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【21-01】故事成語について

2021年01月15日

松岡 格

松岡 格(まつおか ただす):
獨協大学国際教養学部准教授

1977年生まれ。学術博士(東京大学)。エスニック・マイノリティ研究会代表幹事。専門は地域研究(中国語圏)、文化人類学、マイノリティ研究。著書に『中国56民族手帖』『台湾原住民社会の地方化―マイノリティの20世紀』など、論文多数。

『三国志演義』

 大学生達に中国の「生きた伝統」について理解してもらうために中国古典ゆかりのことばの説明をしようとするのだが、正直なところ、まだあまりうまくいっていない。

 古典ゆかりのことばと言えばもちろん色々とあるが、中国人の日常生活の中で用いられる、例えば『三国志演義』ゆかりのことばを例に挙げることにしている。その中には「望梅止渴」「鞠躬尽瘁」「七步之才」「乐不思蜀」などの中国語の辞典に載っている「成語」、日本語で言うところの四字熟語(もちろん中国語の成語は四字に限らない)になったものもある。授業ではこうしたことばの意味を説明し、理解してもらうことで、その作品の魅力について立体的に理解してもらおうとする。

 ところが、これがなかなか容易なことではない。というのも、『三国志演義』とは何か、という説明からしなければならない。問題は、例えば『三国志』と『三国志演義』の違いについてわかっていない、とか、そういったことではないのである。ここ5年くらい特に感じるのであるが、そもそも『三国志演義』という作品自体について何も知らないようなのである。例えば劉備、曹操、孫権、諸葛亮、張飛、関羽、などなどの登場人物がだいたいどんなキャラクターであるのか、そういったイメージさえ持っていない学生が多いようなのである。

 したがって、『三国志演義』が中国のどの時代の史実をもとに作られた作品なのか、つまりこの物語の舞台設定がどのようなものなのか、全体のストーリーがだいたいどのようなものであるのか、上記のような主要登場人物がそのストーリーでどのような役割を演じるのか、そういったところから、いわばゼロから説明しなければならない。

 これがかなり大変なことである。考えてみれば当たり前のことではある。筆者は中国人の日常生活について、そのリアルな姿について想像してもらうために故事成語などの例を挙げている。中国の人にとって、こうした故事成語は日常生活の中で自然に用いているものであり、またそうしたことばゆかりの作品などを自然に楽しんでいる。ただ、考えてみれば、そうした生活の中に生きる伝統は、数百年、数千年のうちに育まれてきたものである。

 一方で西暦2000年前後の日本に生まれた青年達にとって、そうした中国由来の故事成語に触れる機会はあまりなかったのかもしれない。国語の授業で四字熟語の勉強をする、とかはもしかしたらまだあるのかもしれない。また、子ども達が読む漫画、プレイするゲームの中には古典作品由来の人やものが登場しているのかもしれない(いや、間違いなく登場しているだろう)。しかしこうした中国の古典作品自体、例えば『西遊記』、とか、『三国志(演義)』、『水滸伝』、などなどについて親しむ機会は、もしかしたら、予想以上に減っているのかもしれない。そう思わされている。『封神演義』『聊斎志異』など、他の作品について知らないことは言うまでもないだろう。

 かたや数百年、数千年の伝統の中で生きる人々、かたや生まれてこの方あまり中国古典に触れてこなかった人々、この間の距離を縮めるのが簡単でないのは、当たり前と言えば当たり前である。

時間、空間の跳躍

 数百年、数千年と言っても、継続時間の長さ自体が何かの価値を示すわけではない。伝統の全てが生き残るわけではないし、ましてや元来の姿のまま形を変えずに残る伝統など、どれくらいあるのかもわからない。そもそも、中国古典に触れていたから良いというものでもない。ただ、中国語や中国の文化について学ぶ学生には、現代中国の日常生活について、なるべくリアルにその姿を想像し、理解してほしいと願っているだけである。

 どうしたら伝わるか、と考えた時に思いついたのが、例えばビジネスシーンにおける用例など、現代の中国人の日常生活において成語が使われる具体的な場面を紹介し、その文脈や使われ方について説明したうえで、そうした古典作品の説明に入る、という方法である。

 ただ、前者の、日常の場面を探してくるのが、これもなかなか容易ではない。もともと日本で言えば戦国時代のような特殊な状況、しかもそれが脚色された作品由来のことばであるから、現代中国の生活とはだいぶ乖離しているのは確かである。

割鸡焉用牛刀

 こう書いてくると、現代の日本の日常生活において中国古典の出る幕はなさそうに見える。しかし昨今の社会の状況などを見ていて、故事成語のようなものがどうしても思い浮かぶことがある。

 例えば最近の日本の日常生活の中でよく思い浮かぶのが、「割鸡焉用牛刀」ということばである。同じ鶏と牛が登場する成語でも、「宁为鸡口无为牛后」ということばの方が日本でよく知られているようである。

 後者の「鶏口となるも、牛後となることなかれ」については、辞書の説明によれば、大きな局面にこだわって他人に支配されるよりも、小さな局面でもリーダーシップをとれ、というような意味になるようである。

 これに対して「割鸡焉用牛刀」は「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」と読み下すことになるだろうか。鶏を小、牛を大、と対応させていることは上記の成語と似ている。これも辞書の説明によれば、小さなことを処理するのに、大きな精力を傾ける必要は無い、というような意味になるようである。出典は『論語』だそうである。

 この辞書の説明を見ると、筆者の解釈はちょっとポイントが違っていたようなのであるが、筆者がこの成語から思い浮かべていたのが、サイズが合っていない、間尺が合っていない、そうしたモノを用いた場合に物事がうまくいかない、ということである。

 よく食事を作る人はご存じの通り、料理を作るにあたって食材、調理法に合わせた調理器具を使うことが重要である。同じ食材でも切り方、処理の仕方などによって全く異なる食味を生み出したりする。逆に言えば、食材と包丁の組合せがうまくいかないと、出来上がりがうまくない。食材に合った包丁を用いて料理を作るように、よく物事の性質や状況、規模に合わせた対処法を考えるのが重要ではないか。

 最近の日本の社会生活の中でもう一つ思い浮かぶのが「木を見て森を見ず」ということばである。これは中国由来のことばではないが、中国の辞書に成語として載っている(只见树木,不见森林)。全体を見ればよい、ということでもないのであるが、現代生活においては目の前の課題や周りの人の行動などについて視野狭窄に陥ってしまいがちのようである。全体と言わず、目の前の状況から少し引いて事態を見た方がよいと思うのだが、我々はどうしても目の前の状況に引っ張られて動いてしまうようなのである。これもある意味では間尺に合った対処を勧めているように読めないだろうか。

 目の前の事態や相手をよくよく見て、その状況に合わせて対処することが重要、とそれはよくわかる。しかし、これがなかなか難しい。言うは易く行うは難し、である。最初の話に戻れば、現代日本の大学生に、いきなり成語の話をしてもわからないに決まっているのである。共有していない文脈を確認し、前提から説明することで、やっと、こちらの意図が伝わるかどうか、というところなのである。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.21(2020年11月)より転載したものである。