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【23-54】デジタル人民元についての考察(易綱前総裁講演)

2023年08月22日

露口洋介

露口 洋介(つゆぐち ようすけ):帝京大学経済学部 教授

略歴

1980年東京大学法学部卒業、日本銀行入行。在中国大使館経済部書記官、日本銀行香港事務所次長、日本銀行初代北京事務所長などを経て、2011年日本銀行退職。信金中央金庫、日本大学を経て2018年4月より現職。著書に『中国経済のマクロ分析』(共著)、『東アジア地域協力の共同設計』(共著)、『中国資本市場の現状と課題』(共著)、『中国対外経済政策のリアリティー』(共著)など。

 中国人民銀行の易綱前総裁は、2023年7月5日にデジタル人民元についての講演を行った。デジタル人民元の概要については 2021年7月のコラム で説明したが、今回はこの講演の中で示された興味深いポイントを中心に取りまとめることとしたい。

デジタル人民元の目的と主要原則

 人民銀行の総裁は、7月25日に開催された全国人民代表大会常務委員会において、易綱前総裁から潘功勝現総裁への交代が決定され、公表された。この交代は、潘現総裁が既に7月1日に人民銀行の実質的なトップである党委員会書記に就任していたので、想定されていたものであった。

 今回の講演は交替前の7月5日に北京の清華大学で行われたものであり、同大学のウェブサイトでは講演の開催が7月21日付けで掲載されている(リンク)が、そこでは易綱氏の肩書が「中国金融学会会長」とのみ示されており、その後のメディアの報道でも、第14期全国政治協商会議委員、経済委員会副主任、中国金融学会会長と紹介されている。すでに事実上、人民銀行総裁としての地位から離れていたのかもしれないが、正式にはまだ人民銀行総裁の地位にあった時点での講演であり、デジタル人民元の検討が着々と進められていることを示すものとしてその内容が注目される。

 講演では、デジタル人民元の目的として以下の3点を挙げている。①通貨発行と中央銀行決済システムの効率性を向上させること。②既存の電子決済システムである銀行カードや、アリペイ、ウィーチャットペイのような決済プラットフォームなどが提供する決済チャンネルで利用でき、これらに対してよりよいインフラを提供すること。③金融包摂を推進し、銀行口座へアクセスできない人々に金融サービスを提供すること。

 次に、デジタル人民元の基本原則として、デジタル人民元は法律的には物権に基づくものと述べられている。物権は占有者が所有者である。デジタル人民元はトークン化された預金とも呼ばれるが、トークン化された価値は物権であり、占有の移転によって価値が直接移転する。一方、預金は債権債務関係であり、銀行の負債の移転であって、銀行という第三者が関与するため、価値の直接の移転はできない。

 次に、デジタル人民元は一般大衆や企業が利用するリテール決済に特化すると述べられている。日米欧などでは、中央銀行と銀行間で取引されるホールセール決済も研究対象とされている。これに対して中国では、前述の3つの目的を果たすために、リテール決済に特化して検討を進めている。

 デジタル人民元はコントロールされた匿名性を持ち、小口は匿名で、大口取引は法の定めに基づき遡及できる。デジタル人民元の取引限度などは4つのクラスに分けられるが、最も限度額の小さい第4級は銀行口座との紐付けなどの実名制が要求されず匿名性を有する。

二層運営方式

 デジタル人民元は中央銀行である人民銀行が大衆に対して負う負債であるから、人民銀行が金融政策や金融監督を行えるよう、現在と同じ金融政策の伝達チャンネルが保障される必要がある。そこで、デジタル人民元は人民銀行による集中管理方式を堅持するとされている。人民銀行は現金流通量を把握できるのと同じように、デジタル人民元の発行量を把握できなくてはならない。一方、顧客間の移転や取引活動は第二層で行われ、大量の顧客情報は第二層で取り扱われる。第二層は5大銀行や、アリペイ、ウィーチャットペイなどの運営商からなり、プライバシー保護やアンチマネーロンダリング、アンチテロリスト資金などに責任を持つ。

金融政策、金融システムへの影響

 銀行預金からデジタル人民元への大規模なシフトが起きると、銀行の信用創造機能が低下する恐れがある。二層方式は現在の貨幣の流通システムを最大限保持するものであり、加えて、大規模なシフトを回避するためにいくつかの措置が取られると述べられている。第一に、デジタル人民元の取引限度額を設置する。第二に、残高も制限する。第三に、デジタル人民元は無利子である。また、預金保険制度によって銀行預金の安全性を保障していることも、シフトを回避する効果を持つ。

 デジタル人民元では、商業銀行に対しデジタル人民元発行量の100%を中央銀行に準備預金として預けることを要求している。預金に100%準備を要求するナローバンクに類似しており、通貨乗数は1となって信用創造は行われない。アリペイやウィーチャットペイなどの決済プラットフォームは2019年以来この100%準備が課せられており、まさにナローバンクの良い例であるとされた。

デジタル人民元の流通状況

 人民銀行は2014年にデジタル人民元の研究を開始し、2019年からいくつかの都市で実証実験を開始した。現時点で、実証実験が行われている都市は17省に及んでいる。2023年3月末までに人民元のデジタルウォレット残高は86.7億元に達し、取引金額の累計は8,918.6億元、取引件数は7.5億回、デジタル人民元用アプリによるデジタルウォレットは1億個である。今のところデジタル人民元残高は10兆元強の現金全体の千分の1に留まっているが、取引速度が速いので、この残高を使った取引規模はかなり大きいと述べられている。

クロスボーダーの利用

 クロスボーダーの利用について、人民銀行はすでに実証試験を始めていることが表明された。BISとの間で香港、タイ、UAEとともにm CBDC bridgeと呼ばれるプロジェクトで実証試験を行っている。クロスボーダーのデジタル人民元決済については、「無損」、「合規」、「互通」が原則として挙げられている。「無損」は、他国の中央銀行の通貨主権や金融政策の独立性を害してはいけないということ、「合規」は各国の法律を遵守すること、「互通」は各国の決済にかかわるインフラの間で中央銀行デジタル通貨が共通に利用でき、相互運用性があることを意味する。このプロジェクトでは、各国の中央銀行間をつないだブリッジ上で、ある国の中央銀行デジタル通貨から他の国の中央銀行デジタル通貨に交換が行われた後、その資金を顧客の望む通貨の形に転換することが実験されている。

 現在までの実験では、中央銀行デジタル通貨がクロスボーダー決済の効率を高め、コストを引き下げるなど積極的な成果が確認されている。

重要なポイント

 今回の講演の重要なポイントを整理すると、以下のとおりである。

①日米欧などでは中央銀行デジタル通貨は銀行間決済というホールセールでの利用についても検討されているが、デジタル人民元は一般大衆や企業の間のリテール決済に特化したものである。

②デジタル人民元は法的には物権に基づくものであり、人民銀行レベルでの集中口座管理は行われるものの、価値の移転は直接的に行うことができる。

③デジタル人民元は二層方式で運営される。第一層の人民銀行で集中管理が行われ、5大銀行や決済プラットフォームなどの運営商が第二層として顧客サービスを行う。

④デジタル人民元は100%準備のナローバンクと同様、信用創造機能は持たない。

⑤いまだに実証実験中のデジタル人民元の残高は僅少であるが、取引が迅速なので、取引額の規模は比較的大きい。

⑥デジタル人民元のクロスボーダーの利用についても、国内と同じく実証実験が進められている。

(了)


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