【13-12】日本の鉄瓶と中国
2013年12月10日
張璐(Zhang Lu):山東省威海市文化産業協会理事
中国山東省威海市生まれ
2010.6~現在 山東省威海市文化産業協会理事
ここ数年、日本の鉄瓶は重要な茶道具の一種として、中国のメジャー市場に徐々に浸透し、高級品の収集家を魅惑してきた。
だが日本鉄瓶の誕生は、中国と深い関わりを持っている。日本の最初の茶道は唐代の中国文化に由来し、発展の過程で、抹茶道と煎茶道とを生み出した。煎茶道の発展は、日本の茶道具に大きな変化を生み出した。当時の日本の釜師は、湯を沸かして淹れるのを便利にするために、鉄釜に注ぎ口と取っ手を付け、体積の縮小をはかった。こうしてできたのが鉄瓶の原形である。鉄瓶がいつ誕生したのかははっきりしていないが、日本の茶道において用いられる茶釜に取っ手を付けたのが、鉄瓶の原形であったと考えられる。史料によると「鉄瓶」という言葉が最初に現れたのは、江戸時代の天明年間(1780年代)、中国の清朝乾隆年間(1736-1795)とされる。日本の鉄瓶はほぼこの時期に形成されたと見られる。鉄瓶の産地として最も有名なのは、京都三条釜座や山形鋳物、長浜の晴寿堂、京都の龍文堂、そして南部鉄器で、このうち龍文堂はその銅蓋で知られ、日本ではこの銅蓋だけを買い求める人もいる。銑鉄製品には、鉄瓶や急須、火鉢、鍋敷き、茶託、鉄鍋、風鈴、花瓶などの種類がある。1リットル以下のものを「鉄急須」、1リットル以上のものを「鉄瓶」と言う。急須と鉄瓶には、容量と体積の大小の差のほか、急須には茶を淹れるのに便利な茶こしの網が付いているという違いがある。
興味深いのは、中国でも同じ時期に、茶道具の革新が起こっているということである。400年前、紫砂壺(江蘇省宜興市原産の茶壺)の主要な用途は湯を沸かすことであり、当時の紫砂壺のほとんどは現在の紫砂壷よりも大型だった。だが茶文化の革新に伴い、紫砂壺は徐々に茶を淹れる道具となり、細かい細工の入った小さなものとなっていった。陳曼生をはじめとした無数の文人らも参加し、さまざまなスタイルが考案され、紫砂壺を詩・書・画・印と一体化した中国文化の重要な担い手へと変化させ、紫砂壺には新たな発展方向が生まれることとなった。
過去百年から二百年にわたって、鉄瓶は日本で非常に普及した。電気コンロや電磁調理器でも使えるが、一番良いのは日本の古い火鉢にかけることで、使い勝手もいいし趣もある。日本の家庭では時として鉄瓶が使われ、細工のいい鉄瓶は高価な贈り物として親戚や友人の間でやりとりされることもある。日本の平均年齢は女性が85歳、男性が77歳(女性よりも短いのは過労死によるのかもしれない)で、長寿国の分類に入るが、研究者によると長寿は飲食と関係している。日本人は、鋳鉄類の鍋や鉄器を使って食物を煮たり茶を沸かしたりするのを好むことで知られる。最近の研究によると、茶を沸かしたり食物を煮たりしている時、素材の純度の高い鉄器は加熱の過程で二価鉄イオンを不断に放出し、このイオンは飲食を通じて体内に吸収される。日本の長寿村では、100歳になる高齢者の多くが依然として鉄器を使う習慣を持っているという。また鉄器を使用している100歳以上の高齢者のほとんどが貧血や鉄分不足になっていないという統計もある。こうした現象は、鉄瓶を使って湯を沸かすと一方では鉄瓶が水中の塩化物イオンを吸収し、もう一方では鉄瓶が沸かした湯の中に鉄イオンを放出することに原因がある。人体に毎日必要な鉄分を補うと同時に、高血圧を予防・緩和することにもなり、高血圧の人にとっては大きな助けとなる。鉄瓶を使って沸かした湯には二価鉄イオンが含まれているため、泉水効果が生まれ、口当たりがよく、さまざまな茶を淹れるのに適している。それだけではなく、鉄瓶で湯を沸かすと水温を上げることもでき、水質を軟化させ、水を甘く、口当たりを豊かでスムーズに、良いお茶をさらにおいしくする効果があり、茶を淹れることに適している。銑鉄を原料とし、鋳造の過程に作者の芸術性が生かされていることから、鉄瓶には独特の文化が生まれた。このため人々は、鉄瓶を毎日の湯沸かし道具として重宝すると同時に、芸術品として楽しみ、骨董として収蔵するようになった。
科学者らは早くから、鉄には造血作用があり、成人は毎日O.8~1.5mgの鉄を必要とし、深刻な鉄不足は知能の発展にも影響することを発見している。実験によると、湯沸かしや調理に鉄器を使用すると、鉄分の吸収を増加させることができる。鉄瓶を使って湯を沸かし、茶を淹れると、人体に吸収されやすい鉄(二価鉄)が放出される。鉄分は造血要素なので、適切な飲用は人体に必要な鉄分を補充し、貧血防止ともなる。研究によると、鉄器を使用する家庭では、子どもの発育と血液中のヘモグロビン(Hemoglobin)が十分に補充されていることがわかっている。鉄は、ヘモグロビンとミオグロビン(Myoglobin)、さらに重要な呼吸酵素シトクロム(Cytochrome)、その輸送と細胞吸収において重要な役割を演じる酵素の重要な成分である。主に、Fe2+の形式で体内に存在する。また酵素の補助因子ともなる。
人類は、金属としての鉄を直接吸収することはできない。鉄は一般に、食物中に三価鉄の形式で存在しており、胃酸は鉄と反応して二価鉄イオンを生成する。二価鉄イオンは人体に吸収されることができ、主に十二指腸と空腸の上部で二価鉄の形式で吸収される。
鉄瓶で沸かした湯は軟水で、口当たりはなめらかで甘く、これを使って飲料を作ると、口当たりをぐっと高めることができる。一度沸かすだけではなくそのまま過熱し続けることもできるので、機能は広く、欧米ではフルーツティーや紅茶を煮出すのにも使われる。プーアル茶を煮出すのにもいい。鋳鉄製の鉄瓶で煮出すと、茶の雑味を取り除き、口当たりがよくなるからだ。
鋳鉄製の鉄瓶は、強力な熱伝導性と保温性を持ち、各種の茶を煮たり淹れたりするのに適している。南部鉄瓶が有名なのは、「釜焼き」(800~1000℃の炭火で焼く)の手法に由来している。この釜焼きにより、鉄の表面が酸化鉄を形成する。これは酸化皮膜(白みがかった青紫色)と言われる。酸化皮膜によって鉄と水が触れないため、沸かした湯には金属の味がしない(さらに菌の繁殖を抑える作用もある)。だがこの状態では鉄分は溶け出さない。しかし使用しているうちに、酸化皮膜の弱い部分に赤い跡が少しずつ付き始める。これは正常な現象である。鉄瓶を長く使用していると、増えた赤い跡の上に白色の膜が重なり始める。これは赤い跡を必要以上に拡散させず、水質を浄化する役割を果たす。
鉄器は長く使うほど黒い光を発するようになり、洗うのも簡単である。鉄瓶のおもしろさは湧いた時のその音にもある。あるものは風が松を吹くような音がするし、あるものは波のざわめくような音がする。作者の工夫で音が変わるのである。例えば、鉄瓶の底に鳴り金という鉄片が付けられる場合があるが、ある鉄瓶には3個くらいの鉄片が付けられ、少し錆びていたりする。だがこれを汚れと思ってはならない。これこそが釜師が心をこめて作った鳴り金であり、このおかげで鉄瓶が心地よい音を出すのである。また底にくぼみがつけられていることもある。近代的な技術とも思われる方法だが、伝統的な釜場や釜師の手による鉄瓶の底にはこうしたくぼみが付けられ、このようなくぼみのおかげで、鉄瓶は火の大小に応じて異なる音を発するのである。
鉄瓶の底の処理によっても音が変わるし、蓋の部分の適切な処理によってもおもしろい音がする。一般的に、こうした技は多くが南部鉄瓶から出たもので、一定の規則もある。まず鉄瓶の注ぎ口が比較的低くに設けられ、全体として円筒形を呈し、底の部分が蓋の部分よりも広くなっている。また蓋が比較的薄い。これらの条件が整うと、水が沸騰した時に内部に圧力が生じ、水蒸気が勢い良く上昇し、蓋部分から噴出した際、蓋と鉄瓶とがぶつかって音を発するのである。だがこのような鉄瓶は開ける際には注意が必要である。水蒸気が上がってくるので、手をやけどしやすい。ひどい経験をして鉄瓶を壊しかけたという話もあるほどである。
新品の鉄瓶の使い方にもこだわりがある。初めて使う時には、ひとすくいの茶葉を布で包んで鉄瓶に入れ、10分ほど煮る。このようにすると、茶葉に含まれるタンニンと鉄瓶から融けだした鉄分とがタンニン鉄と呼ばれる皮膜を形成し、錆が付きにくくなる。また使い始めは毎日使い、保護膜をできるだけ早く形成するようにする。使った後は乾燥させなければならない。日本の鉄瓶に適した熱源は炭火だが、台湾にはこのような炭火を使う習慣はないので、もしもガスコンロを使うなら、弱火にし、鉄瓶を損なわないように気をつけなければならない。
日常の手入れは次のいくつかに気をつける。第一に、洗い方。鍋用のスチールウールを使って水で洗うといい。もし大きな錆を見つけたなら、栓抜きやナイフなどで軽くこそぎ落とす。この時、力加減に気をつけ、鉄瓶本体を傷つけないようにする。もしもすぐに落ちない錆があったら、まず湯を沸かしてみて、自然に落ちるのに任せる。第二に、沸かし。洗ってから汚れた水を流し、きれいな水を沸かす。加熱の過程を利用して不純物を除去し、保護膜を形成する。沸かした水が透き通り、雑味がなければ、きれいに洗えているということである。これを何度も繰り返せば、鉄瓶の手入れになるし、水をさらに甘くすることにもなる。第三に、乾燥。湯を沸かし終わったらすぐに残った水を流して逆さにして干す。鉄瓶の余熱を利用して余った水分を蒸発させる。この時、蓋を開け、鉄瓶内に水気が残るのを避ける。乾いた布で表面をふき、磨きをかける。しまってからすぐに使わないのなら、乾燥した場所に保管し、湿気を避ける。鉄瓶は子どもを世話するように小まめに気を遣い、整理してからも定期的に検査し、鉄瓶が清潔を保ち錆びないようにする。
南部鉄器のほかに現在も創作と生産が続けられているものとしては、最近注目を浴びている京都の鉄器が挙げられる。昭和の時代に日本の茶文化の変化によって断絶したものもあるが、龍文堂などの銅蓋シリーズの京都鉄瓶は少なくとも数十年以上の歴史を持つ。
現在、日本で最も有名な鉄瓶は南部鉄器である。岩手県で伝統的な鋳造法によって手作りされた銑鉄製品を指す。茶道への造詣が深かった第28代南部藩主の重直公が、自分の領地で高品質の鉄が生産されることから、1659年に京都の小泉仁左衛門清行を招いて茶釜を作らせたのが、南部鉄器の起源と言われている。現在の形の南部鉄瓶は、3代目の小泉仁左衛門清尊が便利でおいしい湯が沸かせる道具が欲しいと考案したところ、需要が増え、茶道の世界だけでなく一般の人にまで広がったのが由来とされる。
だが南部鉄器の知名度が全国的に高まったのは明治時代のことだった。明治41年(1908年)、まだ皇太子だった大正天皇が盛岡を訪問し、8代目の小泉仁左衛門が鉄瓶を作る過程を見学し、その技を褒め称えたのを記者が記録し、新聞各社がこれを報じたのが、全国的に知られることとなったきっかけとされる。岩手県の生産ブランドとしては、「盛栄堂」や「盛峰堂」、「千草」、「池永鉄工」などがある。このうち「盛栄堂」は規模が大きく、日本が公式に推薦している伝統工芸の製造元である。
南部鉄器は、古くからの伝統と技術を備えた鉄器で、とりわけ南部藩主の南部利之公以来、特産品となってきた。この技術を保護するため、南部鉄器は早くから伝統の工芸品として発展してきている。この製品は、質の高い鋳鉄と伝統の技術が使われ、その古めかしい鉄肌と飾り気のない作風は純日本的なスタイルとして日本で高く評価されている。南部鉄瓶はまた、さまざまな伝統の長所を集めた作品であり、人々の高い評価を受けている。時代の変化と美感の変化に合わせ、南部鉄瓶は、伝統の技法を土台としながら、現代の生活と見合った作品を生み出し、実用的な湯沸かしとしてだけではなく、装飾の機能も兼ね備えた美術品となった。このように質の高い工芸品は、人々が長く保存し、使用するのに適している。
現在、中国大陸部と台湾地区で流通している古い鉄瓶は、ほとんどが大正から昭和にかけてのもので、1925年前後のものとされる。こうした80年ほどの歴史のある鉄瓶は台湾では骨董としてもてはやされるが、日本で骨董とされているのは江戸時代より前、1868年より前のものにさかのぼるだろう。一般の日本人にとっては、鉄瓶は旧時の家庭用品だった。また日本の茶道界でも鉄瓶を使うことはあるが、茶を点てるのは茶釜が中心で、茶道界で古い茶道具を集める時にも、ほとんどが茶釜の収集となる。鉄瓶の収集の歴史はそれほど長くないが、骨董品として愛好する人は少なくない。骨董の本にも鉄瓶が並べられていることもあるが、名釜師の作品、大西家の作品や龍文堂の作品などが中心となっている。20年余りの収集経験のある専門家によると、収集家は鉄瓶との「対話」の重要性を知り、さまざまな角度からこれを鑑賞し、その独特さと完璧さを見出さなければならない。良い鉄瓶は、鉄瓶を本当にわかる人に愛され、保護されなければならない。また本当に優れた収集家は、古い鉄瓶を使用し手入れすることによって、そのもともとの価値以上の美しさを引き出すのである。
文化の融合の加速に伴い、鉄瓶の工芸と紫砂の工芸は、少数の中国の工芸家の手によって融合され、鉄瓶を模倣した紫砂という創意に満ちた作品を生み出した。この作品は、その美しさと珍しさにおいて日本の鉄瓶をはるかに上回り、保温性の高さという鉄瓶の特長と紫砂壺の芸術性とを兼ね備え、発表されるとすぐに収集家の注目を受け、コレクションとオークションの分野での新たな目玉となった。日本の鉄瓶作りは400年余りの歴史があり、ひとつひとつ手作りされる。鉄瓶の外側の模様は細かく、鉄瓶を作る釜師が一代一代伝えてきた伝統の味がある。だが時代の変化に伴い、古くからの工房の中には継続できずに閉鎖したものもあり、古い鉄瓶に高値が付く原因の一つとなっている。日本の鉄瓶には、鋳鉄のほかに砂鉄を使ったものもある。砂鉄を使ったものは稀少で、価格も高い。中国国内の鉄瓶はほとんどが大量生産されたもので、鉄の質も保証できない。数百元で買えるようなものでは、日本鉄瓶の旗を立て、これを真似ようとしているが、日本鉄瓶の精髄を味わうことはできない。古い鉄瓶に収蔵価値があるのは、日本の昔の鉄瓶だからなのである。