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【19-11】紅茶の誕生(福建省)―中国茶の舞台を訪ねる

2019年6月24日 棚橋篁峰(中国泡茶道篁峰会会長)/竹田武史(写真)

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写真1 険しい山の斜面に栽培される「正山小種」の茶摘み。

深山幽谷の地に産する「正山小種」紅茶―その発祥伝説を検証する

 現在世界で最も親しまれているお茶は紅茶です。紅茶のような発酵茶は緑茶のような不発酵茶に比べて保存期間が長く、世界に広く流通して飲まれるために最適のお茶ということが出来ます。これまでお話したように、お茶が飲まれるようになってから明代の途中(1500年頃)までは、緑茶しかありませんでした。いったい何時から発酵茶が飲まれるようになり、紅茶が誕生したのかは、大変興味深いテーマです。今回は、紅茶発祥の地といわれる福建省武夷山市星村鎮桐木関を訪ねてみましょう。

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写真2 桐木関の関所。

 桐木関は、江西省と福建省の省境にある関所の名前です。この地域は、武夷山自然保護区の中にある深山幽谷の地です。宋代末期に移り住んだ人々によって細々とお茶の生産が行われていました。特に、廟湾で元祖・紅茶といわれる「正山小種」が作られ始めたのです。現在も廟湾で「正山小種」の工場を営む江一族は、宋代末期から代、500年以上の歴史を持ち、紅茶の発祥については次のような伝説を伝えています。

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写真3 茶葉工場に立つ石碑には「正山小種発祥の地」「金駿眉発祥の地」と記されている。

「先祖は桐木関に移住してからずっと製茶業に従事していた。明代末期のある年(1644年)、茶葉を採集する時期に、北方からの軍隊が桐木関を通過する際に茶葉工場に駐屯した。兵士たちが摘んだばかりの茶葉包みの上に休んだため、その茶葉は赤く変色してしまった。慌てた工場長は変色した茶葉を揉んで、松の薪で焙って乾燥させた。乾燥後の茶葉は潤いのある黒色になり松の香りがした。現地の人々は緑茶に親しんでいたため、この変わった茶葉を飲もうとしなかった。仕方がなく、工場長はこの茶葉を廟湾から45㎞離れた星村の茶葉市場まで運んで廉価で売った。ところが、翌年も同じ茶葉が欲しいという人が現れ、しかも2・3倍の価格で買い付けた。こうして紅茶が少しずつ生産されるようになった」

 これが「正山小種」、海外では福州方言の発音で「Lapsang Souchong」(ラプサンスーチョン)と呼ばれる元祖・紅茶にまつわる伝説です。確かに、紅茶をはじめ、烏龍茶・黒茶など発酵茶の始まりは、さまざまな伝説によって語られることが多いのですが、あくまで伝説であるため確証がありません。しかも、紅茶・烏龍茶・黒茶という分類は現代に始まったもので、緑茶以外のお茶に初めて出会った人々には、発酵茶という認識すらなかったはずです。江一族の伝説にしてみても、緑茶を作っていた製茶工場で、たまたま発酵が進んでしまった茶葉を薫焙して販売したということが述べられているだけで、それが果たして現代で言うところの紅茶と呼べるものだったかどうかは明らかでないのです。そのことは、採摘(茶摘み)→萎凋(茶葉を萎らせる)→揉捻(茶揉み)→発酵→過紅鍋(釜炒り)→復揉(二回目の茶揉み)→燻焙(匂いをつける)→篩揀(篩いで選別)と、複雑な工程を要する今日の紅茶の製茶法との違いを見ても分かります。

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写真4 茶葉を薫焙するための工場。下段が薪を燃やす炉、上段が薫焙室になっている。

西洋人によって発見された発酵茶の魅力―BOHEA TEAから紅茶へ

 中国茶は1610年頃、初めてヨーロッパに向けて輸出されているのですが、最初は緑茶だったはずです。しかし、夏の暑い時期に赤道を4回も通過して、4カ月以上かかる船旅では緑茶は必ず劣化します。それを防ぐために発酵茶が輸出に適したお茶として認められ、それをきっかけに発酵茶が大量に生産されるようになったと考えるほうが、より自然ではないでしょうか。

 武夷山に発酵茶が登場するのは、前号でお話したように1600年代に入ってからです。初期の「正山小種」も同じ頃に同じ理由で登場したと考えられます。また、この頃の桐木関のお茶に「正山小種」という名称はまだなく、単に黒いお茶という意味の方言で「烏茶」(発音:ウダ)と呼ばれていました。同じように福建省から江西省にかけては「江西烏」と呼ばれる発酵茶がありました。ヨーロッパで紅茶のことを「ブラックティ」と呼ぶようになった理由も、実はこのあたりにあると考えられます。

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写真5 発酵させた茶葉を竹笊に広げる作業。この後、薫焙が行われる。

 当時は、紅茶と烏龍茶の明確な分類は無く、ただ保存期間の長いお茶が望まれていたと考えるべきではないでしょうか。紅茶が広く普及し、製茶工程が確立した現代では紅茶と烏龍茶を明確に分類しますが、当時の人々は茶葉が黒く発酵したものを同一視していて、ヨーロッパの人々もこれらを総称して武夷茶(BOHEA TEA)と呼び、受け入れるようになったと思われます。つまり、当初の紅茶は、現在の烏龍茶も含む発酵茶のことだったと私は考えているのです。

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写真6 摘んだ茶葉を室内で萎凋する。

 19世紀になると、紅茶の味は飛躍的に良くなります。そして鴉片戦争後の1846年、イギリスのロバート・フォーチュンという植物学者が、東インド会社の依頼を受けて、武夷山の北側の江西省河口鎮を中心に紅茶の調査を行っています。その目的は、紅茶に適した茶樹を探すこと、紅茶の製茶技術を持った茶農を探すこと、の二つでした。彼はこの二つを手に入れ、インドのダージリンに送っているのです。その後、ダージリンがイギリスによる紅茶栽培の一大拠点になったことは皆さんもご存じの通りです。私は、この時期が今日の紅茶の完成期に当たっていると考えています。もし1600年代末期から1800年代初頭までの武夷茶(BOHEA TEA)と呼ばれた発酵茶が、今日の紅茶と同じものであったならば、わざわざロバート・フォーチュンが中国の紅茶技術を、インドに送る必要は無かったはずです。イギリスは、それ以前、すでに武夷茶(BOHEA TEA)の茶樹と製茶技術を手に入れていたのですから。

 このように17世紀に武夷山周辺で生まれた発酵茶の技術は、紆余曲折を経ながら今日の紅茶へと発展し、さらにその後、安徽の「祁門紅茶」のほか、雲南「滇紅」、福建「閩紅」、湖北「宣紅」等、様々な種類の紅茶が出てくるのです。桐木関の爽やかな風と川のせせらぎに耳を傾けながら飲む正山小種は歴史の香りがするのです。

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写真7 松のスモーキーな香りが特徴の「正山小種」紅茶。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.15(2019年5月)より転載したものである。