【11-08】黒白の碁石に古くからの情を思う
朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員) 2011年 8月26日
呉清源と言えば、中日両国民で知らない者はいない。「昭和の棋聖」として、1939年の「鎌倉十番碁」から対局を制覇し始め、15年間にわたり輝かしい戦績からなる全盛期を築いた。呉清源が両国の囲碁の長所を採り入れて大業を成し遂げたのは偶然ではなく、まさに中日囲碁文化のたゆみない交流の結果である。囲碁を仲立ちとした文化交流は悠久の歴史を持つが、それでは両国の囲碁はどのような発達を遂げてきたのだろうか。また、互いにどのように影響し、高め合ってきたのだろうか。本稿では読者に向けて、これらの問題を明らかにする。
一、中国と囲碁
囲碁は人類史上最も長い歴史を持つ盤上遊戯の一つであり、漢民族の伝統文化における精華である。囲碁は中国に始まり、古代には弈と称され、4000年の歴史を有し、夏王朝末期には存在したと伝えられる。囲碁は当初は占星術や算術の手段であったが、後に遊びや知恵比べの道具へと変わっていった。春秋戦国時代の古書「世本」によれば、囲碁は堯により創造された。晋代の学者、張華も「博物誌」の中で「子の商均が愚かだったため、舜は囲碁を創りこれを教えた」と記述している。一方、唐代の皮日休は「原弈」の中で「囲碁は戦国時代に始まり、縦横家 の創造による」としており、「囲碁は有害な欺き・争い・偽りの道である」という説を根拠としている。このように、現存する文献を見ても囲碁は具体的に誰が作ったのかを知ることはできないものの、歴史の長さを伺うことはできる。
1952年、河北省望都県漢墓から出土した石造の碁盤
春秋戦国時代、囲碁は社会に広く伝わった。「左伝・襄公二十五年」には「挙棋不定」のことが記載されているが、「挙棋不定」のような囲碁用語で政治上の優柔不断を比喩していることは、囲碁が当時すでに登場していたことを物語っている。秦漢代に囲碁は遊戯道具の一つとして存在し続けたが、盛んにはならなかった。「西京雑記」巻三に前漢元年の「杜陵の杜夫子は碁に秀で、天下第一人である」との記述があるが、この種の文献はこま切れの記録に過ぎない。後漢元年に至っても、依然として「六博 は世に流行するも、囲碁は打つ者がほとんどない」状況であったが、後漢の中期から晩期にかけて囲碁は再び流行し始めた。1952年に河北省の望都一号漢墓から出土した石造の碁盤は、高さ14cm、縦横各69cmであった。盤面は正方形で縦横各17路からなり、底面には4本の足がつけられている。これは、漢魏代の碁盤の形状に関する象徴的な実物資料である。
漢魏年間は戦争が頻発したため、囲碁の対局も兵法の才能を養うための重要な手段とされた。後漢の馬融は「囲棋賦」の中で囲碁を小戦場と見なし、対局を戦の作戦に見立て、「三尺の局を、戦闘の場と為す。士卒を陳し聚めて、両敵相当る」と記した。三国時代の曹操、孫策、陸遜など、当時の有名な兵法家は誰もが戦場と碁盤という2つの争いの場におけるつわものであった。「建安の七子」の一人として有名な王粲も卓越した記憶力の持ち主と伝えられ、碁盤や着手を熟知し、自分が観戦した「敗着」 について、後に改めて優れた一手を考え出すことができた。
隋代の張盛墓から出土した磁器製の碁盤
(出典:外部WEB)
中国の囲碁のルールは、これまでの歴史で2回の大きな変化を経ており、主に路の増加であった。魏晋時代前後が1回目の変化が生じた時期である。魏の邯鄲淳が記した「芸経」によれば、魏晋時代及びそれ以前は「棊局縦横各十七道、合わせて二八九道、白黒の碁石それぞれ百五十枚」であった。これは、先に紹介した河北省望都県で発見された後漢の碁盤に完全に一致する。一方、莫高窟の石室で発見された南北朝時代の「棋経」では当時の碁盤について、「三百六十一路、あたかも一年の日数である」との記載があり、19路の囲碁が流行していたことを表している。これは現在の碁盤と全く同じであり、当時の囲碁ではすでに現代のルールの大枠が整えられていたことを反映している。
南北朝時代には玄学が起こり、文人学士の間で清談 が盛んになったことから囲碁もさらに栄え、囲碁は別名「手談」と呼ばれた。この頃、19路の碁盤がかつての17路に代わり主流となった。また、隋帝国の対外政策により、遣隋使の手で囲碁が日本にもたらされた。1959年5月、中国の考古学者が河南省安陽豫北紗廠の付近で隋開皇十五年(西暦595年)の張盛墓を発掘したところ、磁器製の碁盤(下図)が出土した。この碁盤は正方形で高さは4cm、縦横各10.2cmで盤上にはたくさんの格子縞が刻まれ、縦横各19路あった。これが現在までに発見されている最も古い19路の碁盤であり、河南博物院に所蔵されている。
唐宋代は、囲碁の歴史で2回目の大きな変化が生じた時期と言える。唐代の「棋待詔」(きたいしょう)制度の実施は、中国囲碁発展史における新たなシンボルと言えよう。棋待詔とは、翰林院において専ら皇帝の囲碁の相手をする専業の棋士である。当時、内廷に仕えた棋待詔は、いずれも大勢の棋士の中から厳しい試験を経て選ばれ、「国手」と呼ばれた。唐代の有名な棋待詔は、玄宗期の王積薪、徳宗期の王叔文、宣宗期の顧師言、信宗期の滑能らである。棋待詔制度の実施により囲碁の影響力は大きくなり、棋士の社会的地位も高まった。この制度は唐代初期から南宋まで500年余り続き、中国の囲碁の発展を大きく後押しした。新疆ウイグル自治区トルファンのアスターナ古墳群の第187号唐墓から出土した「奕棋仕女図絹画」(えききしじょずけんが)は、当時の貴族女性が囲碁を指す様子を描いた象徴的な作品である。当時の碁盤は19路を主な体裁としており、碁石もかつての四角形から円形に変化している。
トルファン・アスターナ古墳群の第187号唐墓から出土した「奕棋仕女図絹画」
このほか、周文矩の「重屏会棋図」も残されており、アスターナ古墳群から出土した「奕棋仕女図絹画」とともに唐代の囲碁の特徴をよく反映しており、この頃に囲碁が変化し、発達したことを示している。
五代の周文矩が描いた「重屏会棋図」
明清代に囲碁の水準はめざましい発達を遂げた。その表れの一つが数多くの流派の出現である。明代正徳・嘉靖年間に3つの有名な流派が形成された。その一つ目は鮑一中(浙江省永嘉出身)を代表として、李冲、周源、徐希聖らにより形成された永嘉派、二つ目は程汝亮(安徽省新安出身)を代表として、汪曙、方子謙により形成された新安派、三つ目は顔倫、李釜(北京出身)を代表とする京師派である。彼らがけん引役になって、長きにわたり士大夫が独占してきた囲碁が市民の間でも広まり始め、一部の「市井出身の棋士」が登場するまでになった。彼らは民間の対戦試合を頻繁に行うことによって、囲碁をさらに普及させた。囲碁が盛んになるにつれて一部の民間愛好家の手による棋書が大量に出版され、「適情録」、「石室仙機」、「三才図会棋譜」、「仙機武庫」、「奕史」、「奕問」など、20種類余りの明代の棋書からは、当時の高度に発達した囲碁技巧や理論をうかがい知ることができる。清康熙年間末期から嘉慶年間初期にかけて奕学はさらに盛んになり、囲碁界には大勢の批評家が現れた。なかでも梁魏今、程蘭如、範西屏、施襄夏の4人を合わせて「四大家」と呼ばれた。
近代に入ると、囲碁は日本で急速に普及して中国は徐々に逆転されるまでになり、清代後期には中国の棋士はすでに日本の棋士に一定の差をつけられていた。一方、中華人民共和国の成立後に中国では囲碁が大いに促進され、新たな世代の名人がめきめきと力をつけた。代表的な棋士は陳祖徳、聶衛平、馬暁春、常昊などである。また、多くの対戦が行われるようになり、中国天元戦、中国名人戦、全国小中学校戦、圍乙リーグ戦、全国個人戦、中国新人王戦、招商銀行杯、理光杯、倡棋杯、爛柯杯、西南王戦、中国圍棋甲級リーグ戦、中国圍棋乙級リーグ戦、NEC杯(廃止)、圍丙リーグ戦などは、囲碁の発展と普及に大きな役割を果たした。
現在、囲碁は主に中国、韓国と日本の三大勢力が鼎立している。
二、日本と囲碁
よく知られるように、日本では囲碁が好まれ、技術も高い。「俗事百工起源」によれば、黒白の碁石は太陽と月の象徴であり、陰陽を表す。四角い碁盤は大地を表す。また、碁盤の縦横十二路によって三百六十の格子が形作られ、一年の日数を表す。碁盤の寸法、縦横一尺二寸は、一年に十二か月あることを表す。
囲碁は古くに日本に伝わった。西暦751年の日本最古の漢詩集「懐風藻」によれば吉備真備が霊亀二年に唐に渡って学び、天平7年(735年)には日本に囲碁、尺度、経書、暦など中国の珍しい品々を持ち帰った。日本人はまた自らの知恵で囲碁の発展を促した。例えば、碁石は白黒の2色から成るため、棋士たちは囲碁を「烏鷺」と呼び、烏を黒石に、鷺を白石に見立てた。今では「烏鷺」と言えば、両国の棋士はみな囲碁を指すことを知っている。唐代に聖武天皇に贈られ、現在は正倉院に所蔵されている象牙細工の施された木製の碁盤こそ、中日囲碁交流の歴史の証人である。
唐代以降、中国と外国との文化交流の発展に伴い囲碁は日本に伝わった。遣唐使が囲碁を日本に持ち帰ると急速に流行し、数多くの名手が登場したばかりでなく、碁石や碁盤の制作にも技巧が凝らされた。例えば、唐代の宣宗大中二年(848年)に朝貢のため唐に渡った日本の王子がもたらした碁盤は「揫玉」を彫り、碁石は「集真島の手譚池中にある『玉子』を用いたと伝えられる。
奈良時代には、宮廷で囲碁をたしなむ人はかなりおり、平安時代には婦女子の間で大変流行した。鎌倉時代に入ると武家や僧侶の間で流行し、室町時代末期には日本の囲碁のレベルはすでに中国に追いついた。安土桃山時代の織田信長は囲碁を熱愛し、常に愛好家たちを従え退屈しのぎにつき合わせた。豊臣秀吉、徳川家康も囲碁を学び、のちには陪席する棋士たちに俸禄を与え、宮中に住まわせたほどだった。
1677年、四世本因坊道策が名人碁所に推挙された。道策の碁は造詣が深く、棋聖として公認されていた。道策は常々、棋士たちに対し、技巧に重きを置いた対局ばかりをするのではなく、全局の調和を求めた。1682年の琉球人の親雲上浜比賀との対局により、日本の囲碁は大きく発展した。
道策の後を継ぎ、四世井上道節、五世本因坊道知がそれぞれ亡くなるまで名人碁所を務めた後は、名人がいなかったため碁所はしばらく空席が続いた。1766年になり、九世本因坊察元と六世井上春碩の間で争碁が打たれると日本の囲碁界に活気がもたらされ、数多くの名人が現れ、日本は江戸時代の文化期から弘化期にかけて(1804年~1844年)囲碁の全盛期を迎えた。
呉清源
徳川幕府末期は政局が安定せず、世の中が大きく変化したため、囲碁は衰退し、その後長い間立て直しがきかないままであった。1879年にようやく村瀬秀甫が中川亀三郎と協力して日本初の囲碁団体である方月社を設立し、囲碁の復興に着手した。もう一派としては本因坊秀和と林家に養子に入ったその次男が、方月社と肩を並べた。両者の関係は対立していたものの、客観的に見れば囲碁の繁栄を牽引するものであった。その後短い期間に次々に囲碁団体が登場し、中には稗聖会、中央棋院、六華会などがあった。黄遵憲は「日本国誌」の中で当時の日本における囲碁の広まりについて、「囲碁こそ名人が最も多く、裕福な家庭の子弟や風雅な青年では心得ない者はなく、良友たちは宴で酒を酌み交わし興に乗ると碁を打ったものだ」と記している。一方、この頃の中国は、アヘン戦争以降は国力が衰え、囲碁も不振であった。1900年代初めに日本の六段棋士である高部道平が訪中し、中国の一流棋士を次々に打ち負かしたことは、日本の技術がすでに中国を追い抜いていたことを意味している。
1924年、大蔵喜七郎男爵が各組織を統一して日本棋院を創設した。棋院が誕生してまもなく、雁金準一を代表とする数名の棋士が脱退を宣言して棋正社を創設し、読売新聞社を説得して日本棋院との対抗戦を実施させた。これが院社対抗戦である。本因坊秀哉と雁金準一の対戦は日本中の囲碁ファンを虜にしたが、結果は本因坊秀哉の勝利で、棋正社は惨敗した。しかし、日本棋院の若い棋士たちの士気はかえって大きく奮いたたされ、囲碁は活発になった。1927年、読売新聞社が他に先駆けて囲碁界の状況を記事にすると、他紙も相次いで囲碁コラムを書き始めた。こうして囲碁は市民の間で根を下ろし、黄金時代を迎えるようになった。1928年にわずか14歳で日本に渡った呉清源は、1933年には59歳の本因坊秀哉名人と対局して「1手目三々、3手目星、5手目天元」という前代未聞の布石を打った。これは道策以来の日本の伝統的な布石理論に対する挑戦であり、彼は現代囲碁理論の開拓者となった。これ以降、呉清源は日本の囲碁界に第一人者として君臨する。
囲碁技術の良し悪しを表すのは「段」であるが、江戸時代には碁所制度があり、実力によって名人、準名人、上手の地位が存在した。中国では魏晋南北朝時代に統治者たちも例外なく碁を好み、碁を以って官位を置き、「棋品」制度を確立して一定の水準に達した「棋士」にその腕前に相当する「品格」を与えた。当時の「品格」は九品に分かれていた。「南史・柳惲伝」には「梁武帝は弈を好み、惲をして棋譜を品定めさせ、登格者は二百七十八人とした」とある。日本の現代囲碁が「九段」に分かれるゆえんはここにある。四世本因坊道策の時代(1645-1702)に名人を九段、準名人を八段、上手を七段とし、五段以上を高位とするようになった。日本は現在、プロ棋士が300人余り、段位を持つアマチュア愛好家が10万人余りいる。有名な棋士には呉清源、小林光一、坂田栄男、趙治勲、武宮正樹、大竹英雄、林海峰、小林覚、石田芳夫らがいる。また、有名な対戦試合には棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、小棋聖戦、NEC杯、NHK杯、新人王戦、女子本因坊戦、女子棋聖戦、女子名人戦、女子最強戦がある。
中日両国間の囲碁交流は現代に至っても順調で、定期的に交流試合が行われており、中日天元対抗戦(廃止)、中日新鋭対抗戦、NEC杯中日対抗戦(廃止)、阿含桐山杯などは新しい世紀の中日囲碁交流に大きく貢献している。
中日両国間の交流の歴史は長く、毎年途切れず交代で交流試合を主催している。黒白の碁石を介した対局によって両国民の友好関係が深まっているため、「囲碁は中日両国民の友情の花だ」と言う人もいるほどである。
朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員
中国山東省聊城市生まれ
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学系 助理研究員