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【14-07】売茶翁の煎茶道

2014年 7月22日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

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 お茶は、生薬として用いられてきた歴史がある。生薬の処方では湯薬、丸薬、散薬(粉薬)を使い分けるが、お茶は湯薬に含まれる。湯薬は生薬を水から煎じて、煎じた液体を服用することから、煎茶の呼び名はここから生まれたと言われており、古くから茶葉の新芽を湯で煮出すことにより成分を抽出し飲用していた。

 宋の八代皇帝・徽宗が著した『大観茶論』では、『点茶法』とは、茶葉を蒸し臼でついて団子状にしたもの(団茶)を削って粉末にし、少量を茶碗に入れ湯を注ぎ、ゆっくりかき混ぜて飲む、と記されている。しかし、団茶の製造には手間がかかる上に、当時は役人や文人など一部の富裕層が楽しむものに過ぎなかった。

 民間出身の明太祖は、唐王朝の皇帝太宗の高級志向に反対し、龍鳳団茶に代表されるような高級な団茶を使うことをやめ、茶葉を用いるようにした。

 清代に入ると、製茶の技術も徐々に改善され、茶葉の品質も高まり「泡茶(湯の中に茶葉を浸してじわじわと葉をふやかす)」が「煎茶」に取って代わった。しかし、「礼失われて諸を野に求む」ごとく、「煎茶」は、今の日本では主流となっている。

 煎茶道の歴史を知る上で、唐代に陸羽が著した書物「茶経」は茶書としては最古のものである。

 南宋時代、日本の栄西禅師が中国から様々な茶種を持ち帰り栽培を奨励し、喫茶法を普及したことで、煎茶は日本で流行しはじめた。

 一般的には、日本の茶道といえば抹茶を用いた茶道のことを言う。抹茶とは、生の茶葉を蒸してから乾燥させた碾茶を刻み、葉柄、葉脈などを取り除いたあと、真の葉の部分だけを茶臼でひき粉末にしたものである。黒味を帯びた濃緑色の濃茶(こいちゃ)と鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)がある。

 その点て方は、茶碗に抹茶を入れ沸かした湯を注ぎ、茶筅でかき混ぜ充分撹拌したら飲む、というものである。

 一方、煎茶の飲み方は中国と似ており、茶葉を急須に入れ、お湯をそこに注ぎ抽出する方法が一般的である。

 日本では、煎茶道は抹茶を用いる茶道よりその歴史は500年も古いが、茶道として形成されたのは200年もあとのことだったのである。

 煎茶道の創始者は石川丈山や隠元隆琦と言われるが、煎茶の祖、茶神と呼ばれたのは売茶翁であり、そのことは誰もが認めるところである。売茶翁が「煎茶の祖」と呼ばれるようになったのは、日本の鎖国政策と明代末に黄檗宗が福建から日本に伝わった歴史と深く関係する。

 1630年代、日本の九州で厳しいキリシタン禁制が発端で農民一揆が発生、1633年から5次にわたって出された鎖国令は、1641年、オランダ人を長崎の出島に移し、鎖国体制を完成させた。すべての人の出入国を禁じ、国外との関係は完全に断たれたのである。この閉ざされた政策は、ペリーが浦賀に来航する1853年まで212年にわたり続いた。

 一方で、その例外として中国とオランダの商船のみが長崎から上陸することを許され、長崎は日本が海外と取引きできる唯一無二の港となった。中国人にとっては絶好の活躍の場となり「中華街」が栄えたのである。

 最も特徴的なものに、長崎に建立された唐三箇寺(三福寺)と呼ばれるものがある。興福寺、福済寺、崇福寺の3寺で、それぞれ江浙省、泉州・漳州、福州籍の唐人たちが同郷団体を形成した。これら「唐寺」の建築は、どれも明・清の僧侶が設計し、住職も中国人が務めた。そして、その創建の目的のひとつは、唐船乗組員らが海上の安全公開を祈るため、中国南東沿海の守護神である天后媽祖像を祭るための礼拝場所が必要だったことにある。船舶商が寄り集まった結果、唐船は貿易品以外にも、大量の絵画、書籍、芸術品等、華僑にとって貴重な「故郷の文物」をも日本にもたらした。長崎は中国文化を吸収し伝達する拠点となり、三福寺の僧が後の日本の茶文化に影響を与えたことは言うまでもない。

 人文・歴史学の観点からみると、抹茶道は17世紀末に形成され、禅宗の広がりとともに禅学文化を代表するものとなっていった。一方、煎茶道は明・清の文人文化の精神に富み、19世紀中期に形成されたのである。

 日本の歴史においては、天皇と貴族からなる中央政権である朝廷と、征夷大将軍を頂点とし実権を握る幕府との衝突は常に存在していた。抹茶道は武士がたしなむ必須の教養である一方、煎茶道は貴族らが趣味とし、様式に則って客人に振舞うものであった。

 二大流派の対峙は、あたかも「文化の格闘」でもあった。抹茶道をたしなむ人は多く、その勢いもあったが、型にはまりすぎて手順も繁雑なことから、しばしば批判の対象にもなった。ここに、煎茶道が生き残り発展するきっかけがあったと言える。

 売茶翁は徳川幕府時代の1675年、現在の佐賀県に生まれた。父親は鍋島家に仕える御殿医であった。

 11歳で出家し龍津寺に入り、法名を月海元昭とした。14歳の時、師・化霖禅師とともに長崎の唐三箇寺の中国人僧を訪ね、福建省北部で生産される青茶(烏龍茶)の1種、武夷岩茶を初めて口にすることとなった。15歳の時の修行では、宇治の萬福寺にて黄檗禅の文化活動に参加、22歳からは単身で修行し、諸方の善知識(真の仏教の先生)のもとを訪れた。29歳にして漢詩・漢文を自在に操り、唐人の煎茶三昧な風情ある生活に憧れを抱いたのである。

 その後、50年以上禅僧として生活をする中で、売茶翁は当時の僧侶の在り方をひどく嘆くようになった。真実の禅精神の実践を常に思いながら、こう詩を詠んでいる。「真実の禅精神を伝えようと、お茶を売る老人になった。ほめられようがけなされようが、お茶代で貧しい身を震わせるだけである。」

 61歳のとき、東山に「通仙亭」という小さな茶屋を開き、自ら茶道具を担い、銭入れを置いて茶を売り始めた。彼は看板にこう記した。「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい、ただにて飲むも勝手なり、ただよりほかはまけ申さず。(お茶の代金は小判二千両から半文までいくらでもけっこう。 ただで飲んでもけっこう。ただより安くはできません。)」

 当時の京都は人口が50万人に達する大都市であった。政治の中心はすでに江戸(現在の東京)に移ってはいたものの、古都京都は依然として文化、経済をリードする場所であった。売茶翁は、その文化的素養やその自由な生活スタイルから、各世代、特に青年世代にひとつの「ブーム」をまき起こしたと言ってもよい。書画家らは茶屋の風景を絵に描き、文人は売茶翁偈語(げご)の行間からインスピレーションを得た。彼とつながりの深い人らは、彼に憧れて、「売薬」、「売花」、「売酒」、「売炭」翁などと「売茶翁」を真似て名乗ったほどだ。

 ここで最も重要なのは、売茶翁が「煎茶」文化を民衆へ普及するために多大な貢献をしたことである。

 74歳のとき、売茶翁は後世まで伝わる『梅山種茶譜略』という著書の中で、お茶が日本に伝わった経緯について述べ、お茶の開祖と言われる神農、陸羽、盧仝などの業績を紹介し、お茶の栽培、製茶、飲み方からお茶に関する思想に至るまでを記している。

 売茶翁は「智水が内に満ち、徳沢が外に溢れ出て初めて、風雅な茶事に及ぶことができる」と述べているが、この思想は以下の詩ではっきりと表現されている。「酒は鋭気を養い人を奮い立たせるが、茶はただ心を清め徳を積むだけである。鋭気は四海に施しをもたらすが、どうして徳のごとく民衆を守ることができようか。」

 「工、其の事を善くせんと欲せば、必ず先ずその器を利とす(職人が立派な仕事をしたいと思ったらまず道具を研ぐ)」というように、茶道具は煎茶文化の重要な要素である。「煎茶五器」とは、風炉釜、茶壺、茶器、茶瓶、茶碗のことを指す。当時の話では、売茶翁の用いた茶道具の価値は、地位も権力も高かった武士にとって最も貴重とされる抹茶道の茶道具に引けを取らなかったと言われる。晩年、売茶翁を訪ねる客は絶えず、彼が熱心に集めた茶道具に魅せられた者は多い。しかし売茶翁は自分が死んだあとこれらが売り飛ばされないように、81歳の年の9月4日、箱から取り出した4つの茶道具を友人に分け与え、残りは全て燃やしてしまった。『仙窠焼却語』という彼の詩集の最後に、「私はこれまで貧しく頼る縁もなかったが、お前たちが長年私を支えてくれた。ある時は春の山や秋の水辺、またある時は松の下や竹林の陰で茶を売ることができた。おかげで食べる分のお金を欠くことはなく、80余歳を迎えることができた。今、老いた私はお前たちを使う力もなく、北斗に身をおき生涯を終えようとしている。世間の俗物の手に渡り辱められたら、お前たちは私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう。しばらくしたらこう言うであろう。白雲のごとく、妄想や煩悩は次から次へと沸き起こり去来しても、青山は山の元の姿のままあり続ける、と。」

 茶道具が焼失したため、彼独特の煎茶の「型」や道の文化は後世に伝わることはなかった。これは、日本のお茶の歴史上非常に大きな損失であったと言える。

 実際のところ、売茶翁の一生を通じての最大の喜びは、売茶の業を営む日々にあった。少年の頃に影響を受け憧れ続けた想いは、晩年になりようやく成就したことになる。彼は当時の僧侶の在り方への反発と、禅僧の素養としての抹茶道が形式化していることへの批判から、茶本来の精神に立ち返るべく、煎茶普及の活動に傾注したと言われる。

 幕末から明治に向かう変革期には、池大雅、木村蒹葭堂、上田秋成、田能村竹田ら文人たちが日本の煎茶道の道筋を築いていった。こうした人々に支えられ、幕末にかけ煎茶文化は最盛期を迎え、後代に伝わっていったのである。

 売茶翁は『梅山種茶譜略』でこう書いている。「茶種は神農が最初に手掛け、唐の陸羽がそれを受け継ぎ、盧仝が国内外に普及させた。後の詩人たちも誰もがお茶を嗜んだ。」

 彼の煎茶との関わりを過去にさかのぼれば、中国と深く関係していることがわかる。盧仝の『七碗茶歌』が中国から日本に伝わると、売茶翁は寺を飛び出し、盧仝の「清風茶」を街中で売り歩いた。「盧仝の茶の真の境地を知りたければ、その財布の金をこの銭入れに入れてください」と大きく宣伝しながら。銭入れにはさらにこんな詩文が刻まれていた。「煎茶は松風を起こし、人間の魂を目覚めさせる」と。

 晚年の売茶翁は、盧仝への崇拝の念が足りないのではないかと恐れ、陸羽のことは一切口に出さず、ただただ盧仝のことに触れ、自らを「盧仝正流兼達磨宗第四十五代伝承者」と称したのである。売茶翁が「清風旗」をかかげ、「通仙亭」を開いたことは、引用した「通仙」、「清風」という言葉に特別な思いを抱いていたことの表れであり、盧仝の生き方や思想に強い共感を受けていた。

 日本茶道界は売茶翁についてこう述べている。

 「売茶翁が述べる'盧仝正流'を聞くまでもなく、彼が清風茶を普及させたこと、またその発展の歴史を振り返れば、盧仝は売茶翁にとって何にも変え難い特別な存在であったことは十分に理解できる。盧仝と関わり、盧仝の考え方や思想にふれて感銘を受けたことで、売茶翁の煎茶が文人社会に広まることになったのである」と。

 このことこそが、日本人が盧仝を煎茶の始祖とし、売茶翁を日本煎茶の始祖としているゆえんであろう。