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【20-04】杭州の西湖と日本の名園 日本人が憧れる西湖の美景を取り入れた庭園の数々

2020年2月6日

吉河功

吉河 功(よしかわ いさお):

略歴

1963年東京にて日本庭園研究会を創立。同会会長。中国園林研究には36年の実績がある。現在蘇州市風景園林学会と杭州市風景園林学会の名誉理事。著書、論文多数。中国園林の著作に『中国江南の名園』『蘇州園林写真集』『蘇州耦園之美』等がある。

 日本人は古くから中国の名勝風景に強い憧れを抱いてきた。湖では鄱陽湖(江西省)、洞庭湖(湖南省)、太湖(江蘇省)など名高い景勝があるが、中でも杭州の西湖は最小の湖でありながら、「西湖十景」が最もよく知られている。西湖の美景が日本に伝えられたのは、禅文化の移入と共に好まれた中国の詩文や水墨画等の影響があると思われる。江戸時代初頭に大名や文化人達の間で「西湖」が有名になると、その景色を庭園に取り入れたいという動きが起こった。

 ここでは日本の有名な庭園に残る西湖の影響を見ながら、日中の文化交流の軌跡を繙いてみたい。

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杭州西湖

小石川後楽園

 小石川後楽園(東京)は水戸徳川家の下屋敷に造られた大名庭園。水戸家初代頼房の時、寛永17年(1640)3月、林羅山が園内を巡り、頼房の求めに応じて名高い『小廬山記』を著している。明暦大火後ここは上屋敷となった。1665年、徳川光圀は学問的欲求から名師を求め、明朝の遺臣で長崎に亡命していた名高い儒学者朱舜水(1600~1682)を師として迎えた。光圀はこの頃すでに上屋敷庭園の改修(第二次作庭)に着手していたが、朱舜水を学問の師としたことによって、中国趣味は一層深まった。朱舜水は浙江余姚の出身である。朱舜水にとって「西湖蘇堤」は懐かしい故郷の風景であった。その時から、庭園の西南部に「西湖」の造形が造られた。それが現存する縮小形式の「蘇堤」である。

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後楽園庭園の「蘇堤」は全国最古の作例である。

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西裏湖から見た「蘇堤」

旧芝離宮恩賜庭園

 楽寿園庭園は現在「旧芝離宮恩賜庭園」(東京)として国の名勝に指定されている庭園で、小田原藩大久保家の上屋敷に造られた大名庭園であった。本園には現在も園池の中央部に堤があり、これが「蘇堤」であることは明確である。小石川後楽園庭園に次ぐ古い作例で、こちらの方が少し長さが短いように感じられるが、幅が広く造りは堅牢で、しかも高さは二倍以上もある。橋のほぼ中央には、後楽園と同じく一橋を架ける。アーチ橋ではないが、切石三枚を横並べに架け、それに欄干を用いたしっかりした構造である。大久保家から出た『樂壽園記』には、短いながらも「西湖」関係の貴重な記載がある。その漢文には「蘇堤之柳」「断橋之雪」「柳観花港之魚」等の語が見られる。「蘇堤」は西湖十景の一つで、蘇堤春暁で名高く、列植された柳が名物であった。「断橋」は「西湖」東北部の白堤に架けられた橋で、断橋残雪が十景の一つであり、「花港之魚」は「西湖」西南部に位置し、同じく十景の一つ花港観魚のことである。

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楽寿園「蘇堤」の中央石橋

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楽寿園の「蘇堤」全景

縮景園

 縮景園庭園は元和5年(1619)浅野長晟が和歌山から広島に移封になって以降、作庭された回遊式の大名庭園である。従来、当初から「西湖」の景を参考にしたという説もあったが、実際は江戸後期になって園を大改修した際、「西湖」の景から一部の名称を借りて命名したというのが真相のようである。その時に参考にしたのが『西湖志』であった。当時「縮景園三十四名勝」が定められていたが、そこに「跨虹橋」、「小蓬萊」、「映波橋」等の名がある。基本的に名を借りているだけなので、具体的な関連はないという。

 縮景園は昭和20年の米軍による原爆投下によって壊滅的な被害を受けた。しかしながら、園中央にある「跨虹橋」はその時被害を受けたものの、基本的に損傷はまったく軽微であったという。これによって、中国式アーチ橋の優れた耐久性が実証されたのであった。

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跨虹橋

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西湖南部の大島「小瀛洲(小蓬萊と同意)」の西南部には、湖中に三基の石燈籠が立っており、この周辺を"三潭印月"と言う。背景は"蘇堤"。

養翠園

 和歌山市にある養翠園は、紀州徳川家の園(江戸末期作庭)であり、海に面した汐入式庭園で、古くから「西湖」を模したという伝承がある。その造形からして「蘇堤」を意図した園であることはほぼ明確であり、類例中では最もそれに近い作と思われる。日本庭園内の「蘇堤」では、基本的に橋は一橋とするのがせいぜいであって、「六橋」をかける様な例はない。しかしながら養翠園では、その半数の三橋を架けており、それからすれば最も「蘇堤」らしい景観と言えるのではないかと思う。しかし、その規模からすると幅もはるかに狭く、また堤を直角に折った平面にするなど、異なる点も目立つことは事実である。日本庭園の地割は、ほとんど曲線が主体である。江戸時代初期になると、小堀遠州が池の線に直線を用いて新味を出したが、このような堤の直線は例外的である。それにしても、「西湖」を意図したことは間違いないであろう。

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養翠園の「蘇堤」景観

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養翠園の「蘇堤」景観

千波湖・偕楽園

 水戸にある景勝地千波湖は、江戸末期に作られた園である「偕楽園」の存在で有名だが、江戸初期に徳川光圀が千波池に「西湖」の景を意図した可能性は高いと思われる。千波湖の北に保存されている東西に長い堤が、「西湖蘇堤」を模して造られたことだけは間違いない。それは光圀公の伝記史料として価値の高い『桃源遺事』に、「西湖の蘇堤になぞらへ」との記述があることで実証されている。

 偕楽園は、水戸徳川家九代藩主徳川斉昭(烈公)が、天保4年(1833)頃、千波湖の北に当たる七面山を切り開き梅園としたもので、今日では梅の名所として知られている。特に梅を好んだ斉昭が、水戸に梅が少ないことを嘆き、江戸から梅の実を少しずつ集め、ここに移し植えたのが最初であった。その経緯が今も石碑『種梅記』に彫られている。その後園は拡張され天保12年(1840)頃には大規模な園となった。斉昭は水戸藩の民衆と共に園を楽しむ事を理想とし、中国の古典『孟子』にある「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」の語から採り「偕楽園」と命名した。今も園内には斉昭自筆の石碑『偕楽園記』が保存されている。後に当園は日本最初の公園となった。

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偕楽園から見る千波湖

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千波池(千波湖)に光圀が造らせた「蘇堤」

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中国杭州の雷峰塔から見た西湖


※本稿は『和華』第23号(2019年10月)より転載したものである。