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【20-07】国清寺―遥かなる天台の夢 浙江省

2020年3月24日

阿南ヴァージニア史代

阿南ヴァージニア史代

米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。

国清寺は天台山の麓、竹林と深い樹林に囲まれた処に在る。
この寺院は特別な聖なる歴史と、そして、日本との強い絆を有している。
西暦598年に智顗大師によって創建され、天台宗派の総本山として天台寺と命名されたが
後になって、隋煬帝により国清寺と改められたと伝えられている。
法華経を最高経典とする天台教義は、中国僧鑑真によって日本にもたらされた。
804年、最澄は求法のため、天台山に半年ほど 滞在した後、帰国に当たって多くの経典を京都の延暦寺に持ち帰った。
比叡山の「日吉茶園」は、最澄が中国の茶の実を植えて造ったものである。
その後、円修、円載、円珍等、天台宗の僧侶達が、国清寺で修行するため海を渡って唐へ赴いたのである。

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隋代古刹:国清寺

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智顗(天台智者大師)の画像

 小雨の中を私は赭溪(しゃけい)にかかる豊干橋を渡って、国清寺の境内に足を踏み入れた。濃い霧が霊山の佇まいを一層神秘的なものにしている。訪問の目的は、唐時代に天台山への求法の旅を夢見ながら果たせなかった慈覚大師円仁を顕彰することであった。円仁は838年の遣唐使船に乗り、危険を冒して唐に渡ったが、それには天台教義に関する多くの疑問の答えを求めるという明確な目的があった。円仁は揚州に滞在し、天台山への旅行許可を待ったが、その請願は唐の当局によって却下された。円仁は短期滞在を目的とした高僧であり、国費を以て国清寺に学ぶ留学僧とは認められないというのがその理由であった。それでも、円仁は不退転の決意のもと、10年近く中国に留まり、五台山から長安へと旅して、各地で、高僧から学ぶことにより、仏教教義の理解を深めていったのである。然しながら、円仁は遂に、天台宗の聖地である国清寺に至ることは無かった。彼は、帰国後、死に臨んで、自分の供養のためには一本の樹を植えて欲しいと言い遺したこともあり、私たちは、国清寺に記念の樹を植えて、円仁の夢を象徴するものにしたいと考えた。住職の允観(いんかん)法師は雨の中に立って、私たち一行を温かく迎え、羅漢堂中庭へと案内してくれた。そこには、記念植樹のための羅漢松が一本、用意されて立っていた。允観法師は、率先して、私たちが日本から持参した土と水を撒き、お経をあげてくれた。

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赭渓にかかるアーチ型の豊干橋

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羅漢堂中庭での記念植樹

 次いで、私たちは「中日祖師碑亭」に行き、二基の石碑を見ることが出来た。これは、1982年、日本の山田恵諦天台座主の訪問の機会に建立されたもので、国清寺と日本の古い歴史が刻まれている。山田座主の手に成る日本語の碑文には、天台宗の開祖、智顗(天台智者大師)が弟子たちに200年の後に、東方から有徳の僧が当寺を訪れるであろうと語ったという故事が記されている。そして、最澄が国清寺に辿り着いた時、行満座主が、智顗の予言が実現したと宣言したとの記載もある。もう一つの石碑は、中国語の「行満座主贈最澄大師詩碑」であり、中国仏教協会の趙朴初会長が、天台山の僧侶たちと日本の永きにわたる友好について記述している。最澄の帰国に際し、行満座主は記念の詩一篇を残している。また、1996年5月15日、智顗入滅1400年の折、梅山円了天台座主の率いる223名の天台僧が国清寺に参詣し、日中合同法要を挙行した。日本の僧たちは、円仁の天台山への憧憬に思いを致し、大幅の円仁画像を国清寺へ奉納した。

 允観法師は、精進料理の昼食を摂りながら国清寺の歴史について様々なことを話してくれた。寺の境内には、"隋塔"と呼ばれる古い塔が在り、また、千年の古木が数多く残っている等々。文化大革命の時には、僧たちは寺に留まり、文物の保護に当たった。彼らは、農夫に成り、田を耕し、今日に至るまで、米や野菜の生産に従事している。私は野良で働く僧侶たちの姿を写真に収めた。その日、稲は既に刈り取られ、穀物を満たした桶が沢山、回廊に並べられていた。

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田んぼで働く僧

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国清寺で採れた米を入れた桶

 国清寺の古い歴史の今ひとつの証は1400年の樹齢を誇り、今も尚、実をつける隋梅である。その曲がった枝は大雄宝殿傍らの壁を越えて茂っていた。私たちは、デザートにこの隋梅の実をご馳走になるという思いもかけない幸運に恵まれた。私も寺の歴史への貢献として、1918年9月27日に日本の建築史家、関野貞教授が撮影したモノクロ写真を贈呈した。その一枚には、境内に立つ古代の"隋塔"「国清寺大磚塔と七仏塔」が写っている。允観法師はこの贈り物を大いに多としてくれた。

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珍重な"隋梅"の実

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「国清寺大磚塔と七仏塔」("隋塔")。関根貞教授撮影−1918年

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大雄宝殿内の仏像(明代)

 お堂巡りをする間にも、私は僧侶たちの活力、そして、この聖なる場所を覆っている平和な静けさに深い感銘を受けた。聳え立つ古木に向き合っていると、人は自ずから謙虚な気持になる。私の願いは「円仁の羅漢松」 がこれらの古木と肩を並べて、逞しく成長し、長寿を保ってくれることである。

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国清寺境内の古木

※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.18(2020年2月)より転載したものである。