【14-08】中国の下駄と日本の下駄
2014年 8月21日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師
世界の人々が、日本と聞き、まず思い浮かべるのは和服と下駄であろう。和服も下駄も、日本の伝統文化を象徴する代表的なものである。
古代、下駄は「足下(あしした・そっか)」と呼ばれており、ここに中日両国の関係性を感じ取ることができる。
中国では古代、下駄は一般的な服飾品であった。文献によると、中国人は3000年以上にわたり下駄を履いていた。
1987年、中国の考古学の専門家たちが浙江省寧波慈湖の新石器時代末期の遺跡から、2つの下駄を発見している。どちらも左足用のもので、台が足の形をしており、つま先の方が幅広で、か かとの方が細くなっていた。
うち一つの下駄の台は平らで、上の方にひとつ、中央部分とかかと部分にそれぞれ2つずつ、合わせて5つの小さな穴が開いていた。上部と中央部分の穴との間には溝が掘られており、溝 の幅と穴の直径が一致していることから、紐をその穴に通して溝の中にはめ込み、台の表面を平らに保っていたと見られる。
またもう一つの下駄は、つま先の方は丸みがあり、かかとの方が角張っていた。6つの穴が開いているが、かかと部分の2つの穴の間にも溝が掘られている。調査の結果、こ の2つの下駄は4000年余り前のもので、良渚文化の遺物とされた。
春秋戦国時代に下駄は普及した。中国経典蔵書『荘子』には、春秋五覇(春秋時代の5人の覇者)のひとりである晋の文公が今から2000余年前に下駄を作ったと記載されている。
中国の小説集『異苑』によると、「文公が山を焼き払ったところ、臣下の介子推(かいしすい)が古木の中で母と抱き合って死んでいるのが発見された。文公は介子椎の死を悼み、焼 けずに残った木を伐採し下駄を作った」とある。
文公は帰郷後、介子椎への哀悼の意を表わし、カラコロと鳴る下駄の音を耳にするたびに、ニ度と同じ悲劇は繰り返さないと誓ったのである。
下駄の音を自分への戒めとし、そして国家・社会を正しく治めることに邁進したことで、晋国は春秋五覇のひとつとしてその地位を確立したのである。
こうしたことから、足下(そっか)が相手に用いる敬称として使われるようにもなった。
また、孔子が下駄を履いていたということについては、『太平御覧』698巻に収められている『論語隠義注』に次のような記述がある。
「孔子が蔡に到着し宿に落ち着いた日の夜、孔子の下駄を盗もうとした者がいた。しかし、下駄の長さが一尺四寸もあり、とても普通の人間が履けるものではなかった。下駄はそのまま置かれていたのである」と。< /p>
漢代になると、男女ともに下駄を履くのが流行となった。後漢の都、洛陽では嫁入り衣装として下駄は欠かせなかったが、こだわりのある人は下駄に色とりどりの絵を描き、5色の鼻緒をすげていた。『後漢書』五 行志や応劭『風俗通』には、「延熹の頃、都の位ある人々は皆、下駄を履き、女性は結婚する際には下駄に漆を塗り5色の鼻緒をすげた」と記されている。
このような漆塗りの下駄は、現在の中国安徽省鞍山市郊外で発見された呉の名将であった朱然とその妻の合葬墓から出土している。
下駄は精巧な作りで、台となる木の部分には3つの小さな穴が開けられており、全体には漆で絵が描かれている。底には2本の歯が付いており、朱然の妻の副葬品と見られている。
また、2本歯の下駄だけでなく、この時代、軍隊では平底の下駄も用いられ、足が草のトゲなどで傷つくのを防いだ。その意味では、歩兵だけでなく、少なからず庶民も外出時には下駄を履いていた。
魏晋南北朝時代には、下駄を履く習慣が浸透する。この時期、下駄は外出用のみならず室内でも履かれるようになった。
『世説新語』「忿狷篇(短気な人物の逸話集)」に、「晋の王述は、卵を食べようと箸で刺したが上手くいかなかった。すると大いに怒り、卵を床に投げつけたが割れずに転がると、下駄の歯で踏みつぶした」と 記されている。晋王朝では室内で下駄を履いていたことが、このことからわかる。
また、『晋書』「謝安伝」にもこう書かれている。
「謝安は、甥の謝玄らが前秦の苻堅の大軍を打ち破ったとの手紙を受け取った時、客と碁を打っていたが、少しも喜ぶ様子を見せず、その手紙をベッドに放り投げ碁を続けた。客が嬉しくないのかと尋ねると、た だ賊を破っただけのことだと静かに答えた。碁が終わり、客が敷居をまたぎ帰っていくと、謝安は歓喜のあまり躍り上がり、下駄の歯が折れたことにも気がつかなかった。冷静を装い、他 人にはそれらしい素振りを絶対に見せない、それを物語る出来事であった」と。
これもまた、晋の人々が室内で下駄を履いていたことの一例である。
注目すべきは、この時期に「謝公の下駄」が生まれたことである。『南史』には、謝霊運が着脱式下駄を発明したと記されている。この下駄はホゾ穴とホゾ、着脱可能な2本の歯で作られており、山 登りではからだのバランスを平衡に保つため、山を登る時は前の歯を外し、下る時は後ろの歯を外す。歴史上、これが「謝公の下駄」と呼ばれているものである。
唐代の詩人・李白は、「足には謝霊運特製のかの下駄を履き、山を登り行けば、あたかも青雲の梯子を登り行くかのよう」という有名な詩を残した。
これ以降、庶民は挙って「謝公の下駄」を真似、次第に下駄は生活に定着していったのである。重宝で役立つこの下駄は、まもなく南方にも広まっていった。
この「謝公の下駄」が、後の日本の下駄に重大な影響を与えたと見られている。日本の伝統行事、結婚式、祭などの儀式では、日本人は伝統的な和服を身にまとい、下駄を履き、日 本の伝統文化を誇りに思い継承している。
中国語の「木屐」は日本語の下駄(げた)である。足を載せる台の部分の材は、主に桐、杉が使われる。
ひとつの木から台と歯を作るものを「連歯下駄」と言い、歯が1本のものは「一本歯下駄」と呼ばれる。「一本歯下駄」は山道を歩くためのものであり、山中で修業する僧侶や山伏などの修験者が主に用いた。「 一本歯下駄」は「謝公の下駄」に由来すると考える研究者もいる。
鼻緒の材質は古くから様々であるが、よく用いられたのは麻、棕櫚、稲ワラ、竹の皮、蔓(つる)、皮などで、多くの場合、これを布で覆って仕上げた。色とりどりの鼻緒があることから、「花緒」とも書く。< /p>
日本の女性用の下駄は、通常先に丸みがあり幅が細く、男性用は先が角張っており幅も広い。
下駄の色はいろいろで、白木といい木そのままの色のものもあれば、漆塗りや黒塗りなどの台もある。
下駄は一見するとつっかけに似ていることもあり、木製つっかけと呼ばれることもある。
台の下には木製の歯が前後に1本ずつ付いており、これにより地面からの高さがある下駄は、ぬかるみや少々の積雪でも足が濡れることがないため重宝され、雨や雪の日に履く人もいる。一部の女性用の下駄には、p 爪先部分に覆い(つまかわ)がついており、これもまた雨やどろなどを避けるための役割を果たす。
靴類の中では、下駄の構造は特殊であり、通常、台、鼻緒、歯の3つの部分から成っている。
まず、台。これは下駄の基礎部分であり、一般的には木材を用い、靴底にあたる。中国では古来「木扁」と呼ばれた。そこに数個の小さな穴が開けられ、鼻緒をすげる。
この鼻緒は、中国では「繫」と呼ばれる。南朝時代の詠み人知らずの詩「提搦歌」の中で、「黄桑柘屐蒲子履 中央有系両頭系(ハリグワの木でつくるはきものも、わらじも中央に2本の鼻緒がついている)」と 歌われている。
最後に歯。台の下に付いている。その先端は平らなもの、角張っているもの、丸いものなどがあり、高さは6~8cm程で前後2本の歯の高さは大体同じである。
下駄の材料は主に木材であるため、中国語で「木屐」と呼ばれる。使用する木材には基準があり、きめが細かく固い物が良いとされる。
①その多くはクワ材で作られている。『南斉書』「祥瑞志」には、「(世祖が)襄陽においてクワの下駄を履き、太極殿の階上で過ごす夢を見た」とある。
②ナラ材の下駄。晋の稽含の『南方草木状』には、「ナラの木は水松のそばに植わっており、柔らかく、のこぎりで切断もしやすい。湿気を含んでいる内に穴を開ければ、瓜の皮をむくほどに簡単である。十 分乾燥すれば強度を持ち固くなる。......夏には除湿効果がある」と記されている。
③ズミ材の下駄。
日本には現在でも日本最古のはきものである下駄を生産している地域がある。広島県福山市で生産される下駄は、国内総生産量の60%を占め、大分県日田市がそれに続く。さらに福島、長野、新潟、秋田、静 岡なども産地として名を連ねる。
現在、高度な技術を有する下駄職人は数も少なくなっており、静岡では、この業界で公認された職人はわずかに5名である。
昼でも夜でも、都市でも農村でも、かつての日本では下駄の「カラコロ」という音が途絶えることはなかった。今やこの音は、お年寄りが昔をなつかしむ音のひとつになった。