【13-10】日本の伝統楽器と中国文化
2013年10月29日
李 暁亮(LI Xiaoliang):淄博職業学院図書館 館員
中国山東省淄博市生まれ。
1999.9-2003.6 山東理工大学文学院 学士
2003.7-2008.8 淄博職業学院音楽表現系 助教
2008.9- 淄博職業学院図書館 館員
中国と日本は、それぞれ異なる文化を持った国である。音楽を含む両国の文化もそれぞれの歴史的背景を持っている。だが日本の伝統楽器を見たことのある中国人は皆、尺八や琵琶、三味線、箏などに対してある種の既視感を覚え、中国の伝統楽器、例えば簫や琵琶、三弦、古箏などを思い出すのではないだろうか。両者の間に何らかの関係があるのではないかと考えるのは自然な発想である。中国と日本は二千年以上前から音楽文化の交流があった。とりわけ中国の隋唐期には、中日両国間の友好交流は非常に盛んとなった。日本は当時、遣隋使を5回、そして遣唐使を19回にわたって中国に送った。それぞれの派遣団には楽長や楽生が含まれていた。彼らは中国で学んだ先進文化と律令制度とともに、中国の音楽芸術を日本に持ち帰った。こうして中国の音楽は、日本の国土で幅広く普及し、日本の音楽に多大な影響を与えることとなった。
日本の伝統楽器のうち、日本固有の楽器である和琴や笛、鼓などを除いて、ほとんどは中国から来たものである。だが日本の楽器独自の形状とその演奏の仕方は、音色の微妙な違いへの日本の伝統音楽のこだわりを映し出すものとなっている。本稿では、そのうち重要な楽器をいくつか取り上げ、中国と日本という異なる文化環境におけるその歴史と発展状況を検討する。
三弦
三弦は“弦子”とも言われる中国の伝統撥弦(はつげん)楽器である。音色は太く、豪快で、民族器楽や戯曲音楽、謡曲などに用いられている。三弦の中国史における記載は唐代にまでさかのぼることができる。楽器としての三弦の由来にはさまざまな説があるが、元朝にその形を整えたという説が有力である。古代の「弦鼗」と言われる楽器を原型とし、元の時代には、元曲の主要な伴奏楽器となった。中国の三弦は、アラブの楽器の特徴を取り込み、中国人の手によって改造されてできあがった楽器である。三弦は元代以降、広範に普及することになり、特に明清以降は非常に流行し、謡曲の伴奏として主に用いられた。また三弦は中国では「大三弦」と「小三弦」に分けられ、北方地区と中部地区で用いられているだけではなく、南方地区や少数民族地区にも幅広く普及している。
中国の三弦は明代ごろに日本の沖縄に伝わり、「三線」と呼ばれた。日本の本島に伝わったのは16世紀のことである。三弦は日本に伝わった後、日本の伝統楽器として、日本の音楽の中で重要な地位を占めるようになった。
箏
箏は、中国の戦国時代に秦や斉、趙などの国で流行し、秦ではとりわけ人気を博した。初期の箏は5弦であった。大きな竹筒で作られた5弦もしくは5弦未満の簡単な楽器を原型とするとされる。後漢末期から魏晋時代には12弦の箏が現れ、上部が円形で下部が平らの形状を呈するようになった。現在の箏の形はこの時期に整い、成熟階段に入ったものとされる。北朝末期の箏の弦数は13本に増え、構造もさらに完全なものとなった。唐・宋の時代には13弦の箏がすでに広まり、宋代になると12弦の箏はほぼ用いられなくなり、13弦の箏が中国において正統の箏となった。そして清代の箏は新たな発展を得て、14弦の箏で7つの音階を表す調弦法が定着し、民間器楽や謡曲伴奏へと幅広く用いられるようになった。
箏は、7、8世紀頃に中国から日本に伝わり、13弦の箏が「楽箏」「築紫箏」「俗箏」の3つの形で広まった。この3つの箏はいずれも、本体が比較的大きく、細長い共鳴箱を持ち、表面に13本の弦と13個の柱が設置される構造を取っていた。雅楽は、13弦の箏と一緒に日本に伝わった。箏は、雅楽の中で単純なリズムの反復を担当し、一種の機械的なリズムの効果を生む。築紫箏は、16世紀中頃に寺院で生まれたもので、演奏においては精神性と儀式的要素が重視される。この点においては、中国の琴道の精神性の影響が認められる。現在の日本の箏は、分厚い木板を使い、裏側の一部をくりぬいて共鳴箱とし、底板をはめ込んで本体の胴を形づくっている。
尺八
尺八は、日本で広く普及した楽器である。尺八の原型は、中国古代の吹奏楽器にある。後漢時代、尺八の前身である羌笛が中国の民間で広まっていた。隋・唐の時代になって、尺八は、宮廷の重要な楽器となった。管の長さが一尺八寸あることからこの名が付いた。宋代以降、漢族文化の断絶に伴い、民間の簫や笛などの楽器が宮廷雅楽の尺八に取って代わった。現代の中国では、この古代の楽器は姿を消している。歴史的記載によると、日本の尺八は奈良時代、中国の南北朝末期から唐初期にかけて、唐代の雅楽を演奏する楽器として中国から伝わった。
現在、日本で流行している尺八は5つ孔が開いたもので、宋代末から元代初めに、日本の禅宗の一つである普化宗を開いた覚心が日本に伝えたものである。覚心和尚は大陸からの帰国時、尺八と「虚鈴」や「虚空」などの尺八曲を持ち帰ったとされる。覚心はその後、普化宗を開き、尺八の技を伝授し、普化尺八と称した。1871年以降、普化尺八は民間にも広まった。現代の日本の尺八は、普化尺八から進化したものである。
形から見ると、日本の尺八は、中国で現在よく見られる簫と似た形状をしている。これら二つは、中国において同じ起源を持つが、発展の過程で大きく変化した。尺八の管は簫に比べて短く太く、中は空洞で底がなく、歌口は外側がU字形に削られており、前面に4つの孔、背面に1つの孔が空いている。竹の根に近い部分を選んで材料とする。尺八の音色はまろやかで優美でいながら寂しさをたたえ、深みと味わいがあり、荒涼の感もわずかに帯びており、無常と静寂の境地を表すことのできる味がある。簫は、一本の竹管によって作られており、上部には竹の節を残し、下部と内部の節は削られて空洞で、歌口は内側にV字形に削られ、前面に5つの孔、背面に1つの孔が空いている。簫の音色は柔らかく上品で、低音域の音色は深みがあり、弱く吹かれるととりわけ独特な音がする。中音域はまろやかで優美な、高音域は尖った音がする。このように、尺八と簫は、形は似ているものの、音色には大きな違いがある。歌口の削り方も反対であるため、その吹奏技巧もまったく異なっている。
琵琶
歴史上、琵琶の形状と名称はいくつもあった。形状は主に2つに分かれる。一つは、ヘッドが棹にまっすぐに付いた「直頚」で、共鳴胴は円形を呈し、中国の秦漢時代に流行した。もう一つは、ヘッドが棹の後ろに曲がった「曲頚」で、共鳴胴と棹が連結して梨型を呈した4弦式で、漢代に中原地区に伝わった西域の楽器である。宋代以降、棹が短くヘッドが曲がったこの種の梨型のものが琵琶と呼ばれるようになった。歴史上にはもう一種の五弦琵琶が存在した。この楽器の由来も中国本土ではなく、4世紀後半の北魏時代に西域から仏教楽器の形式で中国に伝わったものである。西域の音楽に欠かすことのできない代表的な楽器であった。五弦琵琶は南北朝時代には、中原地区に徐々に広まり、同地区での普及と展開を得た。琵琶の発展は、西暦7、8世紀、すなわち中国の隋唐時代にピークに達した。隋初期の七部伎(宮廷音楽7曲)、隋大業年間の九部伎(同9曲)においては五弦琵琶が頻繁に活用され、琵琶は主要楽器となり、楽団の中でもリードパートを担い、盛唐期の歌舞芸術の発展に重要な役割を果たした。唐代の後期までには、琵琶は演奏技法から構造製作にいたるまでいずれも大きな発展を遂げた。演奏技法における最も際立った変化は、横に構えた演奏から縦に構えた演奏へと姿勢が変わり、撥を使った演奏に代わって指を直接使った演奏がなされるようになったことである。だが五弦琵琶は、唐宋代以降は衰退し、中国から静かに姿を消していった。
琵琶は唐代に、雅楽器の一種として中国から日本に伝わった。平安時代に広まり始め、日本の庶民に喜ばれる楽器となっていった。最初に琵琶を学びこれを伝えた者の多くが僧侶だったことから、琵琶を伴奏にした語りで物乞いをする琵琶法師によって形成された独特な流派、盲僧琵琶が、日本琵琶の流派の先駆けとなった。日本琵琶は基本的に中国の唐代の形状と演奏方式から発達したものだが、現在までに、楽琵琶や盲僧琵琶、平家琵琶、薩摩琵琶、筑前琵琶、錦琵琶など多くの種類が生まれている。各流派の琵琶は体積や大小に違いはあるが、形状はほぼ同じ梨型を呈し、ヘッドは後ろに直角に曲がっている。胴の表板の上にはいずれも、バイオリンのF字孔に似た半月形の孔が左右に空いている。日本琵琶のフレットは柱と呼ばれ、4個から5個だけ置かれ、非常に高く作られている。柱と柱の間の弦を縦方向に押して完全に4度のハーモニクスを出す技もある。
中国唐代の琵琶は撥で弾奏されていたが、この演奏方式は現在に至るまで日本の琵琶によって受け継がれている。異なるスタイルを表現するため、流派に応じて撥の大きさは異なる。例えば、盲僧琵琶と平家琵琶の撥は比較的大きく、薩摩琵琶の撥ではてっぺんの扇形の部分が最大で30cm以上となる。日本琵琶と中国琵琶の由来は同じだが、中国琵琶は現在までに大きな変化を遂げている。中国の現代琵琶のネックは基本的に後ろにほぼ45度傾斜している。胴板には半月形の孔はなく、弦をつなぎ止める覆手の裏側に音孔と呼ばれる孔が空いているだけである。フレットは20個以上あり、十二平均律によって排列され、各種の転調を表現することが可能である。
日本の琵琶には、その形状以外にも特色がある。演奏者は伝統的に、くるぶしの上に座る正座という姿勢で演奏するが、現在は、普通の椅子の上でも演奏するようになっている。また日本琵琶にはほとんど器楽曲はなく、声楽曲が基本であり、前奏や間奏において使用される。声楽曲は謡曲が中心で、ほとんど抒情的なものではない。
このように見ていくと、日本楽器が中国楽器と相似性を持っているのは、その多くが中国から伝わったものであるからだということがわかる。だが現在に至るまで、こうした楽器が依然として伝来期の形をほぼ保っていることは、日本の音楽界において厳格な伝承制度が行われていることと密接な関係がある。日本において、伝統音楽を学ぶ者は、特定の音楽家を師匠と仰ぎ、これを父親のように敬わなければならない。初心者はまず、特定流派に必要な礼儀と振る舞いを学ぶ必要がある。例えば、楽器に対する崇拝の儀式や、師匠に仕えるための各種の礼節などである。弟子はこの後、音楽を学んでいる時だけではなく、日常生活の一挙手一投足においてもこの複雑な礼節を厳格に守らなければならない。それだけではなく、日本の音楽界にはさらに厳しい家元制度が存在している。家元制度においては、弟子は師匠に対して、後輩は先輩に対して絶対服従しなければならず、師匠に伝えられた曲目や演奏技術、スタイルはいかなることがあっても動かしてはならない。こうした厳格な封建的家元制度によって、古い音楽のジャンルや曲目、流派、スタイルが長年にわたって維持されてきたのである。
さらに地理的に見ると、日本はアジア大陸東部の海域に囲まれており、アジア大陸と東南アジア地域と距離を持っている。このような地理的環境は、日本が大陸文化と接触しこれを吸収すると同時に、大陸文化の支配と征服を免れることを可能とした。このため、日本文化は進化しながらも堅固な連続性を保ち、日本民族の精神を保持し続けてきた。世界の精神文明と物質文明に対しては、これを余すことなく吸収、参考、模倣しつつ、これを絶妙に溶解し、日本式の焼印を施し、日本民族特有の文化の融合を形成したのである。
上述のことからわかるように、同じ伝統楽器であっても、中国と日本では全く異なる歴史と発展の経緯を持っている。中国においては、一部の楽器は西域から伝わり、自国における発展を見た。日本の多くの伝統楽器は中国から伝わったものである。だが日本は、調和を特徴とした国である。中国が西域の文化を受け入れた時と同様、日本は、中国の楽器という外来文化の受け入れにあたって、盲目的にそのままこれを吸収することはなかった。自国の文化を土台として、楽器に対するさまざまな面での改造や融合を意識的に行い、名称や形状、制作方法などを自国の文化環境や文化背景に適合させ、「日本化」の方向へこれを進化させたのである。