【17-014】所有権が変容する?
2017年 8月24日
略歴
御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員
2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職
21世紀版の権利体系となるか?
前2回のコラムで民法総則が規定する権利主体(自然人、法人)について話してまいりました。今回のコラムでは、こ の権利主体が享有する権利として何を民法総則が規定したかについて確認していきたいと思います。
早速ですが、民法総則はその第5章で、自然人や法人が享有できる権利を民事上の権利[民事権利]として定めました。章の名称自体は、旧法である民法通則と同じです。しかし、その中身は民法通則と比べて( 日本国憲法の人権規定のような)より人権規定的な内容を組み込んでいますし、商標や商業秘密等の知的財産権や株式に代表される投資性の権利等についても定めました。日 本の民法典を20世紀版の権利体系ないし民法典だとすれば、当該章を一覧すると、この民法総則が示す権利体系やその将来像としての現代中国の民法典は「21世紀版の権利体系ないし民法典」を 目指しているように感じなくもありません。
要するに、民法総則第5章は、一見するとその進歩性の高さを印象付けています。さらに、この民事上の権利の取得方法と行使方法について、旧法では民事上の権利ごとに規定していたことと比べて、民 法総則がその原則となる運用論理を規定したことも、進歩と言えるかもしれません。
それゆえに、民法通則にはなかった論理が組み込まれていると言っても誤りではありませんし、一夜にして世界が変わってしまったかの印象さえ受けます。例えて言えば、これまで障害物のない平原の中で、何 故かガードレールによって走る場所を強制されていた状況から、ガードレールが取り払われて交通標識が点々と示されている状況に変化したようなものです。民 法総則に対して高い評価を与える言説が生まれることもあり得るわけですね。とはいえ、民法総則第5章によって、自分の享有する民事上の権利をこれまで(民法通則の時)と比べて(自分の意思を反映させて)よ り自由に行使可能と評価できるかは別問題です。この点についてはコラムの最後でお話し致しましょう。
民法総則109条の意義
民法通則も人権規定的な内容を言明していました(同98条~103条)。民法総則はこれらを同110条に統合します。自然人は生命権、身体権、健康権、姓名権、肖像権、名誉権、栄誉権、プライバシー権[ 隠私権]および婚姻自主権等の権利を享有し、「法人」類(「法人」類については 前回のコラム を参照ください)はそのうちの名称権、名 誉権および栄誉権等を享有すると言明しました。民法総則112条も同様の趣旨に基づきます。また、情報化社会に対応するために個人情報の保護規定を追加しました(同111条)。
注目すべきは上記の民事上の権利を言明する直前の、民法総則109条の存在です。同条は「自然人の人身の自由、人格の尊厳は(法律上の)保護を受ける。」と言明しています。ちなみに、日本国憲法13条は「 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と言明します。この意義について、日 本国憲法の講義においては「個人の尊厳(原理)」に求めるように論じる傾向があります。すなわち、個人の尊厳は、基本的人権を支える根本原理であるとして、関 連する事例や条文解釈の展開を紹介する等して講義することが多いです。この内容と対照させると、表面的には民法総則109条が「個人の尊厳」という原理を示すのに十分な法文(法令条文)であることは明らかです。
ただし、私たちが無視すべきでないところも同時に指摘しておかなければなりません。日本国憲法13条の規定は、公法私法二元論に照らして憲法を公法として評価することを前提とします。つまり、同条は、国 家対個人という対立構造から出発し、個人の自由を侵害する国家の行為を制止するための「個人の尊厳」原理という位置づけになります。その一方で、民法総則109条の規定はあくまで私法。す なわち現代中国を構成する人=個人の生活空間を守る法律であることを前提とします。つまり、同条は、個人対個人という対立構造から出発し、その個々の自由を調整するための「個人の尊厳」と いう位置づけになると解釈できます。したがって、民法総則109条も「個人の尊厳」を示すのに十分な法文であるとは言えるものの、これを一国の法体系の最高法規性を有する憲法に取って代える説明は、法 学的素養を欠いているものと言わざるを得ません(ありがちな説明は、彼の国での「大衆の中の憲法」「生活の中の憲法」といった喧伝を真に受けて、そのまま輸入してしまうものです)。
そもそも民法総則が憲法に基づき制定することを言明しています(同1条)。したがって、民法総則109条をもって現代中国における「人権」の強化であるとか、私 的空間の拡大によって現代中国はついに変化していくといった評価は妄想であり、評論レベルに止まる言動にすぎません。上述のように少し科学しただけでも明らかなことですから、論考として遭遇したとしたら、そ こには別の理由があるのでしょう。
財産権体系について
さて、民法総則は、民事主体(自然人や法人等)が享有できる財産上の権利[財産権](同113条)という形で民事上の権利を整理しています。民事上の権利を定めたものですから、権 利体系という呼称の方が私としては慣れているのですが、本コラムにおいては、民法総則の文言に照らしてこれらを「財産権体系」としておくことにします。
まず、民事主体は物権を享有します。物権とは権利者が特定の「物」に対して所有する権利[所有権]、使用して利益を得る権利[用益物権]、担保する権利[担保物権]を含む民事上の権利であると言明します( 同114条)。「物」とは、不動産や動産のほか、法定の権利を物権の対象とする場合を含みます(同115条)。そして、(何が物であり、何が物でないかを明示するために)物 権の種類と内容については法定すると言明しています(同116条)。
要するに、物権は、法定のもの以外で民事主体が勝手に創設したり、内容を自由に決定できない権利なのです。同一の「物」であるにもかかわらず、そ れを所有する民事主体の意思で内容にバラツキがあってよいとすると、例えば「物」をめぐる取引を安心して行なえないからです。これを「物権法定主義」と言います。以上の規定は物権法2条、5 条を踏襲したものでもあります。ちなみに、物権法定主義は、私たち日本の民法学でも通用している考え方であり、それゆえに「物」をめぐる取引の安全が日本社会においても保障されているわけです。さらに、公 共の必要のために収用される場合等について(個人対個人の対立構造における個人の尊厳から)公平で合理的な補償が与えられています(同117条。なお、以上の規定は物権法42条、44条を踏襲したものです)。
次に、民事主体は債権を享有します。債権は契約、権利侵害行為[侵権行為]、無因管理(法定の権利や義務がない中で他人のために行なう管理のこと)や不当利得[不当得利]等に基づいて、当事者の間で作為( 積極的な挙動、する行為)ないし不作為(消極的な挙動、しない行為)を規律する権利であると言明します(同118条、119条)。そして、権 利侵害行為に基づく損失については侵害者に対して権利侵害責任を負担させ(同120条)、無因管理に基づく損失については管理にかかった費用を請求でき(同121条)、不当利得に基づく損失については、損 失を被った民事主体にその返還を請求できると言明しました(同122条)。このほか、民法総則は知的財産権に関する民事上の権利を整理しています(同123条)。
以上の民事上の権利は、言ってみれば民事主体が享有することによって実行できる内容ですから、これらを財産権体系における基本的権利であると評価しておきたいと思います。そうすると、例えば相続したり、享 有する権利から新たに派生する利益であったりということが当然に想定されますから、これらをここでは派生的権利として評価して整理しておきます。この派生的権利には、相続権[承継権](124条)、株 式等の投資性の権利(125条)、ネット上の権利(127条)のほか、所謂その他条項(「その他条項」についてはコラム【 17-005】検察による監督 を参照ください)による権利(126条)があります。
以上の民法総則が規定する財産権体系を図示すると、下図のようになります。
財産権理論の枠組みについて
以上、民法総則が規定する財産権体系を見てまいりました。表面的にはこれらが21世紀版の財産権体系を言明していること。控 えめに言ったとして現代中国社会を構成する自然人や法人が享有できる民事上の権利は、非常に現代的なものかもしれません。では、これらの民事上の権利は、これまでよりも自由に、そ して自分が望むように使えるのでしょうか。この権利の運用論理をここでは「財産権理論」として捉え、その枠組みを確認しておきたいと思います。
民法総則が言明する財産権理論は、その取得方法、行使方法と調整方法のいずれをも備えています。いわば、それぞれの原則を示しています。取得については民法総則129条の規定がそれにあたり、「 民事上の権利は、民事法律行為、事実行為、あるいは法定の事件又は法定のその他の方法に基づき取得できる。」と言明しました。つまり、主に「民事法律行為」「事実行為」および「事件」が、使 うための起点となるわけですね。
法文上はこの通りなのですが、その成り立ちについても理解する必要があります。というのも、それが私たちの取得方法における成り立ちとは異なるからです。すなわち、民 法総則が前提とする財産権理論は50年代に確立し、民法通則を制定する頃に、西側の法的論理と調整する中で進歩させた取得方法です。現代中国の民法についての日本におけるこれまでの分析をみると、こ の点を捨象して論じるものが極めて多いように思います。
現代中国の財産権理論は旧ソ連法の法律関係理論を基にして確立したものです(詳細は拙著『中国的権利論』東方書店2013年を参照ください)。概説しておくと、社会現象を法的問題として認識する際に、ま ずその現象が故意・過失という民事主体の意識に基づく必然のもの(=行為)か、それとも偶然のもの(=事件)かに区別します。次に必然のものを、法に合致するもの(=合法行為)と、合致しないもの(=違法行為)と に区別します。そして最後に、法に合致するもので法文に基づくもの(=法律行為)か、そうでないもの(その他の合法行為)かに区別します。西側の法的論理(市場原理を支える法)と調整する必要がない時代は、こ の単純な区別で現代中国の財産権を規律していました。
この思考に画期的な修正を組み込んだ立法が民法通則です。そして、同法において採用したのが「民事法律行為」でした。すなわち当該概念は、民 法通則の制定において当時の諸々の必要性からこの理論的限界を突破するために発明された造語だったのです。必要性の1つには、社会の発展に立法が追い付かない事情の中で、法 文に基づかない民事行為を違法行為にさせてはならないという実社会上の必要がありました。
民事法律行為は立法により合法化を完璧に果たした行為である一方、何らかの事情で立法による承認を得ていない状態のものをすべて違法行為と見做せば、人々の挙動を制約する( 例えば法的根拠がないために取引が進まない)ことになります。これでは人々が積極的に取引を行なおうとする意欲をもつはずがありません。したがって、「民事法律行為」概念の発明は、こ の制約を緩和するために民事行為という(その中には違法行為となるものもあるため、白黒はっきりさせないグレーゾーンの確保という意味での)融通の利く空間を設けるために他なりませんでした。現 代中国が市場原理を導入するために、現代中国法が貢献した最大のものはこの造語だったと私は考えています。
行使方法については民法総則130条がそれに該当し、自らの意思[自己的意願]で行使でき、干渉(=口出し、問題にする)を受けないことになっています。とはいえ、個 々の民事主体がこの行使方法を徹底すれば必然的に衝突します。そこで調整方法として同132条において、財産権(民事上の権利)を「濫用」して国家の利益、社会公共の利益、または他者の合法的権利・利 益を損なってはならないと言明しました。例えば、日本民法の場合、殺人契約の締結を公序良俗規定(民法90条)違反として無効とする等の解釈運用が通用しますから、こ の財産権理論の枠組みに照らして実務上の運用によってどのような解釈運用によって通用していくのかを長期的に考察する必要があります。
所有権の変質
さて、今回は民法総則が規定する財産権体系とその理論を紹介してきたわけですが、旧法である民法通則が規定したそれとの決定的な違いについて、最後に触れておきたいと思います。個人的には「所有論争」を 彷彿させるものなのですが。
新法と旧法の該当部分を対照させると、旧法は至るところで「所有(権)」の文言を確認できるのに対して、新法でこの文言を確認できるのは1条(114条2項)のみであることに気づきます( 前述のところで紹介済みです)。そして、この用い方に注意すると、本来の所有権の意味を変質させているように思えます。
本来の所有権の意味とは、法的には客体である「物」に対する使用、収益、処分等の全面にわたる排他的な支配権のことです。つまり、権利そのものを意味するというのが本来の所有権の意味です。しかし、民 法総則が言明する所有権とは、(旧法の用い方の時以上に)単に所有する権利という意味ですから、本来の所有権の意味ではありません。
とはいえ、所有の諸形態について想起すると、民法総則のように変質させた方が、万人受けすることも確かです。というのも、所有(権)について、その法的意味を離れて一般的な意味において捉えれば、所有( 権)とは、特定の社会関係の下で個々人が生産の諸条件・生産物に対して自分のものとして挙動することであると言えるからです。つまり、所有(権)とは生産諸関係の総体であり、社 会現象そのものを意味しているにすぎないのです。
ここで私たちは万人受けする意味内容にとどまらない所有権の変質について考慮すべきです。本コラムで確認したように、何を「物」として認めるかについて、民法総則115条および116条を参照する限り、そ の決定権は民事主体の意思によるものではありません。確かに物権法定主義という20世紀版の権利体系において通用してきた考え方を組み込んではいますが、その内容の根本原理を「法による支配 rule by law」の考え方で支えてきた現代中国法の運用が、「法の支配 rule of law」の考え方で支えてきた私たちのそれと一致するかは慎重な検証が必要です。そ こでは立法がよりコントロールしやすい法的論理を組み込んだ財産権体系へと変貌させているか否かを確かめる必要がありますし、この変貌を所有権の変質という論理の修正によって担保していると思われるからです。& lt; /p>
本来の所有権の意味を、所有する権利という意味へ矮小化させた所有(権)を組み込むことで財産権理論に対する立法によるコントロールを堅持する仕組みを確立したところに、現 代中国法の理論レベルの強靭さを見せつけられている気がいたします。が、では民法通則第5章が21世紀版の民法典にふさわしい出来なのかと問われれば、私は首肯しないと思います。こ れは私が旧い思考に固執しているからなのでしょうか。