日中交流の過去・現在・未来
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【19-02】黄檗文化を見守る発掘者・伝承者・実践者―(社)黄檗文化促進会会長 林文清氏インタビュー

2019年5月31日 孫秀蓮(アジア太平洋観光社 文・構成)

 黄檗文化を知るまでは中国の建設業と不動産業で活躍する経営者だった。黄檗文化に出会ってからは、3年ほどの間に60回来日、100回余りの文化活動、1,000人以上の日本人をもてなす日中文化交流の使者になった。

----日本と関わるようになったきっかけを教えていただけますか?

 私は1988年に私費留学で神戸にやって来ましたが、その後父親の病気のため福建に帰りました。日本に来たばかりのときは全く勝手がわかりませんでしたが、すぐに日本に好感を持つようになりました。とても印象深かった出来事があります。アルバイトをしながら勉強していた頃、学校に行く途中で知らぬ間に財布を落としてしまいました。自宅に帰るとなんと財布を拾ってくれた方と警察官が私に財布を返すためにしばらく待っていたのです。日本人の誠実さに心を打たれました。

 日本に滞在したのは8カ月だけでしたが、先進的な技術と会社経営管理のノウハウを学ぶことができ、これらは全て私が中国に帰国した後の建設業と不動産業の仕事において、非常に役立っています。

----黄檗文化についてどのように理解すべきでしょうか。

 黄檗文化は、福建省の福清にある黄檗山から発祥し、中華文明に根を下ろしたものです。それは仏教文化を中核として儒教・道教・民間の文化を内包し、世界的に影響力を持つ総合的な文化体系なのです。

 黄檗文化は唐代中期から始まり、歴代の高僧を輩出しました。黄檗希運禅師は臨済宗の開祖です。明代末期、反清復明運動に失敗した各界のエリートたちが日本に避難しました。崇禎10年(1637年)隠元禅師は福清の黄檗山万福寺の住職になり、1654年6月に日本からの招きで来日して仏法を広め、1661年5月には京都に黄檗山万福寺を創建し黄檗宗を開きました。隠元禅師を代表とする明朝から生き残った数万の人々は、日本で協力して中国の文化と先進的な科学技術を保存しながら伝えていき、江戸時代の日本社会の各方面に大きな影響を与えました。日本では、日本に伝わった明代の中国文化を総称して「黄檗文化」と呼んでいます。黄檗文化は福建省の福清から日本に伝わった後、さらに東南アジア、欧米に波及し、独特な黄檗文化現象を形成しました。

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写真1 2016年6月、廈門虎溪岩寺の信者と京都万福寺で「隠元禅師来日363年記念イベント」に参加。

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写真2 2016年6月1日、福建政府関係者、神戸の華僑と一緒に京都万福寺で「隠元禅師来日363年記念イベント」に参加。

----黄檗文化を広げたいと思った最初のきっかけは何ですか。

 これまで、私が知っていたのは福清に黄檗寺があるということだけでした。2015年初めに隠元禅師の名前を知り、その年の5月に京都の黄檗山万福寺に行って初めて、隠元禅師が日本に来たことを知りました。当時、習近平国家主席は黄檗文化に関心を抱いており、2015年5月23日に日本から3,000人の訪中団を迎えた時にも「私は福建省にいたとき、隠元禅師が日本に渡り、仏教だけでなくさらに先進的な文化や科学技術を伝え、江戸時代の社会の発展に重大な役割を果たしたことを知りました」と述べました。

 中日関係が緊迫していた時期でしたが、中日両国は一衣帯水であり、2000年余りの友好交流の歴史があり、一時は戦争の時代があったものの、両国が友好的に交流することは人々が望むところであり大きな流れといえましょう。また、中国も日本も漢字を使い、文化的にも同じものが多くあり、日本は、中国ではすでに失われた多くの文化的要素を保存する魔法のタイムカプセルのようです。

 中国人として、私は日本に残っているこれらの中国文化を中国に持ち帰って、中国へ伝える義務があると思っており、伝統文化の復興に貢献するために、黄檗文化や隠元精神を発掘して高揚することが中日両国の民間の友好的な交流を促進できると確信しています。中国には「国の交わりは民の相親しむに在り」という古語があります。長崎の黄檗宗の寺院を訪問したとき、寺院の裏手に明末清初に日本に渡った数多くの中国人の墓地があるのを見て非常に感動し、中国と日本との民間交流を通じて両国の友好をより促進すべきであると確信しました。

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写真3 2016年8月23日、黄檗文化促進会が「千人が隠元禅師ゆかりの道を歩む」イベントを主催、長崎の興福寺で日本人と交流した。

 2015年4月7日、私は中国で「黄檗文化促進会」、日本では一般社団法人「黄檗文化促進会」を設立しましたが、全ての会員はボランティアです。私たちは6年計画を練りました。黄檗文化の足跡をたどり、中国で黄檗文化を伝承・復興し、中日交流に微力ながら尽力したいです。2016年以降、海外では「黄檗文化振興協会」のアルゼンチン支部とチェコ支部を立ち上げ、日本では関西支部の設立準備も進めています。

----福清黄檗文化促進会は、黄檗文化を広めるためにこれまでどのような活動をされましたか。

 福清黄檗文化促進会は、2015年4月の設立から今まで、優れた伝統文化を発掘し、中日の民間交流を促進する役割を果たしてきました。日本で文化交流活動を60数回、各種のイベントを100余りおこない、福建省では1,000人以上の日本人の友人を受け入れました。例えば、2016年8月23日に私たちが開催した「隠元禅師の道をたどる千人活動」や2016年12月に東京で開催した「福建――烏龍茶の故郷と福清黄檗の印象」をテーマにした写真展は好評を博しました。2017年2月には京都に赴き福清市と宇治市との姉妹都市締結の可能性について関係者と話し合いましたし、2018年7月には画僧の内藤香林展を福清で開催しました。同8月には中国の青少年を日本によんで青少年黄檗サマーキャンプをおこない、9月には福建漢服研究協会と共に、日本の服飾文化研究会と日中文化交流活動をおこない、さらに10月には阿南惟茂元中国大使夫妻ご一行をお迎えしました。

 真摯な交流や数々の行事を通じて、私たちは日本の黄檗宗・臨済宗・曹洞宗・真言宗・天台宗などの団体と友好的な交流をしただけでなく、日本の政財界などの各界の友人とも友誼を結び、さらに文化・経済・貿易団体や華人・華僑の団体とも協力関係が生まれました。

----今後はどのように黄檗文化を広めていきたいと思われますか。

 黄檗文化は中国と日本の文化交流のシンボルの一つであり、隠元禅師は中国文化のメッセンジャーです。私たちは引き続き黄檗文化を探求してひろめ、中日両国が友好的な民間交流を結ぶための役割を果たしたいと考えています。さらにもう一歩推し進め、日本の各界と協力して両国の若者たちの文化交流を促進したいと思います。また、一定の影響力を持つ世界黄檗文化フォーラムを準備中です。

 黄檗文化の影響力と隠元禅師の魅力により、日本の皇室は6度にわたり隠元禅師に称号を賜りましたが、2022年にも再び賜ることになっており、この年には隠元禅師遠諱350年の記念イベントをおこなう予定です。同時に2022年は中日国交正常化50周年に当たり、私たちは隠元禅師及び日本に渡来した明朝の生き残りたちの故郷に帰りたいという悲願をかなえるために、京都の万福寺に秘蔵されている隠元禅師の舎利を福清に里帰りさせたいと考えております。さらに各界が中日両国で黄檗文化や隠元の精神をテーマとするフォーラムを創立できるよう推進しており、定期的に黄檗文化と広く漢字文化圏の文化フォーラムを開催することで再び中日の人々の間に文化と友好の橋をかけ、中日友好交流の新たな美談を作り出したいと思っています。

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写真4 2016年、中国駐日本大使程永華氏が黄檗文化促進会メンバーと会見。

林 文清

林 文清(りん ぶんせい): 黄檗文化促進会会長

略歴

1988 年来日。中国へ帰国後、建設業と不動産業に携わる。2015 年に黄檗文化促進会を設立。日中両国で黄檗文化を熱心に伝え、3年間の間に、60回ほど来日し、幅広い分野の人々と交流を重ねている。

※本稿は『月刊中国ニュース』2019年5月号(Vol.87)より転載したものである。