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【14-06】日本の東洋史学者 内藤湖南と中国

2014年 6月30日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 漢学(現代の中国語では中国学を意味する)とは、中国以外に住む中国人以外の学者による中国文化に関する学術研究を指す。その研究分野は、中国の歴史、哲学、文学、音韻学、政治、経済、社会、法制、さらには華僑にも及ぶ。フランスの東洋史学者アンリ・マスペロ(Henri Maspeero)はこう言っている。「欧州以外では、中国こそがその本土の文化伝統が太古の時代から今日まで伝承されている唯一の国であろう」と。

 東アジアにおける漢学は、日本が中心となりその研究を進め、その研究成果は枚挙に暇がない。東洋史学者・谷川道雄の『隋唐帝国形成史論』、同じく小野和子の『明季党社考』、中国学者・川合康三の『終南山の変容 中唐文学論集』、同じく鈴木虎雄の『中国詩論史』、儒学者・東条一堂の『詩経標識』、同じく伊藤仁齋の『論語古義』等があり、早くからその名を馳せていた。

 日本における漢学は比較的早期に中国古典を受け入れ、その言語や文字を解釈し、中国古典詩文の内容や形式を受け継ぎ踏襲している。つまり、中国の学術、文化の影響を強く受け、中国古典の受容と解釈から生まれたものと言えるのである。そして、訳注、解釈、編纂を重ねながら、独自の発展を成し遂げた点に特色がある。

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 このように漢学についての研究が盛んに行われるようになると、優れた漢学者が何人も現れ、中日文化交流の推進に大きな役割を果たしたのである。ここで紹介するのは、日本の中国学、東洋史学の権威者であり、京都で栄えた中国に関する学派「京都学派」を育てた中心人物でもある内藤湖南である。彼の経歴が物語る通り、学術研究の過程で中国とは切っても切れない縁ができた。中国研究に対する奥深さや洞察力で、未だこれをしのぐ者はいないとされている。

 内藤湖南は、名を虎次郎、字は炳卿(へいけい)、湖南は号である。現在の秋田県の出身で、日本における近代中国学を代表する学者であり、前述の京都学派(東洋史学)の創始者の一人でもある。彼の中国学の研究は広範にわたり、中国史の時代区分の研究や多文化共生の発展動向の論証、近代史における重大な事件の分析や評論、さらには中国史学史、美術史、目録学史、敦煌学、満蒙史などの分野でも素晴らしい功績を残している。

 1907年、41歳となった内藤湖南は、人生における重大な転機を迎えた。彼は大学を出ておらず学士ではなかったが、京都帝国大学(現・京都大学)に新たに開設された文科大学に招聘され、東洋史第一講座の担任となった。これを機に、中国の歴史文化を研究する学者としての人生がスタートしたのである。彼は主に、東洋史概論、中国上古史、中国近世史、清朝史専門、中国史学史、中国書誌学史、中国絵画史、中国中古の文化などの課程を担当した。この間に、彼は狩野直喜、小川琢治、桑原隲蔵、浜田耕作、富岡謙蔵らとともに、中国学の一大学派を形成したのである。

 学風は主に2つである。ひとつは、実証主義に重点を置いた研究精神で、実地検証や原典の解読、文献を収集しての考証など、現実的で実践的な研究方法を重視したことだ。もうひとつは、中国を理解しようとする姿勢が大変親中的で、中国の同分野の学者たちと積極的に交流を図り、極力、中国的観点からの研究を目指したことである。

 また、学術の方向性と研究方針を定めるのに中心的役割を果たしたのは内藤湖南である。その学術の成果は国を超え、時代をも超え、多方面に多大なる影響を与えた。彼の学問は中国学以外にも、中日関係史、中日韓関係史など多岐にわたり、邪馬台国論争や江戸時代の町人文化の研究など日本史の諸分野にも突出した見解を示している。1926年、60歳になった内藤湖南は京都帝国大学を退官し、京都市郊外の瓶原村(みかのはら、現・木津川市)に恭仁山荘を構え、隠棲した。

 内藤湖南は生涯で9回(1899年、1902年、1905年、1907年、1908年、1910年、1912年、1917年、1933年)も中国に渡り、華北、東北、長江流域の大都市や、北京、天津、瀋陽、上海、南京、蘇州なども幾度となく訪れ、深い考察を加えている。名所旧跡をまわり、貴重な史籍を調査、収録する過程で、羅振玉、王国維、厳復、張元済、文廷式、沈曽植、方薬雨、鄭孝胥など、当時の中国の著名な学者や思想家、政治家や官僚、ジャーナリストを訪ね、親交を深めている。ともに清末の中国改革の成功と失敗、成果と損失について討論し、中日の歴史文化の共通点と相違点を比較し、学術を極めている。彼はこれらの人々と長年にわたり友好的交流を深め、中日近代学術研究の発展に大きく寄与したのである。

 内藤の東洋史観に着目し、彼の歴史認識に焦点を当ててみると、2つの主張を展開していることが分かる。ひとつは「文化中心移動説」、ひとつは時代区分論を展開する「唐宋変革説」である。

 前者は、ある時代、ある地域に形成される文化・文明は当時の時代の趨勢や土地の高低、山・川の配置により育まれていくものであるが、それは永遠に不変のものではなく、発展・変遷し、進化するものであるという説である。

 たとえば、中国文明は全土を九等分して九州と呼んだ時代の冀州、豫州に起源し、そこから洛陽を中心とする初期文明が形成された。しかしながら、戦国末になると、洛陽はその活力が衰え、前漢の後は長安文明がこれに代わって栄え、中国史における有名な長安の繁栄を迎えるのである。だが、長続きはしない。唐朝の衰えとともに長安の地の風格や気品も影を潜め、中国文明の中心は燕京(北京)に移っていく。ただ、燕京は、これまでの文化の中心地洛陽、長安とは少し様相を異にしていた。燕京は東北の地の利を生かし形成された政治の中心地であり、文化の中心は、長安(西安)が衰退後は徐々に六大古都のひとつである南京を中心とする長江の南岸地域、江南に移っていったのである。江南は宋以降、中国の文化・文明の先進地となり、政治の中心は北、文化の中心は南という2つの勢力が確立された。

 内藤はこう予言している。「東洋の文化の発展においては、時にその民族や国境を越え、ひとつの"東洋文化圏"を形成する。今後、中国文化の中心は日本に移り、日本が中国文化の復興を実現するだろう。これこそ近代日本国家の使命である」と。

 内藤湖南の「唐宋変革論」は中国史を時代区分の考え方で論じる説であり、この説は日中双方の中国史の研究に深い影響を与えた。(『二十世紀唐研究』、(中国社会科学出版社、2002年1月)、305ページ)

 日本の六朝隋唐史研究で知られる谷川道雄はこう述べている。「上古から現代までの中国史を総体的に把握し、優れた学説を述べられる者といえば、やはり内藤であろう。内藤の学説は今日でも、学問の世界に深く影響を及ぼしている。特に注目すべきは、彼の中国史時代区分論(中国史時代区分問題)であろう。唐代が中国史全体の中でどのように位置づけられているかは、この考え方と密接に結びついているのである。」さらにこう続けている。「内藤湖南の"唐宋変革論"は既に日本の学者の間では定着した論説である」と。(『二十世紀唐研究』序二)

 内藤湖南が中国史に提唱した時代区分及び宋代近世説は、現代の中国における関心事や考え方に大きな影響力を持つ。辛亥革命以後に中国が陥った政権崩壊や、軍閥が割拠する暗黒時代の失望感など、清末の中国の研究は、内藤の追求心を掻き立てた。政治的、経済的、文化的変化は中国史上のどの時期に起こったのか?

 彼が導き出した答えは"宋代"であった。宋代以降の近世は誤った考え方が横行しており、中国が未来に前進するためには、貴族の支配下から解放され、これまでの形式重視から自由な発想を重んじる文化へ移行しなければいけないと気付いたのである。だからこそ、この宋代近世説の考え方は、同時期の世界各地に比べはるかに先進的で、高度に発達した輝かしい文明を有していたのである。これは今から一千年近く前の中国であり、まさにこの早熟すぎた文明のために、現在の政治腐敗、経済的貧弱を誘発し、出口を求めて奔走する中国、これこそが今の中国なのである。

 中日文化の関係性については、内藤湖南が生涯の学術活動を通じて追求し続けた重要なテーマであった。内藤は、日本文化と中国文化は同じ黄河流域に起源を持つひとつの古い文化であり、日本文化はこの古代文化に刺激され派生し、成長しはじめたサブシステムであると考えた。「中日文化同一論」である。日本文化は東洋文化として、中国文化の延長線上にあり、中国古代文化と同じ血筋を持つからには、日本文化の根源を知りたければ、まず中国文化を理解しなければならない。これもまた、内藤湖南が生涯に渡り中国研究に携わる出発点であり終着点であったといえる。

 内藤湖南は『日本文化とは何ぞや』でこう述べている。「豆乳はたしかに豆腐になる性質を持つが、そこに凝固剤を入れなければ、豆腐にはならない。日本文化は豆乳であり、中国文化はそれを豆腐に変えるにがりである。別な例を挙げるなら、子供は生まれつき知識を吸収しようとする能力を持つが、子供に正しい知識を教えるためには、年長者の指導が欠かせない」と。

 内藤は、ベトナム、朝鮮、日本という中国周辺の国家は皆、中国から派生した中国文化の支流であるとの立場をとっている。

 「中国は大陸に建国され、独自の文化を持っている。日本は島に建国され、その文化は外部から許され、借りたものである。」内藤湖南はこのように述べている。

 内藤湖南のような中国研究家が、自国の実情を踏まえて中国の伝統文化を研究したからこそ、中日両国の文化の遺伝子が通い合い、両国の人民の距離が縮まったのである。