【12-05】「玉燭宝典」秘話
朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員) 2012年 5月25日
玉燭宝典十二巻は、中国隋代の学者、杜台卿が編纂した民俗学的著作であり、中国北方の年中行事を描いたものである。本書は、「礼記」月令篇、及び蔡邕の「月令章句」を柱とし、大量の文献を参照したうえで、「正文」と「注文」によって構成されている。
本書は、「礼記」月令篇、梁代の宗懍による「荊楚歳時記」を受け継ぎ、本書の後には、杜公瞻の「荊楚歳時記注」、宋代の陳元靚による「歳時広記」がある。本書は、社会風俗の変遷を描いたもので、漢、魏、晋、南北朝から隋、唐代に至る時代の天文、暦法、農学、年中行事などに関する多くの文献を理解するうえで重要な意味を持つ。中国の年中行事の伝播と発展に対して大きな影響を与え、日本の年中行事の成立にも影響を及ぼした。
玉燭宝典は早くに散逸したが、清代の光緒年間に、楊守敬が日本で、玉燭宝典校本十一巻(巻九は欠落)を発見し、黎庶昌に復刻させ、「古逸叢書」の中に収録したことで、中国の学者もようやく本書を目にすることができた。その後、中国本土で出版された「叢書集成初編」「続修四庫全書」にも「古逸叢書」が収録された。現在でも文献的な価値がある玉燭宝典の写本は、日本の各資料館に所蔵されている。
「玉燭宝典」の編纂及び日本伝来
「随書」の記述によれば、開皇初年(581年)、杜台卿は、召されて朝廷に入った。杜台卿は「礼記」月令篇をもとに、玉燭宝典十二巻を編纂した。これを皇帝に献上し、絹二百匹を賜った。これが、玉燭宝典に関する最も古い記録であり、杜台卿は582年から590年の間に、同書を献上したのである。
玉燭宝典が日本に伝わったのは590年以降であろう。今日伝わる玉燭宝典の最も古い版本は、尊経閣本である。尊経閣本では「堅」という字を避け、代わりに「固」を用いている。隋文帝の諱(いみな)楊堅を避けるためであることから、玉燭宝典は出版後まもなく、日本に伝わったことが分かる。このほか、尊経閣本では「世」、「弘」も忌避されていることから、唐代文化の日本への影響が見て取れる。玉燭宝典は、590年以降に日本に伝わったものと筆者は考える。
玉燭宝典には魏、晋、南北朝時代の中国北方の年中行事しか記載されていなかったため、南北朝の統一、及び「荊楚歳時記注」の普及に伴い、玉燭宝典は読まれなくなっていった。清朝初期、朱彝尊が本書を探し求めたが、見つけられずに終わった。
また、厳紹璗によれば、日本の孝謙天皇の時代、天平勝宝3年(751年)に編纂された詩集「懐風藻」に収められた作品に、玉燭宝典の故実が引用されている。天平勝宝3年は、唐代玄宗の天宝10年に当たるため、これ以前に本書が日本に伝わっていたことを示している。玉燭宝典についての記載がある最も古い典籍は、藤原佐世の「日本国見在書目録」である。「日本国見在書目録」は、日本の陽成天皇の時代の貞観18(876)年から元慶8(884)年に出版されたが、これは中国唐代の僖宗の乾符3年から中和4年に当たる。本書が日本に伝わったのは、日本が中国に送った遣唐使の手によるものと筆者は考える。
日本は中国の進んだ文化を学ぶために、7世紀以降、中国に「西海使」(即ち遣隋使、遣唐使)を次々に送ったが、これは日本の国策であった。遣唐使のほとんどは日本の学問僧であり、仏教関連の文献を収集したほか、それ以外の典籍も日本に持ち帰った。玉燭宝典もこの内の一つであろう。文献によれば、遣隋使の第一陣は隋代の開皇20(600)年に始まったが、「日本書紀」には記録がない。玉燭宝典は、開皇20年から唐代玄宗の天宝10(751)年までの間に、遣隋使及び遣唐使の手によって日本に伝わった。日本に現存する写本には、隋の文帝及び唐太宗の諱の忌避が見られる。
その後まもなく出版された惟宗公方の「本朝月令」には多くの引用があるものの、本書の名は伏せられている(「荊楚歳時記」からの引用もある)。「本朝月令」は平安時代の学者が執筆した年中行事記であり、政府による規範的な意義を持ち、日本の民俗に深い影響を与えた。
ここで玉燭宝典が引用されたことは、当時の日本が玉燭宝典を年中行事の典範の一つと見なしていたことを物語っている。
その後の「年中行事秘抄」、「年中行事抄」、「師光年中行事」、「明文抄」、「釈日本紀」などの書籍にも、玉燭宝典の模倣が多く見られる。
玉燭宝典の中国への逆輸入
楊守敬は光緒年間に日本に渡ったが、当時の日本は明治維新の時期で、大量の中国の古書が量り売りされているような状況だった。楊守敬は書籍を集め、一冊手に入れるたびに解説を記し、帰国後に「日本訪書志」をまとめ、出版した。玉燭宝典もここに収録された。
「清客筆話」は日本の学者、森立之が、楊守敬と会談した際の筆談のメモ、名刺、書簡、伝言、借用書などの関連資料を貼付して整理した筆談資料集である。この実録的文献によれば、楊守敬は森立之に、「欲借鈔刻之」(写本を作らせてほしい)、「不取此書到家中、即煩先生属写工而鈔之上木」(本をお借りしないのであれば、お手数ですが、先生に写本を作っていただきたい)とお願いしたところ、森立之は本の貸与を快諾し、楊守敬は旧暦の7月4日、本書を借りて帰国し、写本を作って、「古逸叢書」の中に収録した。玉燭宝典が再び中国に戻ったいきさつである。
学界では通常、「荊楚歳時記」は8世紀半ばに日本に伝わったと考えられている。10世紀ごろに出版された惟宗公方の「本朝月令」は、現存する4月から6月までの部分に、「荊楚歳時記」から多くを引用している。学界では、日本の年中行事や風俗に対する「荊楚歳時記」の影響が強調されているが、往々にして次のような事実を見過ごされている。「荊楚歳時記」と呼ばれている書物には、杜公瞻の注が含まれるが、杜公瞻は杜台卿の甥であり、「荊楚歳時記」に付した注の主な根拠は、玉燭宝典にある点である。
杜公瞻は注を付す際、「荊楚歳時記」に記載された南方の風俗について、北方の風俗との比較を意識的に追加し、それによって南北朝後期の中国の南方と北方の年中行事と風俗を融合したのである。このことは、中国における年中行事の伝播と発展に重要な影響を及ぼした。
吉川幸次郎が指摘するように、「中国の古代の風俗は『礼記』月令篇に収められており、宋代以降の近世の風俗は『歳時広記』以下の諸地方誌に依拠を求めることができるだろう。ただし、魏、晋、南北朝の風俗は、秦、漢代から受け継ぎ、宋、元代に受け継がれているものだが、本書以外には知る方法がないことから、本書は特に貴重である」。この観点に立てば、玉燭宝典の出版は、当時の南方・北方の年中行事の交流が大いに促進されただけでなく、年中行事や風俗の南北融合、及び魏、晋、南北朝から隋、唐代への過渡期において、時代をつなぐ重要な役割を果たした。また、日本の年中行事に大きな影響を及ぼした。中日両国間における年中行事の交流を語る上で、この事実を見過ごすことはできない。
この文章は、住友財団2011年度アジア諸国における日本関連研究助成「日本図書館所蔵の中国での伝承が絶えた古書『玉燭寶典』の収集と研究」の抄訳である。
朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員
中国山東省聊城市生まれ
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学系 助理研究員