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【20-16】孔子 文を象徴する、その偉大な思想家

2020年12月18日

上永哲矢

歴史著述家・紀行作家。神奈川県生まれ。日本や中国各地の史跡取材を精力的に行ない、各誌やウェブに寄稿。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。

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中国・河南省許昌市の「春秋楼」敷地内にある大成殿の孔子像。春秋楼は「三国志」の関羽(関帝)を祭る施設だが、そのなかに孔子が独立したかたちで祀られている。

乱れた世に「仁」の定着をめざす

 インドの釈迦、ユダヤのキリスト、ギリシャのソクラテスと並んで、世界の「四聖」に数えられる孔子(紀元前552年頃~紀元前479年)。

 彼の教えを伝える『論語』も有名で、
「三十にして立つ。四十にして惑わず」
「故きを温めて新しきを知る」(温故知新)
「朋あり、遠方より来る、また楽しからずや」
などの言葉が有名だ。

 孔子の「子」というのは先生というような尊称で、孔丘が彼の本当の名前だ。「孔夫子」と呼ばれることも多く、「夫子」自体が孔子のことをあらわす言葉になっている。南京市には「夫子廟」という名前の孔子廟があって、まわりは当地を代表する繁華街である。

 彼の出身地は現在の山東省南部の曲阜で、その昔は「魯」と呼ばれた国。周の武王の弟、周公(姫旦)を開祖とし、周代に栄え、その後の春秋時代・戦国時代まで存続した。孔子が生まれたときは、戦国時代の襄公から哀公までの魯末期に近い時代だった。

 孔子は、乱れた政治や国の儀礼に失望し、魯の祖ともいえる周公の政治を理想とし、その政治手法を再現しようと試みた。だが反対派との政争に敗れ、国外に逃れ、諸国を13年ほど遊説する。結局どの国も孔子を用いようとせず、やむなく故郷に戻って儒教の成立に努めた。これが後世に思想家として形成される孔子像のもととなっている。

 政治の基本は法ではなく道(徳)であり、自己の修養に努めた後にこそ、人を治めることができる。道徳を一貫するものこそが「仁」であり、個々が仁を守れば家は安泰、すなわち国家も治まり(治国)、天下も安定するというものである。とくに孔子が重んじたのは「仁」であった。

 孔子の言行は『論語』に記されているが、これは弟子たちが孔子と交わした問答を書き記した口伝という。儒教は、その多くの弟子が各地に伝え、漢代には国教となった。

 それ以来、歴代王朝で重んじられ、故郷の曲阜をはじめ、中国・台湾・日本の各地に孔子廟が建てられている。そこでは孔子ら儒教の先哲を祀る儀式である「釈奠」が、毎年盛大に行われている。

日本の思想、政治にも大きく影響

 儒教は中国からアジア各国、もちろん日本にも伝わって、日本人の思想にも大きく影響した。政治の指針にもなった。とくに南宋の時代に朱熹がまとめあげた儒学の一派「朱子学」は、徳川幕府が封建制度を固めるために奨励し、武士や学者がこぞって学んだ。「尊皇攘夷」思想に傾注した水戸藩の水戸学などは、とくに朱子学の影響を強く受けた。日本人の思想形成や歴史に間接的ながら、これほど影響を与えた人はいないかもしれない。

 東京千代田区にある「湯島聖堂」は、その朱子学を重んじた、江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉によって建てられた孔子廟だ。儒学者の林羅山が建てた「大成殿」を前身とする。寛政9年(1797)には幕府直轄の昌平坂学問所になったことから、「日本の学校教育発祥の地」といわれている。

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東京千代田区の「湯島聖堂」。江戸時代、幕府直轄の学問所の跡である。敷地内に大きな孔子像が建ち、学問発祥地として受験生などに人気が高い。

 個人的な関心では、中国において孔子は「文」の神(至聖先師)として祀られている。「武」の神である関羽(関聖帝君)や、岳飛(鄂王)とともに「文武」を司る存在になっている。台湾には「文武廟」があって、孔子と関帝が並んで祀られており、すごい力を感じた。右写真の河南省許昌市の「春秋楼」は、関羽を祭る施設だが、西側の大成殿に孔子が祀られ、文武揃いぶみで、なんともいえぬ有難さがあった。

 その存在があまりに偉大で、彼の本当の姿や意思が、どの程度正確に伝わっているのかと、考えることもある。『論語』などを読むと、色々と迷いながら生きていた、ひとりの人間だったと感じる部分も多い。思想云々より、そこに関心を覚えてならない。

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沖縄県那覇市の久米(閩人が住んでいた集落が前身)にある孔子像。江戸時代にあった「至聖廟」(孔子廟)の跡地に建てられた。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.21(2020年11月)より転載したものである。