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【10-02】手搏・角抵・相撲

劉心明(山東大学古典文献研究所副 教授)     2010年 7月15日

 テレビの番組でよく目にするこのようなシーン、50センチ程の高さの土の台の上に、直径5メートル近くの丸い枠、丸い枠の中にはほとんど裸に近い太った巨漢2人が、それぞれ中腰の姿勢で、互いに虎視眈々と睨みを利かせている・・・。ここまで言うと、恐らくほぼ全世界の人々が皆、気付くであろう。これが日本の相撲である。

 そう、確かに相撲というスポーツは、既に、寿司や和服、能楽等と同様に、日本文化として深く人々の印象に刻みこまれている。しかし、我々が相撲の歴史を考察していくと、この伝統的スポーツは思いがけなくも、一衣帯水の中国から伝わったということに気付くのである。古への思いをめぐらすことが好きな方々は、時空のトンネルを越えて、遥か昔の古代中国へ、暫し旅してみるのもよいであろう。

図2

 中国において、紀元前221年に秦が統一国家設立する以前の先秦と呼ばれる時代は冷兵器時代と呼ばれ、火を用いない兵器が使用されていた。いわゆる「手搏」と呼ばれる素手による戦闘の能力もまた、全ての兵士にとって、非常に重要なものであった。『礼記・月令』の記載によると、初冬の時季になると、周の天子はしばしば全ての軍隊に対し、「射御、角力を習う」ことを命じたとあり、訓練を繰り返すことで、絶えず弓術と車を御する技術、角力の能力の向上を図っていた。「角力」とは、「手搏(素手による戦闘)」能力を競うことである。こういった訓練は軍隊の中ではしごく普遍的に行われ、大変早い時期から文字に記録されている。『漢書・芸文志』には『手搏』6編が収められており、これは兵書の中の「兵技巧類」に分類される。残念なことに、この書は早くに散逸してしまったため、現在、我々がその内容を知る術はない。『漢書・刑法志』の記載によると、戦国時代、秦は斉、楚、韓、趙、魏の六国を併合するため、この訓練への取組みを強化した。「手搏」の名称を「角抵」と改め、対抗という意味合いを強めた。比較的早い時期に『漢書』の解説を行った文穎によると、角抵とは「両々、角力に相当る」、即ち2人が顔を向かい合わせて、力を競うということである。

 これ以降、角抵は長きに亘って衰えることを知らず、盛んに行われていった。また、それまでは軍事訓練という意義においてのみ行われていたが、後に統治者や貴族らの娯楽観戦のためのものとなっていった。歴代の国王や貴族が角抵観戦のための場所を創設したという事実は、史書の中でも度々、語られている。『漢書・武帝紀』の中には、比較的大きな角抵の行事が2度記録されている。1度は、元封三年(紀元前108年)の春、「角抵劇を作す、三百里より、皆、見るに来る。(角抵劇による行事を催すと、三百里も離れたところからも人々が見物に訪れた。角抵劇とは角抵の技をもとに、物語と音楽を組み合わせた演劇。)」とある。もう1度は、元封六年の夏で、「京師の民、林平楽館に上り、角抵劇を観る(都の民は、林平楽館で、角抵劇を見物した。)」とある。また、唐代の文献の記載によると、玄宗・李隆基、憲宗・李純、穆宗・李恒、懿宗・李漼、僖宗・李儇といった唐歴代皇帝もまた「角抵の劇」をこよなく愛したと記されている。

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 唐宋の時代には、朝廷からの支持を得て、民間の角抵は一時、大変な盛り上がりを見せ、次々と名手を輩出した。唐代の有名な妙手には、富蒼龍、沈万石、馮五千、銭子涛らがいる。さらにもう1人、蒙という姓の、角抵の中で極めて高い勝率を保っていたことから、人々より、万の勝利の蒙と称された「蒙万贏」がいる。宋代になるとその勢いは更に増し、先の時代を大きく凌ぎ、南宋時代の臨安城(現在の杭州市)一帯だけでも、有名な角抵芸人は50から60人にも上った。その中でも撞倒山、金板沓、曹鉄凛、周黒大、曹鉄拳、王急快、董急快、韓鉄柱、黒八郎等はいずれも傑出した人物である。更に宋代には専門的に角抵に携わる女性が生まれた。宋の呉自牧の『夢梁録』の記載によると、当時、臨安城の中では、賽関索、囂三娘、黒四姐、張椿等といった10名程の有名な女性がいたと伝えられている。こういったことから、中国に現存する中で最も古い、角抵を専門に取扱った書である『角力記』が、この時代に生まれたことは、しごく当然のことである。

図4

 『宋史・芸文志』および鄭樵の『通志略』の著述の記録によると、『角力記』の作者は宋代の「調露子」というあだ名を持つ者であるという。この者は、著作の中で、春秋時代から五代までの千年にわたる角抵の歴史を順を追って紹介しただけでなく、述旨(論旨)、名目(名称)、考古(考古学的研究)、出処(出典)、雑説(諸説)等の数章に分けて、角抵の名称の変遷、関連取組規則等の重要な項目について詳細に説明を加えており、大変、興味深い名著である。

 明の万暦年間(1573年から1619年)になると、政府は『万法宝全』の編集および印刷を行い、再び角抵を軍隊の軍事演習の主要な方法とした。この書物は、「六禦(6つの皇帝の持ち物)」の1つに列せられ、詳細に記された解説に挿絵が添えらえている。

 まさに長い歴史の中で、幾度にもわたり行われた研究の総括と内容の向上が、この古い技芸を途絶えさせることなく、清代末期まで綿々と引き継いできたのである。

 角抵はその2千年余りの長きにわたる歴史の中で、度重なる重要な変革を遂げてきている。後世に影響をもたらしたもののうち、大きな意義を持つ2つの事柄について述べたいと思う。

 まず、「相撲」という語の誕生である。『太平御覧』巻七百十五の『江表伝』によると、古くは三国時代、呉の国主・孫皓はかつて「尚方を使して、金を以って假髷を作りて揺らし歩ませむ。これ千の数を以ってあたう。宮人、相撲を以ってこれに着しむを令つ、朝に成て夕に敗、輒ち更め作すを命ず(尚方に命じ、千余りの女官に金色のかんざしで髷を結って着飾らせ、相撲を取らせた。相撲により朝に飾り付けたかんざしは、夕刻には壊れてしまうので、再び命じて新たなかんざしを作らせた。)」、ここで言う「相撲とは」、依然として「互いに叩き攻撃し合う」といった程度の意味である。しかし南北朝と隋・唐に及ぶ数百年の発展と蓄積の歴史を経て、宋代に至ると、この「相撲」という語は文法的にしっかりと結合した二字熟語となった。そのため、宋代の人々はこの「相撲」に対し、非常にはっきりとした認識を持っている。呉自牧『夢梁録』では、「角抵なるものは、相撲の異名なり。(角抵とは相撲の別名である。)」と述べている。高承の手による『事物紀原』の中でも、似たような記述がある。これは、遅くとも両宋(北宋・南宋)期までに、「相撲」という名称がそれまでの「角抵」という旧称に取って変わったことを証明している。

 第二に、「蚩尤劇」の誕生である。後漢の班固の高名を借り、彼の著であるとも伝わる『漢武故事』という書では、漢武帝のに関する奇聞逸事が専門的に語られている。書の中で、漢武帝は人に命じ、素手による殴り合いである角抵をもとに、「四夷の楽を併せしめ、雑うるに童幼を以ってなす(諸民族の歌舞を取り入れ、これを童らに舞わせた)」と伝えられ、音楽の演奏と物語的展開とともに、角抵の動作をまねた演劇表現方法が創設された。『四庫全書総目』に対する考証から、我々は『漢武故事』が班固の著作でも、また漢代の作品でさえもなく、大よそ南朝の斉から梁にかけて、偽名を用いて記された作であると認識している。梁の任昉が『述異記』の中で、引用している別の所説もまた、秦漢時代の伝説からの出典である。その語るところによると、遥か古代、蚩尤と黄帝は涿鹿の野で戦った。この戦いで蚩尤の鬢髪は剣や矛のように逆立ち、頭上に角が生えたようであり、「角をもって人を抵し、人これに向かうに能らず(この角で向かってくる人々を防ぐ)」ことができたとある。後に、冀州(現在の河北省)一帯では、「蚩尤劇」という演劇が生まれ、これを演じる者たちは頭に牛の角を飾り、2~3人が一緒に身体を揺らし、互いの角が競り合う動作をまねた。宋の周密の著作『武林旧事』の中で述べられている「喬相撲」もまた、この種の表現方法の1つである。上述の文献の記載をつなぎ合わせると、我々は、こういった演劇芸術が既に角抵格闘という意味の範囲を超え、実際には後世の演劇演出の起源となっていったことを知ることができる。

 多くの学者が行った考察によると、日本では允恭天皇の葬儀(西暦453年)の場において、中国より特使が派遣され、「素舞(相撲の古称、体格のよい力士が上半身裸で力比べを行う)」を披露することで哀悼と弔意を表したことが、中国の相撲が始めて日本に伝えられた記録だとされている。唐宋時代以降、相撲の技は、中国と日本において、それぞれ異なる発展の道を遂げていった。

図5

 中国では、相撲の力士らは力比べを重視しつつも、道教における、柔らをもって剛を制すという理念の影響を受け、その技の訓練と応用に対し、より一層重きを置いた。『水滸伝』第七十四回に描かれた燕青と任原の相撲の勝負は、人々が大変、よく知る物語である。両人は、体格においても、または体重においても、極めて大きな開きがあった。しかし、最終的に、燕青は機転をきかせ、任原の跳び蹴りによる攻撃をかわしただけでなく、小をもって大を打ち、「四両撥千斤(僅かな力で大きな力を跳ね飛ばす技)」により、鵓鴿旋(鳩旋風、小柄な者が巧みな技で体格のいい者から勝利を勝ち取るための動作)を巧妙に用い、任原の大きな身体を土俵の下へと投げ落とした。この故事から、我々は中国相撲技の特徴が、まさに「すばやい動作、しなやかに折れ曲がる腰、鉄の錐のように刺し込む足」の掛け手による技法であり、その追究するものは、小得合(組み手の技の一種)、穿檔靠(投げ技の一種)、撈(すくう)、磨(競る)、入(寄せる)、蹩(踏ん張る)、掏(つかむ)、耙(かく)、揣(抱え込む)、捆(絞める)等の敏捷な技術的動作であることを感じ取ることができる。

 日本においては、神道の教義と武士道精神の影響を受け、相撲の力士らは、力強さと猛々しさという技芸の境地を追求した。日本の「大相撲」力士らもまた、当然、各種の技を重視し、「相撲技」七十手の中にある、基本技、押し手、掛け手、反り手、投げ手、捻り手およびその他特殊技は、これらを熟練し応用することで、常に勝利を制するための神器となり得る。しかし、彼らはまるで身体的発育と体重の増加を、より一層重視しているかのように、身体的優位勢を得るために、場合によっては1回の食事で一般の人の10倍もの量の食事を取ることもあり、また食事の後はそのまま眠ってしまうことも多い。そのため、263キロにも達するハワイ出身の力士・小錦をはじめ、日本の相撲力士の個々の体重は驚くべき数字に達している。

 現在、中国本土の相撲競技は、その姿を歴史の舞台から消してしまっており、これは非常に残念なことである。しかし幸いなことに、この伝統的技芸は日本に現存するばかりでなく、この地で絶えず大きく拡大の傾向を見せていることが、せめてもの救いである。我々は、相撲の歴史を辿るということは、意義のある、大変興味深いことであると感じている。

劉心明

劉心明(LIU Xinming):
山東大学文史哲研究院副教授

1983.9-1987.6 北京大学中文系 学士号取得
1994.9-1998.6 山東大学古籍研究所 修士号取得
1999.9-2003.6 山東大学文史哲研究院 博士号取得