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【20-09】禹王と日本人

2020年7月21日

王敏(オウ ビン)

比較文化学、東アジアの文化関係学、国際日本学を研究。宮沢賢治をはじめ日本の傑作を中国に翻訳・紹介すると同時に、『三国演義』『西遊記』『紅楼夢』など中国の名作への翻案を100余冊、日本で出している。近年、日本における治水神禹王の現存形態及び、周恩来ら中国指導者の日本留学に関する史実の調査研究を究めている。2009年に文化庁長官表彰。

 禹王は中国最初の王朝・夏の王であり、王になる由縁が黄河の治水における輝く功績にあることを、中国人ならだれでも知っている。中国史の始まりでもあるからだ。もともとは中国の神であるのに、日本でも民衆レベルで治水の神として「禹」が崇拝されているのは中国人にとり驚くべきことといわねばならない。

 私の日本における禹王信仰との出会いは今世紀の最初のころ。講演などの機会があって各地に出向くと、史跡で「禹」の字を見ることが度々だった。「禹王信仰」の発見に通じた。石碑というのは民衆とともに歴史を繋いでいると信じて2006年ごろから各地の禹王信仰の調査を始め、今も継続している。

 2013年には「治水神・禹王研究会」が立ち上げられた。日本の禹王関連の史跡や文化財の発見・研究に力を注いでいる。この研究会によって発見された禹王にまつわる史跡は少なくとも133カ所を超え、禹王が日本に与えた深い影響を物語っている。これらの文物の史跡には禹王を祀る廟や禹王の偉業をたたえる古い碑、「禹」の字をあしらった祭祀衣装などがあり、なかには国宝級の文物も少なくない。たとえば1630年に徳川幕府が純金で鋳造させた禹王の像は、現在、名古屋市の徳川美術館に保存されている。禹王信仰の関連地が相寄って2010年より持ち回りで、7回の「禹王サミット」が開催されている。

 日本人が禹王を崇拝する理由は大きく二つあり、一つは日本の皇室が禹王を尊敬したこと、もう一つは日本の自然環境と社会心理的な側面だ。

 5世紀の初め、漢の皇帝の末裔と言われる王仁が韓国(当時の百済)から儒家の経典を携えて日本に渡り、日本の皇室は儒学教育を大いに吸収した。儒学の経典「四書五経」の中には31カ所もの禹王についての言及があり、その勤勉さと叡智、治水偉業の数々に、日本の皇室は崇敬の念を抱いた。712年に日本で編纂された『古事記』や、720年の『日本書紀』などの古典でも禹王は天皇に並び称されている。

 昔から地震や水害に苦しめられてきた日本人は、救いを求めることで洪水や地震に立ち向かっており、それが皇室と国民を結びつける強固な絆となっていた。中国の古典典籍における禹王は日本に根をおろし、やがて日本の民間信仰の中の治水の神へと変貌を遂げた。

 禹王の精神に啓発され、皇室は奮起して民を率い治水に力を注いだ。1500年前、今日の福井県にある九頭竜川が氾濫し災害にみまわれたが、応神天皇の子孫が民を率いて治水に成功し、民の尊敬を集め第26代天皇に推挙されたと言われている。それがすなわち後に継体天皇(西暦450年~531年)と呼ばれる人物であり、その功績を記念して九頭竜川を見渡せる山頂に継体天皇を祀る廟が建立され、天皇と禹王をたたえる石碑が建てられた。それ以来、禹王が一層皇室と関連づけられるようになったのであろう。

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足羽山頂の継体天皇像

 また日本の伝統的調度品にも禹王の姿が見られる。たとえば、京都御所の襖絵には狩野派の画家、鶴沢探真(1834~1893年)が1641年に制作した「大禹戒酒防微図」がある。その襖絵では禹王のイメージを用いて時の為政者に対し勤勉さと民への愛、大災害への予防、酒色におぼれることへの戒めなどを説くことによって、禹王を再び「敬天愛人」の模範としたのである。

 日本の年号「平成」も禹王と関連があり、中国の古典『尚書』に由来している。原文に「地平天成」と書かれているが、「平和」を意味する。ところで、平和実現の指導者は禹王で、その手法は「治水」「疎水」であった。したがって、『尚書』で禹王を主人公にした篇名が「大禹謨」といい、大禹の企画とプロジェクトを意味する。このことからも禹王の皇室への影響および皇室の禹王への尊敬の念がうかがわれる。このように皇室が崇拝したことによって、禹王は日本中の人々から愛され、祀られるようになったのである。

 自然環境と社会的心理の側面も禹王信仰を流行させる重要な原因であった。

 日本の自然環境そのものも、禹王信仰を民間に広める厚い土壌となっている。日本は古来より多くの自然災害があり、津波、地震、水害が頻発している。人々は自然を前にしばしば苦しめられ、救いを求めた。禹王は治水の神であり、その優れた治水技術と思慮深い人柄に日本人は本能的に惹きつけられた。そのため彼への崇拝と祭祀はごく自然に人々から求められるようになったのである。

 また、日本に根付く祭祀の伝統も、禹王信仰を長い年月に渡り衰えることなく保たせる要因となった。その連綿と続く時間のなかで、禹王に対する人々の思いはより一層強くなっていった。日本人は祭祀を非常に大切にしており、どのような災難にあっても祭祀は必ず行われるので、多くの伝統はそのおかげで受け継がれることとなった。さらに禹王信仰には皇室からのお墨付きも加わり、日本における祭祀のシンボルの一つとなったのである。

 1894年から1972年にかけて、日本各地に18基の禹王の記念碑が新たに建てられている。この時期は一般的に歴史上で最も日中関係が悪化した時期と言われているが、禹王の影響力は減るどころか増しており、また日本人の文化を大切にする心の強さもあらわれている。

 日本と中国の間の特殊な歴史文化的「血縁」にたとえられるような交わりによって、両国共通の禹王文化は広がりを見せ、日本列島各地にあまねく分布する禹王信仰に潤いを与えている。

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茨城県・大杉神社の本堂

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大杉神社本堂に向かう「禹歩行図」図に沿って歩くと「開運・心身健全」になる


※本稿は『和華』第25号(2020年4月)より転載したものである。