【14-05】中国人ファンから見た黒澤映画
2014年05月09日
スティーブン・プリンス『武士のカメラ:黒澤明の映画』は、黒澤明の代表作『生きる』(1952年)について、「内からは人物の心中に深く入り込み、外からは戦後日本の社会を描き出した」と評価する。平凡なできごとを扱いながら、人物と社会とが結び付けられ、主人公の胃がんと社会のあり方との間にしっかりとした連想関係が生まれているというのである。プリンスによれば、日本人にとって腹は「心」の住処であり、人間の思想も腹に存在する。主人公が腹に病を持ったことは、思想が病に冒されたことも意味する。なかなか捉えにくい論理だが、『生きる』では、不治の病を患ったことを知った主人公・渡辺が生き方を変えることを決める。胃がんは社会を反映する手がかりであると同時に、当時の日本にとって高い現実性を帯びていた。
胃がんは、東洋人の発症率が高いがんの一つであり、日本の状況は当時、最も深刻だった。日本の公式調査によると、日本の胃がんの発症率の高さは、飲食習慣における塩分過剰摂取とビタミンC不足に由来しているという。戦後日本においては、飲食習慣の乱れと大きなストレスにより、胃がんが多発し、伝染性を持つ肺結核とともに致命的な病気の一つとなっていた。これはどうにもできない事実であった。『酔いどれ天使』では、黒澤が三船敏郎に肺結核の運命を与えている。『酔いどれ天使』は社会批判の色がさらに濃く、プリンスの論理に従えば、日本では胸もまた「心」のありかなのかもしれない。
黒澤作品では、社会批判と人間観察が自然に表現される。黒澤によれば、「関心事を表現しようとすると、人間描写が始まる」という。『生きる』では、朝から晩まで忙しく休暇を取ったことのない渡辺が、「休暇を取らないのは、市役所に欠かせないからでしょう」と声をかけられ、「私が休んだらいてもいなくても同じだとわかってしまうからです」と答える。小人物を表すこのようなセリフで、人間の孤独や社会との疎遠が生き生きと描き出される。このような工夫は、黒澤の経験の蓄積によって生まれたもので、理論的に学ばれたものではない。
黒澤明が若い時、前妻の娘をいじめる継母が近所にいた。ある時、継母に柱に縛り付けられていた子を助けようとしたことがあった。だがその子は、縛られている方がましなので余計なことをするな、そうでなければもっといじめられる、縛り直せと言ったという。こうした経験によって黒澤は人間とは何かを学び、同じ論理を映画に持ち込んだ。黒澤の初期映画は細かい観察が際立っている。
黒澤に対する記号的で固定的な解釈を捨てれば、その作品にさらに近づき、白黒の画面に現れる様々な人物に出会うことができるだろう。黒澤は、私たちと同じ普通の人だった。その黒澤が偶然、映画の世界に入り、東洋の映画の新次元を切り開くことになった。伝説的な映画を生んだのは、深遠な抽象理論や過度の解釈ではない。
偶然が重なり映画監督に
人間は何かの間違いによってある道を歩き始めることはあるが、この道をどこまで進めるかはそれぞれの能力にかかり、そこにこそ生命の鍛錬がある。生命に自分で意義を与えることのできる幸運に巡り合える人は少ない。生命の意義とは、無数のディテールの連続であり、気に止められることのないふるまいに宿っている。映画監督という道を歩み始めたばかりの黒澤は、自身の映画が彼自身より重要な存在となることを意識してはいなかっただろう。
1930年、当時20歳の黒澤明は徴兵検査の命令を受けた。中日間の戦争が激化していることは見識のある人には明らかで、兵士となることは死と向き合うことを意味していた。だが当時の徴兵司令官が父の教え子であったことが幸いした。司令官に希望を聞かれて「画家」と答えた黒澤は、この回答が自らの運命を変えるとは考えてもいなかったが、司令官に「軍人でなくても国のために尽くすことはできる」と言われ、兵役からは免れることとなった。黒澤は、映画監督になるまでに点呼に一度参加しただけだったが、参加者のほとんどが心身に欠陥を持つ人であるのに気付き、戦争に直接巻き込まれることのないグループに類別されたことを知った。
若い頃の黒澤明は兄の保護下にあり、兄の自殺によって家庭を支える責任に直面した。すぐにでも仕事を始めなければなかった黒澤は、PCL(東宝の前身)の助監督募集の広告を偶然見つけた。絵画の基礎のあった黒澤は、映画には何の興味もなかったが試してみた。映画を撮れるかにこだわりはなく、採用されれば幸運だし、採用されなくても失うものはない。細かいことにこだわらず何でも話す黒澤だからこそ、このチャンスに恵まれ、映画界に入ることができたのかもしれない。助監督の給料が少なかったために黒澤は脚本を書いて収入を得るようになり、才能を徐々に現すこととなった。
助監督を長年務めた黒澤明はふと小説『姿三四郎』に目をとめ、監督デビュー作として映画化することを思いついた。だが当時はほかの大企業も原作者の富田常雄に映画化の交渉を行い、大スターを主役に据えることを約束していた。偶然にも富田常雄の夫人が黒澤明の脚本を雑誌で読み、黒澤による作品化を夫に強く勧め、黒澤は願い通りの『姿三四郎』で監督デビューを果たすこととなり、この作品は一躍人気となった。
受け継がれる「黒澤遺伝子」
『姿三四郎』は娯楽作品だが、その中には、黒澤映画の多くの秘密が潜んでいる。姿三四郎が乱暴者から優れた武術家に成長するストーリーで、二つの構造を持つ。一つは7回にわたる柔道格闘シーンで、もう一つは三四郎が心の修行を行う過程である。黒澤は、ハリウッドの手法を積極的に利用した最初のアジアの監督の一人である。『姿三四郎』の最初の場面にはレールカメラが応用されているが、このレールカメラは縦方向に動いて姿三四郎の視角を表現し、観衆をスムーズに映画の世界に招き入れるものだった。7つの格闘シーンがすっきりと編集されているのも特徴的であった。それまでの日本の格闘映画は長回しで撮られるのが普通で、有名な『雄呂血』の長い格闘シーンは舞台劇を撮影したものと思えるほどである。『姿三四郎』は短い格闘を幾つものカメラによって捉えたもので、多層的となっている。以降の黒澤の神業と言われたモンタージュの技はここにすでに芽を出している。
黒澤明は自分で脚本を書き、監督を務め、編集することにこだわっていた。黒澤の映画にはドラマチックな要素が散りばめられている。『姿三四郎』でも、道場の娘が主人公に反発するという常套のエピソードが盛り込まれ、ストーリー展開の妙薬として使われている。また姿三四郎が「心明活殺派」に入門し、その夜に矢野正五郎を襲撃に行くことになる最初の場面は、矢野の武術の凄さを目にした姿三四郎が矢野に弟子入りを志願するというエピソードで有名となった。最後の決闘場面は、草むらが舞台で、背の高い草と強い風の中、人間の動作と草の揺れとが流れるような画面を作り出している。周星馳の『新精武門』の中でもこれが使われ、ジェット・リーの主演した『精武英雄』での陳真と船越文夫との格闘もこの場面を利用している。
黒澤明は姿三四郎を武士として見ていた。姿三四郎の修行の過程は、武道と原則を守る武術家となる過程であった。『続姿三四郎』では、三四郎が日本の柔術家が外国のボクサーに倒されたのを見ても、霍元甲や葉問のように立ち向かうことはなく、その場を離れることを選ぶ。自らの道を自らの立場から守るもので、『七人の侍』のような侍映画の片鱗も見せている。
自分の作風を確立
日本の映画製作は、歴史の長い京都と新興の東京を中心に行われている。東京では現代の作品が多く製作され、京都では時代劇の製作が主流となっている。時代劇は歴史を背景としているため、制限が現代劇よりも小さく、現在を遠回しに反映させることができる。中国でも数年前に清代の宮廷を舞台とした劇が人気となったが、「紀暁嵐」シリーズや「康熙帝お忍び訪問」シリーズは、古代の舞台を借りて現在を風刺し、喜怒哀楽を表現するものだった。往時の日本の時代劇にもこうした傾向があった。とりわけ関東大震災後、東京の映画製作所が大損害を受けたために、多くの製作会社が関西に移った。京都の歴史ある古代建築は、時代劇を育てる天然の沃土となった。
時代劇と舞台を同じくする侍映画もこれによって発展し、『七人の侍』は形式面から内容面まで時代劇の新たな時代を切り開いた。初期の侍映画はチャンバラがほとんどで、現在も残る映画の多くも格闘シーンを中心としている。チャンバラという名前自体、刀や剣の音を模倣したものである。有名な忠臣蔵も銀幕に繰り返し登場し、チャンバラシーンも発達していった。だがその核心はあくまで、主君を失った浪人が仇討ちをするという方向性にとどまっていた。
侍映画が社会批判の意味を持つようになるのは、黒澤明とその師匠の山中貞雄の『人情紙風船』の頃からである。武士が主を失って浪人となり、困窮して前途もなくなり、社会のどん底に落とされ、世間の風に吹かれ、人情の薄さを噛みしめる。黒澤明の『七人の侍』はさらにこれを進め、武士道精神の「忠」を方向転換させるものだった。
『七人の侍』は、農民が浪人を雇って野武士を退治する物語である。武士が主君に忠を尽くす代わりに、人々の利益のために働くというこの物語は、武士道を新たに定義し、新たな道を照らし出すものとなった。黒澤映画には人道主義的な側面がある。こうした転換は現在から見ればそれほど大事ではないと感じられるかもしれないが、当時は人々の心を大きく揺さぶるものだった。
私個人が好きなのは、勘兵衛が7人の侍を見つけるくだりである。このくだりは魅惑的で、哲学とおもしろみに満ちている。我々の一生はまさに何かを探す過程である。受動的にその何かを受け入れるのではなく、自ら探しに出かけることは、一種の選択の自由を示すものであり、こうした探求の過程は、最後に何を見つけたかよりもしばしば重要となる。
『七人の侍』の重要性は。黒澤明がこの映画を通じて開拓した新たな映画技術にもある。黒澤は映画の技術や表現に対して野心を持っていた。映画中の久蔵の原型は宮本武蔵であり、剣術家の代表格であるが、これを演じた宮口精二は剣術をまったく知らなかったため、一度は出演を辞退したという。黒澤はこれに対し、心配するな、剣術の場面はカメラでなんとかなると説得した。久蔵の一騎打ちの場面は結果的に、作品中で最も見どころのある場面となった。
複数のカメラを使って様々なアングルから撮影する黒澤の手法はよく話題となるが、これも元はと言えばやむを得ない措置だった。『七人の侍』には多くの騎馬戦や泥まみれの戦闘の場面が出てくる。人間は制御できるが、馬を完全に操ることはできない。一台のカメラではスムーズなカメラワークが確保できず、自然な格闘シーンを描き出すことができない。黒澤明は三台のカメラを使って一つのシーンを撮影し、よく撮れた映像を繋ぎあわせ、入り乱れた戦闘の様子をすっきりと描き出した。複数のカメラを使った撮影はアクションシーンに革新をもたらし、頻繁に用いられてきた。『マトリックス』でネオが空中で止まり、カメラアングルがぐるりと回ってネオの姿勢を見せる有名なシーンも、複数のカメラを使った映画手法のおかげの一つと言える。
『七人の侍』以降の黒澤明の侍映画は娯楽作品の方向に向かっていった。『用心棒』は黒澤自身、西部劇の大監督であるジョン・フォードの影響を受けたものだと明言している。この映画によって、一匹狼のヒーローが小さな町で悪者を退治し、最後にはふらりと去っていくというモデルが確立した。砂嵐の中の三船敏郎の奔放さや、決闘時の男の熱い血をたぎらせながらも落ち着き払った様子は、西部劇にそのまま応用できるものだった。セルジオ・レオーネの傑作とされる『荒野の用心棒』は、黒澤の『用心棒』を下敷きにしたものである。両作品は非常に似通っていたことから、日本側はその極東地区での配給権と全世界の興行収入の15%を得ることとなった。
異色の作品『羅生門』
黒澤明を語るには『羅生門』を欠かすことはできない。一つの物語に一体いくつの見方があるのだろうか。人は、立場に応じて異なる叙述をするが、似通っているのはそれぞれが己に有利になる角度から物事を見るということである。人間は死ぬまでこの虚偽を脱ぎ捨てようとはしない。逆に言えば、人間は無意識においてどうしても自らを粉飾するという原罪を抱えている。
『羅生門』は、黒澤が芥川龍之介の何本かの小説をつないで作った物語で、複雑な構造をしており、語り方も特殊である。さらに「原罪」をテーマとするところなど、東洋人には受け入れられにくいもので、日本では上映されると批判も受けた。だが物好きなイタリア人がこれをヴェネツィア映画祭に持ち込むと、映画の哲学的色彩と映像技術が西洋人に高く評価され、金獅子賞を受賞し、さらにはアカデミー外国語映画賞も受賞した。日本人は驚き、黒澤に対する態度も一変させ、黒澤は現実世界でも『羅生門』を体験することとなった。
『羅生門』は黒澤明にとっても特別な作品であり、同様の題材を黒澤が繰り返すことはなかった。西洋の映画人はこうした複雑で多層的な叙述の仕方を好み、同じタイプの作品が大量に生み出されてきた。張芸謀の『HERO』は表面的にはこうしたモデルを使っているが、原罪の追求といったテーマはなく、国家の観念によって個人の感覚を押し出し、「無名」が刺客を倒す過程では、視野が変わると同時に自我も消失しまうので、『羅生門』とは違う。だが張芸謀が黒澤の影響下にあるのは一目瞭然で、黒澤の『蜘蛛巣城』で使われた矢を効果的に用い、黒澤作品後期のカラー映画にも劣らぬカラーセンスを見せている。