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【11-12】「東海道五十三次」と中国画の密接なつながり

崔 光勳(大連理工大学助理 研究員)     2011年12月27日

 日本では桃山時代から江戸初期にかけて、経済が発達し、人々の生活は安定していた。当時、絵師が版画技術の発展に合わせて創作した彩色版画を「浮世絵」という。日本の絵画史において、浮世絵は独自性を持つすばらしい存在であり、日本ひいては世界の美術史に欠くことのできない影響を与えている。浮世絵は印象派画家の創作観念に大きな啓発をもたらし、一時はヨーロッパでも風靡した。なかでも、「東海道五十三次」は現在でも有名な浮世絵であるが、絵画の世界で長年にわたり高い評判を得てきた浮世絵は、中国の木版印刷と明代絵画の影響を明らかに受けていることから、中国画と密接なつながりがある。

1.歌川広重と「東海道五十三次」

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歌川広重

 歌川広重(Utagawa Hiroshige,1797-1858)は姓を安藤と言い、徳川(Tokugawa)政府に仕える下級武士の家庭に生まれた。15歳で当時の浮世絵界で高名の師、歌川豊広に入門した後、天賦の才が高く評価されて17歳で改姓して師の姓である歌川を名乗ることが認められ、歌川広重の名を与えられた。当初、広重は師に従い、当時流行した人物画を中心に役者絵や美人画を手がけたが、師の死後、28歳で独自の創作を始め、北斎の富嶽三十六景の影響を受けて風景画に転向した。最初の浮世絵版画の連作「東都名所」(Toto-meisho)は10枚からなり、1831年(一説では1832年)に出版され、広重の才能と構図のセンスが発揮された。天保元年、広重は江戸幕府の命に従い、京都に上洛する幕府の行列(八朔御馬進献の儀)に同行した。当時、江戸と京都を結ぶ東海道は往復に14日を要した。53ヶ所の宿場を経る道すがら、広重は沿道の風景を熱心に写生して初稿をつくり上げた。後に版画に仕立て、「東海道五十三次」または「東海道の宿場五十三」と称し、作品は55枚からなる。天保五年(1833年)ごろに保永堂から出版されたことから、保永堂の初版が最も有名である。五十三景は江戸日本橋を起点に、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津、原、吉原、蒲原、由井、興津、江尻、府中、鞠子、岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川、袋井、見附、濵松、舞坂、新井、白須賀、二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、阪之下、土山、水口、石部、草津、大津と続き、京師(京都)を終点とする。

 広重が優れた筆致と調和のとれた色彩により、優美で詩情あふれる中に憂いの漂う大自然――叙情に満ちた穏やかな境地を表現したことは、まさに当時の市民の芸術的嗜好に合うものであった。広重が描き出した自然景観は、登場人物と常に密接なつながりを持ち、詩的センスにあふれていた。

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 安藤広重が名を馳せた名作「東海道五十三次」は、出版されたとたんに大人気となり、複数の異なる版が登場するほどであった。広重は観察と写生を重んじ、南画や狩野派の水墨画の趣を学び、四条派の細やかな作風と融合し、西洋の風景画における透視図法も採用して、当時の日本的な気風を非常に良く表現したことから、浮世絵の名所絵が流行した。特に色彩が徐々に変化する効果により、画面に奥深い美的感覚を持たせている。

 ヨーロッパのポスト印象派のゴッホも、かつて歌川広重の作品を模写した。風景画「オーヴェールの平原」も広重の浮世絵の風景によく似ており、「タンギー爺さん」に至っては、背景に浮世絵の遊女画を描いている。フランスのモネも浮世絵の金屏風画を真似て歌舞伎に似た服装や動作を描いており、色彩は広重の「東海道五十三次」から深く影響を受け、特に題材面では、神の存在する天国という宗教の束縛から離れ、快楽を享受する人間社会を描いている。

2.「東海道五十三次」と浮世絵

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名所江戸百景「亀戸梅屋舗」

 「広義の浮世絵とは人の世の日常生活を描く非宗教的な絵画作品を言うが、狭義の浮世絵とは主に江戸寛永年間(1624--1643)に登場した版画作品で、妓楼の女性や役者、自然風景を基本的な主題としたものをいう。」(戚応平「日本絵画史」第213ページ)。

 徳川幕府は江戸に都を開いたとき、世襲制の御用絵師も同行させた。当時はちょうど中国の明末清初のころで、まさに中国の年画の勃興・発展期にあたる。江戸期の経済発展に伴い、遊郭や歌舞伎、湯女等が新興市民層の生活を構成する要素となっていったため、これらを描いた絵画の大量生産が必要となったが、手書きでは供給が追いつかないことから木版印刷に改められ、「浮世絵」が誕生した。菱川師宣(1631--1694)は浮世絵の祖であり、活動期間は中国の明・崇禎4年から清・康熙32年にあたる。美人絵や風俗画を得意とし、土佐派や狩野派等の技法を用いて版画集「団扇絵づくし」を出版した。浮世絵の最盛期は明和7年(1770年)ごろで、当時の浮世絵の巨匠としては鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽がいる。前者3人はさまざまな姿態の優美な女性の描写に優れていたが、写楽は歌舞伎役者の芝居中の表情の描写に重きを置いた。後期の浮世絵は享和2年(1802年)ごろからと言われ、この頃に最も影響力を持ったのは葛飾北斎と安藤広重である。彼らは人物の描写に長けただけでなく、日本の風景描写においても大きく貢献した。広重の風景画は立体的で、季節感や天候の描写に優れており、例えば「日本橋の白雨」では自然の雰囲気が強く誇張されている。名所江戸百景の「亀戸梅屋舗」(1856年、錦絵、36.8×25cm)も同様である。王学仲は「王学仲談芸録」の中で広重の絵について、橋の上を行き交う人々が天候の急変により驟雨に襲われたため、次々に傘を開いたり衣類をまとったりして、寒さに縮み上がりながら慌てて道を急ぐ、困惑した様子を写実的な手法で捕えていることを指摘している。画面いっぱいに交錯する斜めの線で雨が表現され、遠景には船漕師が蓑をかぶって竹の筏を悠然と操り、緩急の差が相対的に描かれていることから、中国宋代の張擇端が「清明上河図」で描いた人物の動きと同様の趣が感じられる。

 浮世絵以前の時代には、「桃山美術」の画派が存在した。1568年から1615年までの47年間は日本の美術史では「桃山時代」に位置づけられ、この時代の絵画には日本的な審美感があふれ、活力に富んでいた。当時は、工業や商業が盛んになり始めており、東洋や西洋からの外来文化が盛んに取り入れられ、数多くの豪華な城郭が建造された。これら城郭の内部には豪華絢爛な壁画や装飾が飾られ、障壁画や襖絵、屏風絵などの伝統的な日本様式のほとんどはこの時代に完成した。豪華さに特徴のある「狩野派」の中でも著名で有力な画家は、狩野元信の孫で織田信長と豊臣秀吉の御用絵師だった狩野永徳である。狩野永徳の絵画は中国画の墨の筆致を基礎にきらびやかな装飾をほどこして大和絵を融合させたもので、中国の画風を日本化したものと言える。「長谷川派」の創始者、長谷川等伯はかつて多くの高僧と交流して中国文化に触れ、特に宋代・元代絵画の境地に傾倒し、工筆から写意に至るまで中国画の画法を学びつくし、真髄を習得するほど中国の水墨画に熱中した。等伯の画は水墨の色にあふれ、雲や霧が垂れ込めて全景は霞み、気勢が盛んながらも日本的趣向を失っていない。桃山時代の絵師は禅と武の双方を尊ぶ精神から、武士階級の間で人気を博した。このため、彼らは主に武士からの注文により作品を創作した。世相が平和に向かうにつれ、経済の主力は武士階級から平民へと移行し、文化も徐々に商人により支配されるようになった。このため、上層階級の絵師は衰退し始め、市民社会を描く絵師が活躍する土壌が生まれた。そこで浮世絵の誕生により、絵画に対する思想に質的変化が生じた。桃山時代の絵画から派生した、生命力にあふれた風俗画こそ、浮世絵の前身と言えよう。

 浮世絵は3世紀にわたる変遷を経て、江戸時代の芸術の重要なシンボルの一つとなった。19世紀に入り、日本が開国したのに伴い西洋画が伝わったことは、同時にフランスの芸術界に東方美術の新大陸を発見させる契機になった。フランスの印象派画家は日本の浮世絵を見て非常に驚くと同時に感服し、日本の正式な絵画としての輝きを隠そうとさえした。これは、江戸文化の重要な構成要素として、日本人が誇るに値することであろう。

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「清明上河図」の一部

3. 浮世絵と中国木版印刷、明代絵画の伝承と逆輸入

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「芥子園画伝」

 日本の民族絵画芸術の優れた代表である浮世絵は、中国の絵画芸術と起源の面で深い関係がある。浮世絵の前身である「桃山美術」では、「大和絵」と中国の画風を融合させ、日本風に変化させた。浮世絵は構想や構図、技巧のいずれにおいても、中国の古典絵画と明らかに関係がある。浮世絵の「肉筆画」中の明快な調子や、繊細で柔和な筆致や線のすべてに中国の古典絵画がもつ審美感が現れている。浮世絵版画は、中国明代の刻本(木版印刷の書籍)の影響を受けており、多色の重ね刷り版画技術により浮世絵の鮮やかな色彩が実現した。中国絵画により浮世絵の審美様式が確立され、浮世絵の誕生に影響を与えたことは疑いのない事実である。

 つまり、美人絵、役者絵、または風景画、花鳥画にかかわらず、構想や構図等の面で、浮世絵作品は中国の古典絵画の起源から切り離すことはできず、視覚的に顕著な関係があるばかりでなく、思想の上でも潜在的な関係がある。最も顕著なのは鈴木春信の描いた美人画のスタイルであり、きゃしゃな脚や繊細な腰部を描いたすらりとした美しい女性や、柔らかで優美な物腰、行雲流水のごとく伸びやかななかにも、かすかに情感が見え隠れする様子からは、中国明代の画家、仇英の美人画の影響を受けていることをはっきりと見て取ることができる。

 浮世絵は当初、書籍の挿絵として発展し始め、17世紀半ばに独自の絵画形式を確立した。では、挿絵から発展した浮世絵は、どのようにして中国文化と密接な関係を持つようになったのだろうか。第一に、中国で発明された印刷技術が浮世絵の基礎となった。周知のように、浮世絵は重ね刷りの木版画であり、中日両国は木版印刷の長い歴史を有する。古くは唐・五代のころに、中国の木版印刷はすでに流行していた。後に印刷技術の進化につれ、仏教経典や道教経典の冒頭に描かれた仏画から一般の書籍の挿絵へと発展した。中国仏教の東伝に伴い、仏教経典の仏画も日本に渡った。称徳天皇の命により作られた奈良時代、宝亀元年(770年)の「百万塔陀羅尼」や、平安時代末期の仏教経典挿絵も木版印刷で制作され、13世紀に仏教徒の間で刻印・仙像が流行すると、鎌倉・室町時代に至るまで絵巻上の仏像刻印が大量に普及した。その一方で、室町時代には文学作品の挿絵も大量に刊行された。中国から渡った大量の美術書は、日本絵画の大いなる参考となった。明代小説の登場によって人物挿絵が流行し、挿絵の入った明代の木版書籍が長崎経由で日本に伝わり、日本の木版挿絵の発達に直接影響を与えた。

 第二に、日本の錦絵の登場は中国の彩色書簡技術の伝来とも関係し、浮世絵を牽引する効果があったと言えよう。明・清両代において、中日芸術界の交流も空前の活況を呈し、画家の雪舟が中国にわたり北宋の山水画を学んだだけでなく、浮世絵の画風に最も影響を与えた円山派の画家も中国絵画の影響を受けた。当時、清の画家、沈南蘋は長崎に滞在し、円山応挙は沈から院体画の画風を学び、沈をして「舶来第一の画家」と称した。広重の風景画は中国の水墨画に非常に相似し、例えば「近江八景」や「阿波鳴門之風景」は水墨画の山水や風、雲、そしてかすんではっきりしない様子を版画で表現しており、異なる手法でも同工異曲の効果を示していることから、中日両国の芸術における血縁関係をはっっきりと見て取ることができる。

 王学仲は「王学仲談芸録」の中で、日本の画聖と称される雪舟は中国南宋の山水画の質実剛健な画風を強調しており、このような画風は中国明末の董其昌が提唱した尚南貶北論の宗派では北宗の手法に分類されたことから、日本は自らをして、「南画」と称した南宗と、もともと雪舟と広く伝わっていた北宗の規範の間にあると称し、独自の特色を徐々に確立していったことを指摘している。明治維新で日本が国力を増した当時、西洋はちょうど産業革命が成熟した時期にあったが、交通が発達し、鎖国も解かれて東西文化の交流が時代の趨勢となったことから、明治、大正、昭和の間、日本の画壇は人体比率や遠近法等の西洋画の理論を参考にし始めた。これに対し同時期の中国画壇は、清朝が門戸を閉ざし続け対外開放が遅れたことから、当時の中国人研究者たちは西洋文化を受け入れることで自らの歩みを調整しようともくろみ、それには日本を経由するのが最も速い方法であると考えた。そこで、当時の中国画家である高剣父、高奇峰、陳樹人の3人は日本に留学して西洋の理論を参考にしつつ折衷的な創作を行ったことから、後に「折衷画派」または「嶺南画派」と呼ばれた。これこそ、日中両国の美術伝承と逆輸入の明らかな史実である。

 13世紀の鎌倉時代以降、日本は再び中国の山水画や花鳥画等のさまざまな画法を受け入れた。15世紀の室町時代に日本文化は徐々に活況を呈した。当時の文人・知識人の多くは漢学・詩文に通じ、中国の文人画は更に優れた点を発展させ、両国文化の共通の精華となった。18~19世紀の江戸時代においては、社会は長きにわたり安定したため、芸術的思潮は時代の変化に従い、徐々に貴族だけのものという位置づけから変化して平民に普及するようになり、文人画もより素朴なものが尊ばれるようになった。中国の絵画芸術を基礎に、浮世絵は西洋の絵画芸術の要素や日本独特の審美感、江戸時代の政治・社会・経済状況や市民の気風等を取り入れ、これらはすべて浮世絵にとって欠くべからざる要素となった。この点から見ても、中国絵画によって日本絵画の様式や審美感が確立したことは疑いようのない事実である。

 つまり、起源から見れば、浮世絵に中国画の要素が取り入れられていることは誰の目にも明らかである。平民の生活や日常の風習を題材にした絵画は市民の間で人気を博したが、社会のさまざまな階層からの買い手により異なる要求がなされた。そこで、特定の買い手の要求に応じるために、版画と肉筆画が融合した作品やすべて手書きからなる肉筆画が登場した。浮世絵の肉筆画は、技法的には桃山時代のものと大きな違いはないが、生活を土台とした題材の面でいくぶん変化している。

崔光勳

崔光勳(Cui Guangxun):大連理工大学助理 研究員

中国吉林省延吉市生まれ
2001.09-2006.07 遼寧工程技術大学 建築学学士
2006.09-2008.07 大連理工大学 建築学修士
2008.09-2009.09 大連理工大学 博士研究生
2009.10-2011.03 東京大学 特別研究員
2011.4-現在 大連理工大学 助理研究員