【14-07】黄土高原で緑化協力に取り組む(その3)
2014年11月11日
高見邦雄(TAKAMI Kunio):認定NPO法人緑の地球ネットワーク 事務局長
1948年生まれ。東京大学中退。日本と中国の民間交流活動に従事した後、1992年緑の地球ネットワークの設立に参加し、中国・大同市における緑化協力を担当、事務局長。著書『ぼくらの村にアンズが実った』(日本経済新聞社)は、中国版と韓国版も出版されている。友誼奨(中国政府)、栄誉市民(大同市)、緑色中国年度焦点人物(全国緑化委員会、国家林業局等)、外務大臣表彰、JICA理事長表彰など受賞
(その2よりつづき)
立花代表の参加にあたっての条件
黄土高原で緑化協力を始めたころ、私たちはみな素人で、現地の植林も失敗つづき。信頼できる専門家に加わってほしいと人探しを始めた。枚方市の職員だった川島和義さん(現副代表)が枚方市に植物の専門家がいるとの情報をえてきた。それが立花吉茂さん(当時花園大学教授)で、彼が技術顧問として週に1回通っている大阪市立咲くやこの花館に訪ねた。
こちらの自己紹介が終わらぬうちに、「やれNGOだ、国際協力だといっても、知識も経験もないからバカなことばかりやっている」という辛辣な言葉が飛んできた。それに対し「バカなことをしないために、先生に加わってほしいのです」とやっとのことで答えた。
立花さんの次の言葉は意外なものだった。「現地に植物園をつくる気はないか。そこまで本気でやるなら、自分も参加する」。
つづけて彼はこんな話をしてくれた。植物園は英語ではBotanical gardenで、直訳すれば「植物学園」。世界で最初にできた研究施設が植物園だった。
植民地主義の時代、イギリスはインドの主要な港近くに植物園をつくり、インド中の植物を集めて有用なものを探し、栽培法を確立して植民地経営の基礎にした。
時代が変わって、地球環境が問題になる現代は、そのような砂漠化地域に植物園をつくって、緑化の筋道を見つける必要がある。
その発想に私は驚き、絶対にこの人に参加してもらいたいと考え、「やります!」と答えた。
直後の1994年8月、立花さんを団長に最初の専門家の調査団を現地に派遣した。現顧問の遠田宏さん、現代表の前中久行さんも参加された。最初の一人が見つかれば、その先は広がっていくものだ。1995年、立花さんは緑の地球ネットワークの代表に就任し、先頭に立ってくれることになった。
協力拠点で苗木づくり
立花さんにはもう一つ構想があった。パイロットファーム、実験農場が必要だというもので、こちらを先に取り組むことになった。
大同における当時のカウンターパート・共産主義青年団大同市委員会の副書記、祁学峰さんにも考えがあった。マツを植える防護林や小学校付属果樹園を建設してきたが、それがバラバラにあるだけでは管理ができない、それらを統合し、牽引する拠点が必要だというのである。
双方の提案は一つのものとして実現した。1995年4月から南郊区平旺郷に建設した環境林センターがそれだ。地元の村から3.5haの土地の無償提供を受け、運転手、燃料付きでトラクターを借りた。
図8 拡張なった旧センター(2007年)
まず力を入れたのは育苗である。厳しい環境で緑化を進めるには、良質の苗木が最重要だ。自分のプロジェクトで植える苗であれば、育てるのにも責任感が宿る。
立花さんの提案で、小さなビニール温室を建て、花や観葉植物にも取り組んだ。樹木苗だけでは育つのに時間がかかり、技術の習得がまにあわない。花などをやれば期間を短縮できるというのだ。
人に恵まれ、ここの事業は順調に発展したが、2000年になって転機が訪れた。周囲の土地に買収工作が入り、環境施設の触れ込みだったが、実際にはコークス工場だった。そんなものが建てば村の畑は大打撃を受ける、日本側で代りに買ってもらえないか、というのだ。おかげで20haもある協力拠点ができた。
植林の現場で発生した問題をここに持ち帰り、実験と調査を繰り返し、解決策を見つけて現場に返す。各地の責任者や技術者を集めて研修も行った。
地元政府の造林地の一部でモンゴリマツが枯れたときは、北京の国家林業部(現在は局)に調査を依頼し、日本の専門家による調査にも同意をえた。訪れる日本の専門家の分野や人数が増え、交流が活発になった。自分の知識や経験を広大な現場に活かせることを、みなさん楽しんでくれるのだった。
2010年、ここに大同市の植物園が建設されることになり、私たちは移転を余儀なくされた。農村部だったのがいつのまにか都市化し、すぐ近くに20~30万人の大団地ができていた。
市長との面談で、大同県周士庄鎮に23haの土地を30年間無償で借りることが決まった。2011年4月からインフラ整備が始まり、3年後の今では以前にもまさる拠点が成立している。
山の奥で自然林を発見
環境林センターが軌道に乗った時点で、念願の植物園へと向かった。14200km2の大同市の全域を歩いた結果、市の最南部の霊丘県南山区が最適だと考えた。太行山脈に属し、気候が比較的穏やかで、植物種も多い。
1998年の春、地元の技術者の李向東さんに植物園の候補地探しと植生調査を依頼した。その年の7月、彼は私たちに、自然林が見つかり、一抱え以上の大木があるという意外な情報をもたらした。
陽高県の民謡「高山高」の一節に、「山は近くにあるけれど、煮炊きに使う柴はなし。十の年を重ねれば九年はひでりで一年は大水…」とある。7つの県を歩いたが、見るのは荒れ山ばかりで、木があっても最近植えた小さな苗だった。
その自然林までは2里だという。中国の1里は500mだから1kmだ。しかし歩いても歩いても辿り着けない。60kgもの薪を背負った老人が山から降りてくるのに出会った。その薪にはシラカンバやナラがカラマツの枝に混じっている。まちがいなく森林があるようだ。どこのものか尋ねると、遠くに見える山を越えて、さらに奥の山の頂上付近だという。とても行けそうにない。
そんなことを繰り返し、目的地に着けたのは4度目だった。弁当を用意し、朝暗いうちに出発し、ふもとの村に車を置いて、そこから歩いた。水の涸れた河底を歩き、藪こぎを繰り返し、5時間後にやっと着いた。地図で確かめると、碣寺山(1768m)の頂上付近で、河北省との境界から5kmのところだった。
森林がそこにあった! ナラ、カバノキ、カエデ、シナノキなど落葉広葉樹の森林で、遠田宏さんは「樹種もけっこう豊富です。種は違いますけど、属のレベルでは北海道や東北と共通しています」とのことだった。
図9 立花さんとみつかった自然林
森林が成立する自然の条件はたしかに存在する。それなのに、山という山に木がない。原因はなんだろうか。
その森林を観察し、年輪を調べてわかったことがある。ここの樹木は22年前に伐られている。麓の村の人たちが生活燃料として持ち帰ったようだ。そのときを最後に伐られなくなり、ここまで自然に再生してきたのだが、その理由もわかった。1960年代、村の近くでマツの植林がなされ、その下枝が燃料として使えるようになって、ここまでくる必要がなくなった。途中の道も灌木でふさがれ、容易には登れなくなった。
頂上付近は若い森林だったが、高低差で350m下った谷の底には、一抱え以上のナラが枝を広げていた。伐ったとしても、350mを運び上げ、さらに村まで持ち帰るのは困難だから、長く残ってきたのだろう。
このような森林を公道近くに成立させ、人びとに見てもらえれば、それだけで大きな意義がある。植物園建設への意気込みはいっそう強まった。
最後に見つかった植物園の候補地
地元のスタッフは7か所の候補地を探していた。順に見て回ったが、理想にはほど遠かった。最初に見た劉庄村の裏山は国道108号線のすぐそばで、交通は便利だが、村に近すぎて柴刈りや放牧が心配だった。現場を見て公道まで戻るとき、狭い枝道のまん中に、白いボールが転がっていた。子どもが置き忘れたのだろうと考えて伸ばした手が止まった。人のしゃれこうべ。そのときはまだ知らなかったが、この村は日中戦争にさいして240人以上の犠牲者を出していた。
暑い盛りで、私たちは疲れ切ってきた。最後にまた劉庄村近くまで戻ってきた。もういいよ、最初の劉庄村に決めよう、私がそう言おうとしたとき、李向東さんが「あそこの高いところに登ると、候補地が見えます」という。
重い足を引きずって行くと、500mほど前方にポプラの木が茂っているのが見える。その下に小さな池があり、湧き水が貯まっているという。えっ、どうしてそれを先に言わないの。ここではなにをやるにも先立つものは水である。その一言で、私たちに生気が戻った。
7番目に見たそこは満足のいく場所だった。近くの南庄村からほどよく離れており、直接の影響を受けないですむ。立花さんの考えでは、高低差があり、地形が複雑なところが多種類の植物を育てるのに都合がいいのだが、ここは海抜910m~1320mと400mの高低差があり、尾根5本と谷4本があって地形も複雑である。
当初の計画をいくらか拡大して86haの使用権を確保し、1999年4月に植物園の起工式をもった。そうは言っても、単なる荒れ山で、高い木はなく、灌木や草も膝や腰の高さしかない。しかもキンポウゲ科などの有毒または有刺の植物だけが目立つ。「植物園」と名づけるのはあまりに気恥ずかしく、こっそりと「自然」の二文字を加え、最終的に南天門自然植物園の名が定着した。
図10 植物園最初の植栽
近くの村と話し合い、柴刈りや放牧をしないことを約束してもらった。約束だけではあてにならないので、管理棟を建て、数人のスタッフが常駐することとし、境界に刺のある灌木を植えた。
その一方で、スタッフが周囲の山を巡って種子を集め、苗を育てる作業を始めた。あの碣寺山にも何度も通って、最初の年だけで200kgものドングリを集めたのである。
図11 育苗に取り組むスタッフ。李向東さん(右1)、周金さん(右4)
荒れ地に自生樹種の自然林が再生
5年もたつと、大きな変化が現れた。草や灌木が胸や肩の高さまで育ち、マメ科やイネ科の草も生えてきた。放牧の影響がどれほど強かったかがわかる。
1100mを超える北向きの日陰斜面では、落葉広葉樹の森林が再生してきた。モンゴリナラ(蒙櫟)、リョウトウナラ(遼東櫟)など数種類のナラを中心に、シナノキ(椴)、カンバ(樺)などが混じり、いまでは最大のものは樹高13m、胸高直径25cmを超えるまでになった。
図12 再生してきた南天門の森林
専門家の考えでは、一帯の海抜1200~1500mの山で極相林を構成する樹種の代表はナラである。山の主人公と言っていい。最近になって、中国政府の保護政策や山間の村の過疎化・無人化によって、太行山脈でも自然に再生する森林が増えている。その中心はシラカンバやヤマナラシなどのパイオニア樹種で、その寿命は長くない。南天門自然植物園で再生しているナラはきわめて貴重なのである。しかも大量の種子が熟すようになり、貴重なシードソースになってきた。
図13 たくさん実をつけたモンゴリナラ
それにしても、この年数で種子からここまで育つはずがない。自生していたものが、村人によって10年に1度くらい伐られていたのだが、小さなものや根株が残っており、それが育ってきたのである。
林床には落ち葉や枯れ枝が積もり、日本でも見たことがないくらい厚い。低温と乾燥で分解が遅いものと私は考え、そのように説明していたのだが、訪れた専門家の小川眞さんから、これまでは分解者がいなかったが、いま見ると小動物やキノコ・カビの仲間が増殖しているので、土壌の生成が速まり、植物の伸びもよくなるとの指摘があった。うれしいことだ。
南向きの日向斜面は植生が乏しいために土が流され、岩盤むき出しのところが多かった。その後、まずは草や灌木が茂り、最近では喬木の若苗も育ち始めており、植物の種類からいえばこちらのほうが多い。
スタッフたちは植物採集の範囲を河北省、北京市などへと徐々に広げた。そして経験のない種子を入手すると均等に分け、各自が数種類の方法を試す。多少のライバル意識をもち、ほかの人のやり方を横目で見ながら、自分で工夫する。結果として1年に10通りもの方法が試される。
職員の周金さんはあの劉庄村の人だ。中学校卒業後、製薬会社で働き、各地を転々としたが、両親が年老いたため、村に帰ってきた。誘われてここで働くことになったが、親戚や友人は猛反対したという。その彼が、「自分の植えた木が自分のいなくなった後も育つと思うとうれしくて仕方がない」と目に涙をためる。植物好きのいいスタッフが集まったものだ。
彼らは自発的に標本づくりも始め、2年ほどで500葉あまりの腊葉標本をつくった。重複もあるだろうが、園内にそれ以上の植物が集まっているのはまちがいない。
2013年3月、中国林業科学研究院の陳幸良副院長がここを訪れ、2日をかけて、日陰斜面と日向斜面の両方に登った。彼の評価は「封山育林のプロジェクトは全国に無数にあるけれども、これほど順調に森林が再生しているのを見たことがない」「中国の北方でこれほど多くの植物種がまとまってあるところはほかにないだろう」というものだった。そして、ぜひとも永久保存をめざしたい、というのである。
私たちはこれまでの23年間で、延べ200を上回るプロジェクトを建設してきた。私の立場としてはどの子も同じようにかわいい、と言わなければならないのだが、あえてどれか1つを選べと言われたら、やはりこの南天門自然植物園を残したい。
(おわり)