【12-04】中国と日本の「書籍の道」
郜 同麟(中国社会科学院 文学研究所 助理研究員) 2012年 5月7日
「砂漠、駱駝の隊列、西洋。夕日は西に沈み、駱駝の背には鮮やかな絹。これこそが古代の絹の道(シルクロード)。大海、船隊、東洋。朝日は東から昇り、積荷には文化の薫り高い書籍。これこそが古代の書籍の道(ブックロード)」。
ある著名な学者が、絹の道と書籍の道をこのように描写している。中国には古代、絹の道のほかに、書籍の道があったことをご存じだろうか。多くの日本人が数冊の書籍のために、危険を冒して海を渡り、また、多くの中国人が風波を顧みず、書籍を携えて日本に渡り、文化の種を播いたことをご存じだろうか。歴史のベールをはぎ取り、海を跨いだ中日間の「書籍の道」を見てみよう。
「史記・秦始皇本紀」によれば、始皇28年(紀元前219年)、斉の人、徐巿(徐福のこと)は3,000人の若い男女を従え、仙山を求めて海を渡った。言い伝えによれば、徐巿は日本に渡り、大量の書籍をもたらした。宋代の欧陽修は、「日本刀歌」と題した詩の中で、「徐福行時書未焚、逸書百篇今尚存。令厳不許伝中国、挙世無人識古文(徐福が日本に渡った頃は秦の始皇帝による焚書坑儒の前だったため、中国で失われた書経が今尚残っている。中国に渡らないよう厳しく禁じているため、それを知る人はいない)」と詠んだ。焚書坑儒前の貴重な典籍が徐福によって日本に届けられた、という話で、一部の学者は、これを史実と考えている。
中日韓の書籍交流の始まりとしては、「古事記」の記述が最も広く引用されている。「応神天皇」の記に、当時、和邇吉師という人(後の「日本書紀」では王仁とも呼ばれた)が、天皇に「論語」と「千字文」を献上した、とある。「千字文」の作者、周興嗣は、中国南北朝の斉・梁の時代に生き、梁・普通2年(521年)に没した。応神天皇の時代については論争があるが、周興嗣の時代より、少なくとも150年以上前であるため、記述内容の信憑性については疑問がある。
王仁の書物献上の記載はたぶん誤りであるが、漢籍の日本伝来は、はるか昔に始まっていたようだ。「宋書・夷蛮伝」に収録された劉宋順帝の昇明2年(478年)の「倭王武の上奏文」には、「詩」や「書」から多く故実が引用されていることから、この国書の作者は、中国の典籍に精通していた、と考えられる。たぶん、これよりはるか前から日本の貴族は中国の経典を勉強し始めていただろう。
「日本書紀」によれば、欽明天皇13年(552年)(別の資料では欽明天皇7年、紀元546年とする説もある)、百済の聖明王が遣いを送り、釈迦仏の金銅像と経論を献上した。これは日本の政治と宗教に非常に大きな影響を及ぼした。この史実についてはこれ以上掘り下げないが、少なくともこの「経論」が漢籍であったことは疑いない。これは、たぶん、記録がある漢文仏教典籍伝来の中で最も古いものかもしれない。
その後、日本は朝鮮半島経由の漢籍だけでは満足しなくなり、中国大陸に使節や留学生を派遣し始めた。「隋書・倭国伝」によれば、開皇20年(600年)、日本は初めて遣隋使を送った。大業3年(607年)、日本は再び遣隋使を派遣した。この時、送られたのが、おそらく日本から初めて中国に送られた学問僧である。勉学のため中国大陸に渡る日本の留学生は途切れることがなく、学問僧たちは大量の漢籍を携えて帰国した。「大正新修大蔵経」には、日本の高僧が持ち帰った漢籍の目録が記されている。学問僧は、仏典以外にも高い関心を示した。円仁の「入唐求法巡礼行記」によれば、中唐のころ、日本の学問僧、恵萼は蘇州の南禅院で、「白氏文集」三十三巻を筆写し、日本に持ち帰った。
奈良の天平年間には、官立の写経所が設けられ、写経司、写経所、写疏所などと呼ばれた。当時の写経は現存するものが多く、例えば滋賀県石山寺所蔵の国宝「史記集解」、「漢書」や、名古屋大須観音宝生院所蔵の日本国宝「琱玉集」、「漢書」などがある。
使節や学問僧による漢籍伝来や官立の写経などにより、日本国内の漢籍は8~9世紀に急増した。9世紀後半の「本朝見在書目録」によれば、当時、日本に実在した書籍は約1568種、16725巻で、「隋書・経籍志」収録書籍の50%、「旧唐書·経籍志」収録書籍の51.2%に達した。
開成4年(839年)、仁明天皇は唐に遣いを送り、これが最後の遣唐使となった。894年、宇多天皇は菅原道真を遣唐大使に任命したが、道真は天皇に親書を送り、唐はすでに国力が衰え、内乱が頻発し、道中不便も多いとして、遣唐使の廃止を建議した。天皇はこの建議を受け入れた。
交流が中断しても、中国と日本の書籍の道は途絶えることがなかった。その道を担ったのは僧と商人だった。宋代の奝然(ちょうねん)や、元代の一山一寧(いっさんいちねい)ら僧は多くの漢籍を日本に届けた。藤原道長の「御堂関白記」によれば、寛弘3年(1006年)、藤原氏は宋の商人、曽令文から「五臣注文選」と「白氏文集」を得た。宋代、元代も、中日間には多くの書籍商の往来があったことが伺える。
明代になって、日本との公式な交流が再び始まった。倭寇などの影響で、明と日本の関係はあまり順調ではなかったが、書籍の交流が途切れることはなかった。公式な書物献上と民間貿易の双方で、漢籍の日本流入は推し進められた。
記録が少ないため、室町時代に明からどれだけの漢籍が届いたのか、検証は難しい。明の成化年間、足利氏が明に送った国書に「書籍、銅銭、仰之上国、其来久矣」との記載がある。室町幕府は、明の書籍に相当依存していたことが伺える。
江戸時代以降、中日間の書籍貿易はますます盛んになった。日本に伝わった漢籍数は、過去のどの時期よりも多かった。統計によれば、1693~1803年の110年間で計43隻の中国商船が長崎港に到着し、運ばれた中国典籍は4781種類に上る。例えば、「大明一統名勝志」崇禎3年(1630年)刊本は、尾陽内庫が寛永12年(1635年)に収蔵。明の茅瑞徵による「皇明象胥録」崇禎2年(1629年)版は、3年後には尾陽内庫に収められていた。
江戸時代には、西洋文化を紹介する中国語翻訳書がさらに多く日本に伝わった。特筆すべきは「海国図誌」の日本伝来である。「海国図誌」は魏源により1843年に編纂されたが、1851年には日本に伝わっている。
20世紀以降に、日本が輸入した漢籍の多くは、珍本や古本であった。1907年、浙江省湖州の有名な蔵書楼「皕宋楼」の継承者、陸樹藩は巨額の負債を抱え、大量の蔵書を漢学者、島田翰の仲介で岩崎弥之助の静嘉堂文庫に売却した。
日本の漢学者も古書を求めて自ら中国に渡り、田中慶太郎や内藤湖南、武内義雄らが北京、瀋陽、寧波、杭州などで大量の中国の珍本や文献を収集した。
中国も、日本の書物を輸入している。これらの輸入書は当初、散逸した書物や珍本が主であった。戦乱や火災などによって、中国の典籍は散逸が深刻だった。「楊文公談苑」によれば、五代の呉越の国王、銭弘俶はかつて日本の天皇に親書を送り、逸失した典籍を求めた。宋代の僧、知礼は、二人の弟子を日本に送り、「仁王経疏」を求めた。清末・中華民国初期には、学者が多く日本に渡った。楊守敬や黎庶昌、董康、博増湘らの貢献は大きい。楊守敬の「日本訪書誌」や董康の「書舶庸譚」は、いずれも優れた古書目録であり、黎庶昌は日本に残された中国の逸書を復刻し、「古逸叢書」としてまとめた。
中国は、日本人が著した漢文典籍も多く輸入している。唐代の大歴年間には、聖徳太子の「三経義疏」が中国に伝わっている。「扶桑略記」によれば、僧の寛建は延長4年(926年)に、菅原道真らの詩集を伝え、唐に広まることを望んだ。中国に輸入された日本書籍の中で、注目に値するのは山井鼎の「七経孟子考文」である。山井鼎は享保11年(1726年)に同書を編纂し、德川吉宗が6年後、長崎の商人にこれを中国に伝えるよう命じた。杭州の汪啓淑がこれを手に入れ、当時の四庫館に献本すると、四庫館の責任者は「四庫全書」に収録した。
19世紀末から20世紀初頭にかけ、中国から多くの留学生が日本に渡った。彼らは日本語に訳された西洋の書物を中国語に訳した。例えば、魯迅は「死せる魂」(ゴーゴリ作)や「壊滅」(ファジェーエフ作)を翻訳し、夏丏尊は「クオレ 愛の学校」(アミーチス作)などを訳した。これらの翻訳書は中国思想界に影響を与え、西洋言語の日本語訳は現代中国語に直接影響を及ぼした。例えば、「科学」、「定義」、「積極」、「調整」といった言葉は、いずれも日本語訳から来たものである。現代では、村上春樹の小説や手塚治虫の漫画が中国に伝わり、「書籍の道」に新たな彩りを添えている。
郜同麟(Gao Tonglin):中国社会科学院 文学研究所 助理研究員
中国山東省兗州市生まれ
2006.9-2008.6 浙江大学古籍研究所修士
2008.9-2011.6 浙江大学古籍研究所博士
2011.7-現在 中国社会科学院文学研究所助理研究員