工業が誕生した19世紀末から20世紀末までは,日 本は中国に最も大きな影響を与えた国であった,と峰氏はいう。日本は長年中国から文化を輸入してきたが,これが逆転したのが明治期である。日本の明治維新は中国に大きな影響を与え,日 本がはじめて中国に文化を輸出した。それ以降つい最近まで,日本は,いい意味でも悪い意味でも,中国に最も強い影響を及ぼす国であった。日本自身はあまり自覚しないが,改 革開放においても日本の政治や経済が中国に大きな影響を与えたことが,最近の研究業績で明らかにされつつあるそうだ。

 中国経済を理解するには歴史的な視野を持つことが大切だと峰氏は強調する。アメリカに次ぐ経済大国として大きな存在感を持つに至った現在,あるいは,改 革開放政策の下で類まれな成功をみた1980~1990年代の中国のみを観察するだけでは中国への理解が浅くなるという。改革開放期に突如として現れたかにみえる民営企業のルーツが中華民国にあったという研究,あ るいは,旧満洲国の経済遺産が毛沢東時代の経済を支えていたことなどを明らかにした研究成果が最近は発表されているそうだ。工業化が始まった清朝末期から,中華民国時代,計画経済時代,改 革開封時代を通した100年から150年という大きな歴史の流れの中で,中国を理解することの重要性を峰氏は強調した。

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 峰氏の講演内容は多岐にわたるが,その中から,戦前の日本が建設した東北地方の産業遺産が新中国政府の手で再建され毛沢東時代の中国経済を支えたこと,自 力更生政策の結果中国は石油化学の国産技術の開発に失敗したこと,日本ではあまり知られていない日中経済知識交流会を中国が今でも高く評価していること,世 界の注目を浴びる大型石炭液化プラントの技術開発のルーツが戦前日本の水素添加技術であること,をここで簡単に紹介したい。

毛沢東時代の中国経済を支えた東北地方

 戦前日本が総力をあげて建設した満洲国の工場群は,中華人民共和国誕生後,新政府が東北復興を最優先する政策をとり,急速に戦前の水準を回復した。鞍山,本渓湖の鉄鋼,吉林,撫順,大連,錦西の化学,撫 順のアルミ,瀋陽,ハルビンの機械など,いずれも日本が敗戦前にその地に根付かせた技術がルーツとなった。峰氏が示した状況で興味深かったのは,敗戦後も中国側からの要請で中国に残った「留用技術者」と 呼ばれる日本人技術者の活躍である。ソ連の支援で実施された第1次5カ年計画(1953年~1957年)期間中の中国には,ソ連の技術者が1,000人前後常駐していた。一方,「留用技術者」と 呼ばれる日本人技術者は,その状況は現在でも十分に解明されていないが,1946年9月時点で東北地方だけでも11,000人になる。「日本の技術者の数はソ連より一桁多い」と,峰 氏は日本の影響の大きさを指摘した。

 復興期が終わると中国は第1次5ヵ年計画に入る。通常「ソ連支援の第1次5カ年計画」といわれるが,第1次5カ年計画にも戦前日本の影響がみられるという。峰氏が中国文献を基に作成した資料の中に,氏 がいう東北地方が占める地位の大きさを裏付ける数字が載っている。第1次5カ年計画で建設された初期の重点プロジェクト50工場の地域分布を見ると74%に当たる37工場が東北地方。最 終的には150工場建設された重点プロジェクトでも,東北地方がなお37%を占める。徐々に比率は小さくなっていったとはいえ,東北地方が中国経済を支える最重要工業地帯だったことが分かる。東北地方は,戦 前日本の最新鋭技術が投入され,同時に,日本にない技術はアメリカやドイツから技術導入して建設された。それが新中国成立直後の復興期に再建された結果,東 北地方は毛沢東時代の中国経済を支えた重化学工業基地になったという。

国産石油化学技術開発の失敗

 中ソ論争の結果,ソ連は1960年に技術者を引き上げてしまう。1969年には国境地帯ウスリー川ダマンスキー島で中ソ武力衝突が勃発し,加えて,ベ トナム戦争に本格介入した米国とは決定的な対立状態となる。その結果,中国は戦時経済体制を想定して沿海部の工場立地や大規模生産を避け,内陸部に小型工場を数多く建設するという政策を取った。だが,こ のような政策にもかかわらず,中国は鎖国政策をとったのではない。毛沢東時代の中国は1963~1965年,1973~1976年と2度大規模な西側技術導入契約をした。

 しかしながら,第1次の1963~1965年は,日本とヨーロッパ企業から技術導入したものの,台湾と米国による政治的妨害を受けた。日本はクラレのビニロンプラント以外は契約が実施されなかった。ヨ ーロッパは米国の政治的圧力をかいくぐって契約履行に努めた企業もあったが,1966年に始まった文化大革命の影響で技術者が中国社会に受け入れてもらえず,技術導入は実質的に実施されなかった,と峰氏はいう。

 他方,第2次の1973~1976年の技術導入は,1972年に米中和解と日中国交正常化があったため,ほぼ全てのプロジェクトが契約通り実施された。中国にも大型工場が建設され,工 場建設も沿海部でなされるようになった。この第2次の西側技術導入の実施により,中国社会は大きな影響を受けた。そして,この第2次の技術導入の結果,中国にもやっと石油化学工業が成立するようになった,と 峰氏は述べる。中国は1960年代から多大な資金と人的資源を投入して石油化学の国産技術開発に努めたが成功しなかった。国際社会から隔離された環境下での自力更生と小型生産の下では,中 国は国産技術開発には成功しなかった,と峰氏はいう。

中国が今でも高く評価する日中経済知識交流会について

 日中経済知識交流会は日本ではほとんど知られていないが,峰氏によれば,日本が改革開放で果たした大きな事例とのこと。日 中経済知識交流会は戦後日本の経済復興と高度成長に貢献した元外務大臣の大来佐武郎と,中国経済政策実行の中心人物の一人であった副総理、谷牧の合意により1980年に発足した。初 期の会議では両国の経済制度や理論の相違から正確な理解が困難であったが,日本を代表する経済学者が度々中国を訪れ,西側の経済概念を中国に知らしめたそうである。日本の近代経済学者が動員されたが,そ の一人である小宮隆太郎東京大学教授(当時)が訪中し中国企業を観察して,「中国には企業が存在しない」と指摘し中国の国家指導者に大きな影響を与えた。

 日中経済知識交流会は計画経済時代と全く異なる企業理念を中国社会に与える点で貢献した。日本の経験が明治維新のみならず戦後復興も,中国の現代化政策に影響を与えた好例とのこと。中 国側の要請で日中経済交流会は非公開とされた。そのため日本で報道されることがなく話題にならなかった。中国は日中経済交流会を高く評価してその後も継続されており,尖閣問題で日中関係が最悪だった2012年,2 013年でも開催されたそうである。

世界が注目する中国の石炭液化技術のルーツは満鉄撫順

 日本の貢献が大きい事例として峰氏が最後に紹介したのが石炭液化技術の開発。氏によるとこの技術のルーツは満鉄撫順の石炭液化工場の直接液化法で,石炭を高温高圧下で水素を添加するという方法だ。中 国では石炭液化工場が第11次5カ年計画(2006年~2010年),第12次5カ年計画(2011年~2015年)で次々に商業運転に入り世界を驚かせた。この技術は戦前に満鉄撫順が研究開発した水素添加( 水添)技術が出発点になっている。

 満鉄撫順の水添技術は社会主義中国に継承され,研究開発が継続されたという。それは撫順の水添技術が,性状が石炭に似ていて精製が容易でない重質の大慶原油の精製技術に応用され,水 添技術開発が継続されたからとのこと。やがて改革開放政策が始まると,中央政府に抜擢された撫順復興の責任者、王新三氏が1979年来日し,戦後復興に貢献した元留用技術者に技術協力を要請した。こ れに対して旧満洲国の技術者たちが広く応じて「東方科学技術協力会」を1980年に設立して訪中団を派遣し,石炭液化研究の再開を中国政府に提言すると同時に関係者が継続的に訪中して技術移転に努めたそうである。< /p>

 一方,同じ1980年につくられた新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)も,石炭液化技術開発をスタートさせた。NEDOは中国人の研究スタッフを日本に招聘して技術研究を支援したほか,1 982年には北京に1日当たり0.1トンの石炭液化実験プラントを建設した。20年間に近い基礎研究の結果,第10次5カ年計画(2001~2005年)で日本の技術協力を超えるレベルに達し,年 産100万トン商業生産プラント建設の成功に目途をつけた。こうして,第11次5カ年計画,第12次5カ年計画で次々と商業生産を開始した。

 「中国独自の工夫によって花開いた石炭液化技術の開発においてもルーツは日本にある,ということを知ってほしい」と,峰氏は講演の最後に日本と中国のつながりの深さを重ねて強調した。

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(写真 CRCC編集部)

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峰毅

峰 毅(みね たけし)氏

略歴

東京大学経済学部卒業。財閥系化学会社に就職し、調査企画部、肥料事業部、国際部を中心に主として海外業務に従事。この間、社命によりアメリカに留学し、ジョンズホプキンズ大学で経済学修士号取得。1 994‐99年北京駐在。その後東京大学に戻り経済学博士号取得。東京大学社会科学研究所を拠点にした中国経済研究のほか、東京大学、防衛省、(中国) 清華大学などで教育活動にも従事。著書は『中国工業化の歴史-化学の視点から-』 (2017年、日 本僑報社)他。