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【20-10】中国を茶旅する―茶業の中心地だった湖北省

2020年7月29日

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウォッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。

 昨年末からコロナウイルスが猛威を振るい、街が閉鎖された湖北省武漢。
 本稿では、ここ5年ぐらいの間に訪れた湖北省の歴史的な茶産地(含む湖南省の一部)で、まだご紹介していなかったところを回顧することにした。
 湖北省は歴史的には大茶産地であることを再認識した茶旅。
 このウイルス騒動が収まったら、是非また訪れてみたい。

 湖北省といっても正直、日本人にはあまり馴染みがない。ましてや、ここに茶畑があり、その昔はこの地で大量の茶葉が作られ、輸出されていたことなど、知る人は決して多くない。だが記録によれば明治8年に紅茶製造の調査のため日本の紅茶の祖と言われる多田元吉がこの地を訪れた。明治20年には製茶研修を目的として、日本政府が官費留学生として、武漢及び周辺の茶産地に、九州茶の恩人とも目される可徳乾三を派遣した。この事実からその当時、輸出用茶葉の生産において、湖北省が一大拠点だったことがおぼろげながらわかってくる。

一大茶産地 咸寧

 武漢駅から高速鉄道で30分弱、咸寧北駅に着く。咸寧は150年前の漢口開港以降、その近隣の地として、急速に茶畑が増え、製茶が盛んにおこなわれた場所だった。今回訪問したのは、往時の中心的な茶業者、生牲川茶業。郊外の新工場で陣頭指揮を執っていたのが、董事長の何春雷氏であった。まだ若い経営者だが、この会社の12代目の伝承者ということで、この地の茶作りの歴史の長さが分かる。また彼自身、万里茶路の歴史の中に出てくる自らの祖先の茶業を研究して発表しているともいう。

 街中にある販売オフィスに行ってみると、そこには古い茶餅や川の字の磚茶が展示されていた。ここの茶は400年の歴史があると書かれているが、磚茶はどれほど古いのだろうか。ここが1861年漢口の開港以降、一大茶産地で、明治8年(1875年)多田元吉が最初に訪ねたのはインドではなく中国だった。しかも行った場所は福建などではなく、湖北省。咸寧が視察先に入っていたことを見ても、往時の茶業の勢いは分かる。

 ただ1900年代に入ると咸寧の茶業はずっと低迷していた、生産が止まってしまっていたのかと思っていたが、国営工場はあったようだ。文革中も生産していたらしいが、その産量はどれほどだっただろうか。改革開放後は競争力がなく、難しい時代が続いたはずだ。昔からの古い工場まではここから30㎞以上の山道ということだ。現在何氏らは咸寧茶の伝統を復活させるべく、奮闘しているが、その道のりは険しい。

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咸寧 生牲川茶業に残る型

新店から羊楼洞へ

 武漢から車で1時間行ったところに新店という小さな町があった。車が停まった場所には新店明清石板街、と書かれている。ここは古くから栄えた物資の中継基地で、近くを流れる川から長江に繋がり、武漢へと輸送していたようだ。石板街と言われる古街は、羊楼洞のそれより古びており、趣がある。

 川に出て行くと、地元民が「水位が上がるとあそこまで行く」とか、「この古い倉庫は往時の名残だ」とか説明してくれる。更に橋が架かっており、向こうへ行けば湖南省だと言われて驚く。ここは省境だったのか。湖北側ではこの時期、豚肉などを外で干している。湖南側では豚肉を捌いている。これが湖北と湖南の違いさ、と言われても、こんなに近いのに川一本隔ててどうして違うのだろうか。島国の私たちには見当もつかない。昼ご飯はここの川でとれた魚などが出てくる。万里茶路の水運の起点、新店ではその昔茶商が魚を食べただろうか。

 更に車に1時間ほど乗り、羊楼洞の街へ到着した。車は真っすぐ、湖北省最大の茶工場、趙李橋の前へ行く。ただ今回も中へ入ることはなく、横の販売所で資料を探し、説明を受ける。トワイニングが1981年に社創立200周年の記念に作った米磚茶が展示されていた。トワイニングの歴史の中に、このブロック型紅茶があるのには、どのような意味があるのだろうか。

 付近のお茶屋では、なぜか趙李橋のお茶を安く売っている。趙李橋の茶は内モンゴルでよく飲まれているのだが、これからもずっと飲まれ続けるとは限らない。恐らく方向転換を迫られているだろう。高級路線にはちょっと厳しく、漢族に飲ませる工夫はできるだろうか。古街の突きあたりには万里茶路の起点という石碑があった。

 もう一つの磚茶ブランド、郊外にある洞荘の工場にも寄ってみた。案内がないと中には入れないが、ここの立派な門を潜って眺めた光景はなかなか良かった。近年の黒茶ブームで、皆息を吹き返しているのだろうか。工場もきれいに感じられた。車はドンドン南下していく。

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新店 明清石板街

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新店 干し肉 川向こうは湖南

モンゴルに磚茶を供給する湖南省臨湘

 ちょうど羊楼洞大橋を渡った。ここから先は湖南省だという。今日2度目の湖南だが、1日に2度省を跨ぐことなどはなかなかない。そして一番湖北省寄りの街、臨湘市の聶市という場所に着いた。地元の研究者の老人と会ったが、私にはその言語は良くは聞き取れなかった。さすがに方言がきつい。

 街外れにある永巨茶業という茶工場を見学に行く。12月の寒空にも工場は稼働しており、磚茶を大量生産しているではないか。工場から湯気が上がっている。機械化された磚茶の型がぐるぐる回っている。型は未だに手で作っているものもある。原料の茶葉は大量に倉庫にストックされているらしい。

 この会社、万里茶路の湖北ルートが盛んになり始めた1865年創業、恐らくはロシア、モンゴル向けに大量の磚茶を作っていたのだろう。その後抗日戦争時には爆撃で生産停止に追い込まれ、1984年に再建されたとある。80年代まで再建されなかった背景は、ソ連と中国の断交だっただろうか。

 商品の展示を見て驚いた。なんとあのモンゴル、シベリアで売っている典型的な茶のパッケージがあるではないか。私は文字が読めなかったが、以前誰かに呼んでもらった際、「湖南省臨湘市産」と書かれていると教わったことが急に蘇ってきた。あの膨大な現代の磚茶はここで作られていたのか。歴史がそのままの形で目の前に現れた。突然点と点が結びつく、こんなことが茶旅の醍醐味だ。

 昔の映画館の建屋で大勢の人が既に笛やラッパなど、思い思いに楽器の練習をしていた。我々は実に古めかしい映画館の椅子に座り、それを眺める。平均年齢は高そうだが、趣味でやっている人々。指揮者が大太鼓を叩くと、一斉に音を合わせて演奏が始まる。それは思ったよりはるかにダイナミックであり、まるで映画の一シーンを見るかのように音が流れた。昔はここに毎日映画がかかり、茶工場の工員など大勢の人が食い入るように見ていたことだろう。今はDVDやダウンロードに取って代わられたが、こんな演奏が流れるとは、驚きだった。

 ここにも老街という名の古い道があった。清末の建物、100年以上は経つものが多いようだが、最近政府が資金を出して修復した形跡がある。建物の向こうには川が流れており、往時は物資が水運で運ばれていたことも分かる。大きな倉庫も見える。茶葉もここから積み出されたのだろうか。突き当りには教会まで残っており、往時は栄えた場所だったのだな、と感じさせる。

 昨日の老人が、自らの博物館?に案内してくれた。そこはこの老街でも一番の立派な建物の中にあった。木造の製茶道具なども展示されている。昔使われた看板なども集められており、その量はかなり多い。建物内の窓の飾りなども凝っており、相当の金持ちが住んでいたことが分かる。老人は岳陽市の政府に勤めていたが、定年で故郷に帰り、地域の歴史発掘に努めている。

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臨湘市聶市 永巨茶業 磚茶製造

恩施玉露の謎

 日本の蒸し製緑茶は昔中国から伝わってきたが、現代中国には蒸し製の緑茶は存在しないと聞いてきた。だが湖北省の山中に、「恩施玉露」という名の緑茶があると言われて、非常に興味を持ち、実際に現地を訪ねたことがある。玉露とは現代日本では高級煎茶に類するものだが、この恩施玉露は中国のほとんどの緑茶製法である炒青ではなく、蒸青で作られているらしい。

 恩施までは武漢の漢口から高速鉄道に乗って4時間ほどかかった。今や上海から漢口まで5時間強で行けるのに、なぜ湖北省内なのに4時間もかかるのか。それはこのルートが山岳地帯であり、たくさんのトンネルを掘り、ようやく開通させたからで、スピードも時速100㎞ちょっとしか出ないところも多い。如何に恩施が山の中にあるかがよく分かる。

 恩施玉露体験館に行き、その茶の歴史を探る。館中を見回してみると、日本で手もみ茶に使っているホイロが置かれている。しかも文字も日本語と同じ「焙炉」と書かれていた。更にはおじさんがそこにやってきて、茶葉を扱い始めたが、日本と同じように手で揉んでいる。これは一体何を意味するのだろうか。日本茶について全く不勉強な私、焙炉はいつから日本で使われていたのだろうか。そして中国には元々こんな形のホイロはあったのだろうか。

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恩施 ホイロを使う玉露製造

 そこへ恩施玉露伝承人と言われている蒋子祥さんが入って来た。第11代と書かれているが、日本的な数え方ではなく、同時期に学んだ「世代」を表している。特に今回の目的である「恩施玉露は中国独自の物か、日本が伝えたのか」という点について尋ねてみたが、「中国には昔から蒸し製緑茶が存在している」との立場を述べるにとどまった。そして目の前にある焙炉についても、「昔からあった」と話すだけだった。

 恩施玉露は1938年に現在の名前に変わったらしい。1938年といえば、日本軍が武漢に侵攻した年である。一説によると、武漢及び湖北での茶業の調査のため、静岡から茶業者が招聘され、その際に現在の恩施玉露の製法が伝えられ、ホイロも持ち込まれたのだというが、どうだろうか。

 硒茶博物館に行ってみると、このあたりの茶の歴史が語られていて興味深い。この地は以前より緑茶の産地として知られていたが、1850年頃に広東商人がやってきて、植えられていた大葉種が良質だと判断し、紅茶作りをさせたとある。これは同じ湖北の宜紅と同様の歴史だ。また茶馬古道の拠点でもあったとある。この辺で黒茶が作られたという歴史は見られなかったので、恐らくは運ばれる中継地点ということだろう。またここにも焙炉が置かれていた。

 翌日忙しい中、蒋さんが車でやってきて、白楊坪の自社の茶畑へ連れて行ってくれた。約1時間かかって山の上の茶工場に到着した。観光茶園プロジェクトをここで行っていたのだと分かる。元々の茶工場や茶園を生かして、新たに文化館やレストラン、宿泊施設などを用意するらしい。当然政府の支援の下で行われているのだろうと思っていたが、「完全なプライベート」と聞いて、少し驚く。中国で今流行りの観光茶園だが、投資は回収できるのだろうか、ちょっと心配になる。

 蒋さんが茶園を案内してくれた。景色は抜群に良い。緩やかな斜面に見慣れぬ品種が植わっている。農薬は使っていないという。茶摘みをしている地元民を見かけるが、何となくのどかな雰囲気だ。実は蒋さん自身も土家族という少数民族。この付近も少数民族が多く住み、貧困地区となっているので、「起業して仕事を与える」という地元貢献は重要だという。

 工場には茶摘みを終えた農民が続々と集まって来た。今日の収穫を引き渡すのだ。どこの茶畑でもこの計量の空間は緊張感がある。受け取った生葉はすぐに萎凋槽に入れられるが、「萎凋している訳ではない」という。いずれにしても数時間置いて深夜に製茶作業は始まるというので、実際の工程を見ることは出来なかった。また工場内には日本製の機械もあるようだったが、それを見ることはなく、恩施玉露の謎に迫ることはできなかった。

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恩施 少数民族の茶畑

紅茶産地の宜都

 湖北省の歴史的な紅茶産地、宜都を訪ねたことも思い出す。現地に連絡を取ると、「宜昌まで鉄道で来て、そこからバスに乗り換えて」と指示が出た。漢口駅は古い外観でなかなか良い。大勢の人が列車を待っており、大混雑。スムーズに発車し、満員の乗客を乗せて、重慶方面に向かった。

 今や中国では高速鉄道網が張り巡らされ、どこへでも行けるような気になっている。1980年代の松下智先生の旅本を読んでみると、武漢から宜都までバスで8時間以上かかっている。現在は宜昌まで2時間、そこから隣のバスターミナルへ行き、頻繁に出ているバスに乗り1時間で宜都に着いてしまう。何とも有り難いことだが、雨が降っているのが悲しい。

 宜都の郊外、五峰は唐代には既に茶畑があったと言われる古い茶産地であり、山中の少数民族が茶を作っていたと思われる。1820年代清朝は対外貿易を広東一港に制限していた時代だが、実際には北の窓口としてキャフタが開いており、ロシアへの茶葉の輸出が進んでいた。ヨーロッパへ海ルートで茶葉を輸出したい広東商人は、河口経由の福建茶葉だけでは足りずに、他の茶葉を押さえる必要があった。

 そしてその茶葉は紅茶でなければならなかったため、この地で従来作られていた緑茶を紅茶に切り替えさせたに違いない。2度のアヘン戦争を経て、1861年に漢口が対外開放され、宜紅の生産量も1880年代には最盛期を迎えた。だがその後は、他の中国紅茶同様、安価なインドやスリランカ茶に押されて、衰退していき、新中国後は、国営の宜都茶廠として引き継がれた。

 訪ねたのは宜紅茶業という、元国営工場であり、今世紀に入り民営化された紅茶工場だった。副社長の章さんは女性ながら長年茶作りをしてきたベテランだ。元々は殆どが輸出用だったが、最近紅茶ブームが来ているので、宜紅のブランド力を強めて、国内販売に力を入れて行きたいという。宜紅はきれいな茶葉だったが、少し渋みが感じられる。ブレンドに適しているのかもしれない。

 因みに国営工場時代、章さんは副工場長だったという。今の社長が工場長で、そのままそっくり引き継いだ感じだ。1990年代には松下先生が2度ここへ来たよ、と言われてびっくり。確かに少数民族の茶作りもあるようだ。このあたりは土家族が多いらしいが、ヤオ族はいるのだろうか。

 現在のオフィスのある場所は昔製茶工場だった。横には長江が流れ、屋上から先の方を見ると、もう一つの河と交差していた。100年以上前なら、この川の合流地点は製茶にとって絶好の場所だったであろう。やはり輸送という観点は重要だ。現在工場は新しい場所に移されている。

 主要な茶畑はあまりにも山の中で遠いので、近くにある試験場を見に行った。非常にきれいな、管理された茶畑が広がっていた。製茶の時期ではなかったが、芽が吹き始めている。夏茶が近い。本当は五峰山にある茶畑を見るべきだったのだが、天気も悪く、滞在時間が短すぎたのは反省だ。

 夜、茶業者の会合に混ざって食事をした。湖北も方言が強くてよくは聞き取れなかったが、宜紅の生産範囲には、相当離れた恩施で作られた物まで入ることを知る。「どうやってもっと茶を売っていくのか」という熱い議論が交わされていた。茶業界は厳しい時代を迎えている。歴史財産を活用した茶業、は成功するだろうか。

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宜都 宜紅茶葉

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漢口の夜景


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.19(2020年5月)より転載したものである。