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【20-06】中国を茶旅する―鳳凰単叢と美食の街 広東省潮州

2020年3月10日

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウォッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。

広東省はかなり広い。そして実は同じ省なのに、
文化も言語も全く異なる地域が同居している極めて特殊な場所と言えるだろう。
昔某ビールメーカーの人間が、「広東省は『広州』『深圳』『潮汕』の3つに大きく区分けして、
ビールの味をその地域の好みに合わせて変えて、出荷している」と言っていたのが、
それを象徴しているように思う。今回は18年ぶりに訪ねた潮州、汕頭に関して紹介してみたい。

潮州へ

 広州から潮州へは高速鉄道で約2時間半かかる。同じ広東省内なのに、何と広いことか。更にはこの2時間半の間には、文化や言語が全く異なる世界が待っている。列車を降りると、そこは潮州駅ではなく、潮汕駅という名前だった。汕頭駅は別にあるのに、何故なのだろうか。この辺に地域内の複雑な事情が絡んでいる。なお福建方面へ行くには潮汕駅で乗り換えることになる。汕頭駅は行き止まり感が非常に強いローカル駅となっている。

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潮州 広済橋のライトアップ

 そもそも1980年、中国の改革開放に合わせて4つの経済特区が設定されたが、その内3つは広東省内にあった。香港に隣接する深圳は小さな街から中国有数の大都市に発展して、あの微信(ウイーチャット)を開発したテンセントなどのIT企業が多く、日本でも注目されている。珠海はマカオに隣接しており、製造業などが進出、安定的な発展を遂げている。

 それに引き換え福建省の厦門、1980年代は先進都市になるかとみられたが、90年代の密輸などにより、その発展は阻害され、中国沿海部では発展の遅れた街の様相を呈している。そして今回訪ねた汕頭は、当初から街が発展する雰囲気はなく、今でも街の中心に高い建物もなく、完全に発展から取り残されている感がある。勿論清潔にはなっているが、今やこれだけ昔の風情を残している街はむしろ珍しいのではないだろうか。

 潮州も同様に落ち着いた街となっていた。潮汕駅から車で30分ぐらいかけて、潮州市内に入る。潮州に来るのは2001年の春以来、実に18年ぶりであるが、どこを見ても見覚えがない。潮州古城の城壁の内側に入ると、路地に宿があった。そこは今流行りの民宿であり、古い民家を改造して、宿泊施設にしていた。それはそれで雰囲気は良い。

 韓江の川沿いを散歩した。何と午後8時からは、ライトアップまであった。中国の多くの街で採用しているが、ここはお客さんが少なすぎだろう、経費はどうなっているのだろうかと思うほど、贅沢だった。特に1000年近く前に作られた浮橋、世界で最初の開閉式の橋とも言われる広済橋が見事に浮かび上がり、撮影スポットとなっていた。風も心地よく吹き、良い散歩となった。

鳳凰単叢の歴史

 翌日はメインの烏崬山へ向かう。潮州まで来たら、やはりお茶を見に行く。鳳凰山(烏崬山)へ向かうのはごく普通のルートだろう。途中車はなぜか池のようなところで停まる。ここは海抜500mの所にある鳳凰ダムだった。ここより高い場所の茶を中山茶、800mを超えると高山茶というらしい。

 車は更に山を登り、一軒の茶工場に入っていった。私は鳳凰単叢の歴史を知りたいと思うのだが、なかなかうまく話が進展しない。お茶は単叢を何種類も淹れてくれるが、正直に言うと、単叢は茶酔いになることがあり、余り沢山は飲めないのだ。ここで昼ご飯をご馳走になりながら(このおかずがまた美味くてご飯が進む)、雨が止むのを待った。ちょっと裏の方を覗いてみると、最新式の機械設備が置かれる横で、女性の皆さんが懸命に枝取りをしていた。

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烏崬山 最新設備の脇で枝取り

 雨がほぼ上がったので、お暇して、また登っていく。18年前も登ったはずだが、こんなにきれいな道ではなく、もっと細い、土の道のイメージだったが、どうだろうか。そしてお目当ての烏崬村に到着した。確か前回はここで樹齢800年の茶樹を見たように思うのだが、今は枯れてしまい?樹齢500年の木が、覆いに囲われていた。今や一大観光地なのだろうが、雨のせいか人はほとんどいない。

 村の中を走ってみたが、やはり18年前よりは家々が増え、明らかに豊かになっている。これも鳳凰単叢が有名になり、ブームを迎えた結果だろうか。昔のあの素朴な、茶農家がバイクで行き来する姿はもうないようだ。そう、18年前は村の家でお茶をご馳走になった。そこの水が甘かったことはよく覚えているが、今もそうなのだろうか。茶農家が摘んだばかりの葉を、翌日までに製茶してくれ、買って帰った思い出もある。今はそんなのどかな雰囲気はなく、世の中は大いに変化しているようだ。

 鳳凰単叢の歴史、実はあまりよく分かっていなかった。今回現地で資料を入手し、関係者に話を聞いてみると、意外な事実が分かって来た。鳳凰単叢と言えば、『宋種』と呼ばれる古い茶樹があり、その歴史は南宋末に遡ると言われている。南宋最後の皇帝が元朝に追われてこの地に逃げ延びた際に宋種が生まれたとの話は多分に伝説的ではあるが、少なくとも明代にはその名が出てくるという。ただ宋代から生えていたという樹齢800年の茶樹は、1928年に枯れてしまい、現在見られるのはその後継4種だそうだ。

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烏崬山 古茶樹

 清代にはすでにかなり名前が通っていたようで、1810年には『鳳凰水仙』が全国24銘茶の1つに選ばれたという。清末鳳凰茶は、当地の人々の海外移住に伴って(潮汕付近も華僑の一大輩出地)、東南アジアなどに輸出されるようになっていく。1930年代には、潮州人らによりカンボジア、ベトナム、タイなどに数十軒の茶荘が開かれたらしい。

 第2次大戦時、輸出は止まり茶生産も停滞、茶畑は荒廃し、茶農家は苦しい生活を強いられる。戦後は他の茶産地同様、国営化の波が訪れ、生産大隊が結成される。尚鳳凰単叢という名は1950年代に、鳳凰水仙の内、品質の良い物を特に単叢と呼んでブランド化したと鳳凰茶の歴史にはあった。ここから鳳凰茶を盛り上げていこうという動きも見てとれるが、文革期には一時停滞し、80年代に再起を図ることになる。

 しかし改革開放期、汕頭が経済特区に指定された1980年代の資料を見ても、鳳凰単叢が海外に輸出された、との記録は見付けることが出来なかった。これに関して、80年代に輸出入公司に勤務していた人に尋ねると、「鳳凰単叢の生産量は元々多くない。地域内消費の他、地域外及び海外にいる親族、友人が当地に来た際は、必ず茶を土産として持たせる習慣もある。ハンドキャリーによる輸送はバカに出来ない量となり、公式統計に反映されていない」と説明された。華僑の故郷らしい話である。

 2000年以降、国内茶葉消費が活発になる中、徐々に市場に認知されてきた鳳凰単叢は、『黄枝香』『八仙』『烏葉』などの新品種が開発されて、2010年代には一気にブームが訪れた。筆者がよく訪ねていた深圳の茶葉市場で単叢を専門に売っている店でも、数年間は在庫が足りないほど、売れ行きが良く、嬉しい悲鳴を上げていたことを覚えている。その独特なフルーティーな香りは、多くのファンを掴み、日本でも愛飲者が急増している。

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潮州 老舗茶荘に残る古い茶缶

新しい茶産地へ

 昨日鳳凰山へ行ってしまったのに、今日も車に乗って出かける。また1時間ぐらいかけて堯平県と潮安県の境にある双髻娘山というところへ向かった。天気は小雨、そして待ち合わせ場所に責任者の劉さんが迎えに来てくれており、ここから先は細い急激な上り坂で、慣れていなければとても運転できないため、車を乗り換えて進む。生態公益林と名付けられた自然体系を守りながら、産業化していくプロジェクトのモデルになっているようだ。

 海抜1000mのところに茶工場が作られており、ここで数年前より大学の研究と茶業を一体化させた実験的な茶が作られていた。科学的、無農薬、無化学肥料、高海抜などを売りに、茶の生産も軌道に乗ってきており、有機認定などの取り組みも行われている。これまでの鳳凰単叢をさらに進化させ、大きなブランドにしていこうという試みだと受け止めたが、果たしてどうなっていくだろうか。劉さんのような若い人材が、新しい茶の試みを行っていく、それが現代中国の一つの形だ。

 周囲には樹齢100年を超える茶樹が他所から移植されており、山の上に茶樹畑が広がっている。雑草がかなり生え、茶葉には蜘蛛の巣が掛かっており、その栽培法が分かる。天気が良い日に、ここを散歩していれば気持ちがよいだろう。下界を望むいい景色が見られるそうだが、本日はあいにくの雨。残念ながら、ほぼ視界がない状態で、景色は次回にお預けとなる。所々に大きな岩があり、そこで記念写真を撮り、足を滑らせないように注意しながら、工場に戻る。

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双髻娘山 霧に包まれた茶畑

魅惑の潮州料理

 今回同行してもらった張さんは、実は非常にグルメであり、食へのこだわりが強いことに驚いた。聞けば、父親は湖北省で特級調理師だったといい、子供の頃から、その舌はお父さんに鍛えられたらしい。これは何とも頼もしい。潮州といえばまずは牛肉だそうで(筆者は全く聞いたことはなかったが)、夕飯は牛肉のしゃぶしゃぶを食べる。確かにこの肉は柔らかくて味もよい。街中を散歩すると牛肉の店は何軒もあった。

 翌朝は鳳凰山に行く前にまずは腹ごしらえを。朝ごはんを近所の食堂に食べに行く。潮州の腸粉。広州の飲茶で食べる腸粉は白くて細いが、こちらは卵が入っていて、やや黄色くて、かなり大きい。目の前で作ってくれ、熱々を食べると、実にうまい。これが潮州の定番朝ごはんだという。

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潮州の腸粉

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潮州地元料理の具材

 2日目の夕飯に出かける。今日は地元の潮州料理ということだったが、やはり甘いたれの鴨肉、鹵水鵝片が抜群にうまい。スープ、魚丸(つみれ)、どれをとっても、比較的あっさりしているが素材のうま味を活かした料理に特色がある。するめや干し魚などの海鮮乾物をうまく使って、うま味を引き出している。日本人に一番適している料理だと言えるのではないか。私はこれまで「中国を旅してどこの料理が一番おいしかったか」と聞かれると「新疆ウイグル料理」と答えて、ある意味顰蹙を買っていた?が、今後は潮州と答えるようにしよう。

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鹵水鵝片

 潮州料理のイメージは高級海鮮だった。特に台湾で食べた、ふかひれ炒めは実に贅沢にふかひれを使い、たまごとの相性も良く、強く記憶に残っている。ただ現地潮州で食べている限り、そのような高級食材は全く不要であり、ごく普通の食材で十分美味しさが出てくることがよく分かる。

 因みに香港の潮州料理屋に行くと、食前に「工夫茶」と言って、濃い目の烏龍茶が入った小さな薄い茶杯が出てきて、それを飲んでから食事がスタートしていたが、ここ潮州ではそのような食前茶は出て来なかった。これは清代から続く工夫茶の伝統を香港の食堂が継続したということだろうか。小さな急須と茶杯を使う、ある意味で中国茶芸の源流の一つだと思われるが、今回はこの謎解きにも挑むことは出来なかった。小さな薄い茶杯は、決して高価な品ではないが、なぜか愛着を持って使っている人が多いのが、潮州の焼き物の特徴であろうか。

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潮州料理に出てくる工夫茶

翌日も朝ごはんを求めて、潮州場内の保存された古い街並みを歩く。張さんはグルメであり、グルメの周囲にはグルメの友人が集まり、彼らから様々なグルメ情報が入ってくるようで、その店を探しまくる。道端でお茶をすすっている老人や天秤棒で野菜を売る人などに興味を惹かれ、はぐれそうになる。

 ようやく着いたその小さな店は、観光客は絶対に行かないだろうというローカルな雰囲気。店のおばさんも「あなたたち、どこから来たの?」と聞くほど、地元民しか来ない。そこには焼き魚やつみれ、ゴーヤーの漬物など、日本人には馴染みがある食材が置かれており、好きな物を取る方式になっている。それをおかずに食べるお粥、大腸のたっぷり入った粥は最高にうまい。これはもう幸せの域に到達した。私はここにずっと留まっていたいと思うようになっていた。

 3日目の昼、茶工場を見学したのち、堯平の街まで30分以上かかった。そこで遅いお昼を取ることになった。自然の中で食べる、という感じの食堂で、何やら期待が持てる雰囲気だった。潮州の食は本当に期待を裏切らない。やはり地鶏の肉は歯ごたえがあり、特に皮がうまい。また地元で採れたイモととうもろこしを蒸かしており、これがまた甘い。既にここ数日、美味い物をたらふく食べて、お腹がパンパンなのに、頭はまた食べることを要求してくる。何だか体の一部が壊れてしまったような感覚に捕らわれる。

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焼き地鶏

 夕方も午後6時には宿を出た。まだ昼ご飯を食べてから3時間ちょっとしか経っていないが、グルメの張さんにはそのようなことは関係ない。行きたい食堂が夜7時前には閉まることを知って、急いで飛び出したのだ。さすがにちょっとしか食べられないだろうと思っていたが、名物だと勧められると口にせざるを得ず、カボチャなどが美味しいのでまた食べてしまう。何とここでもまた結構な量を食し、ついに腹が爆発?

 翌朝、荷物をまとめた。ついに潮州を去る日が来てしまった。何とも名残惜しい。そして去る前に矢張り朝食。張さんも昨日の店が痛く気に入ったようで、2日連続で向かう。誰にも全く異存はない。今朝はシラス粥に焼き魚、そして漬物。まるで和食の朝ご飯のようなあっさりした仕立てが実によい。もっと他の物にも手を出したかったが、さすがにそれもできず、次回に持ち越すこととなる。

 お昼は街に降りていき、そこでまた食べた。ここでは潮州名物のウナギが煮込まれて出てきた。潮州のウナギといえば、一時は日本にも大量に輸出されていたことを思い出す。かば焼きではなく、太い輪切りを煮込むが、これが濃厚でまた絶品。エビやカニなど海鮮系も多く、潮州料理のうまみがにじみ出ていた。食後は近くの茶荘に入り、そこでオーナー自慢の鳳凰茶を頂く。何だか眠気が出てくる。これは確かに極楽旅だ。ここでずっと休んでいたい気分になる。

 今回は鳳凰単叢を旅する予定だったが、そちらは残念ながらほんの一部になり、完全に「絶品グルメ旅」と化してしまった。日本人には淡白な広東料理が合う、とよく言われているが、実際に日本にやってきた、いわゆる中華料理の中には、この潮州料理の要素が入っているのではないか、と思ってしまうほど、何回食べても飽きはこない。

 正直潮州の認知度は決して高くはなく、旅する日本人は多くない。古き良き中国の街が残されており、比較的静かで、現代の喧騒中国からも少し距離がある。そこに日本人好みの料理の数々が安価な料金で食べられるのだから、これは行ってみるしかない、ということではなかろうか。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.18(2020年2月)より転載したものである。