日中交流の過去・現在・未来
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【21-02】中国との邂逅で躍動感ある盆栽作りへ―春花園BONSAI美術館創立者・小林國雄氏に聞く

2021年04月13日 孫秀蓮(アジア太平洋観光社 取材・構成)

「改作」それは盆栽の形を大きく変化させる巨匠小林國雄の代名詞である。20年前、中国で刺激を受けて、その後数々の躍動感ある盆栽作品が生まれた。しかし数え切れない盆栽を作ってきた男が最初に改作したのは盆栽ではなく自分の人生だった。園芸農家から一代で身を起こし、瞬く間に盆栽界で名を上げると、10億円を投じて春花園BONSAI美術館を打ち立てた。空飛ぶ盆栽作家として海外ならず天国も地獄をも訪れた男。その波乱万丈な人生の魅力に迫る。

盆栽業界に入られたきっかけを教えていただけますか。

A 私は戦後、裕福とは言えない園芸農家の6人兄弟の次男坊として育ちました。大皿の野菜炒めの隙間に潜る豚肉を兄弟同士で争って食べ、寒空の下、街行く人に葉牡丹を売り歩く...それが今の私を作った原体験です。正直に言うと、はじめはお金が欲しかった...それがきっかけでした。

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文化庁長官賞受賞、盆栽が日本の文化として認められた瞬間 (2020年12月17日)

 都立農産高校園芸科を卒業した私は18歳で父の園芸農家を継ぐことになります。草花を育て、売る。繰り返す日々がただ過ぎていくことに疑問を持ちました。「私の一生はこのままでいいのだろうか...」

 当時の日本は高度経済成長期。盆栽は高尚な趣味として知られ、展示会は東京駅百貨店で開かれるほどでした。ある雨の日自分と違う世界を知ろうと展示会を観に行きました。第8回日本盆栽作風展。盆栽の専門業者が腕を競う日本最大級の展示会です。そこで展示されていた盆栽から脳天を貫くような衝撃を受けました。それは「奥の巨松」という樹齢600年の五葉松の盆栽です。幹の内部が朽ちて白骨化し、外側の皮だけで命を繋いでいる...まさに命の尊厳を体現しているようでした。その樹との出会いが私を盆栽業へと引き寄せてくれたのです。私の人生の最大の転機があったとすれば2つ。この「奥の巨松」との邂逅、そして後述する最愛の妻フミ子との出会いです。

春花園BONSAI美術館を作られた経緯を教えていただけますか。

A この美術館は死をも覚悟した私の男気で出来ています。私は、とある事件がきっかけとなり盆栽組織を除名されました。28才から盆栽業界に入った私は出遅れた危機感を強く持ち、1日15時間、年中無休で努力を重ね、破竹の勢いで展示の賞を総嘗めにしました。しかし、あまりに急激に大きくなり過ぎた。由緒ある出自ではない新参者が、伝統ある盆栽界を席巻したのです。それが反感を買わない訳はありません。除名をきっかけに仕事が停滞し、生活は奈落の底へと落ちていきました。「もう、楽になりたい...」度重なる嫌がらせの末に電車に飛び込こみそうになったこともありました。そんな時、妻フミ子の言った一言が私を思いとどまらせたのです。「お父さん、死ぬのはいつでも死ねる。死ぬ前に仕返しをしなさい」と。今ここで命を絶ってしまえば、嫌がらせをした人が喜んでしまう。それならば他の誰もが出来ないことを成し遂げてやろうと思いました。そこで決めたのが盆栽美術館の建造だったのです。当時盆栽は海外で流行し始めていました。

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真柏盆栽、銘「白鵬」。白骨化してなお生続ける威容は樹齢千年を上回る

「世界に向けて日本の盆栽の魅力を発信したい」その思いから人生を賭けた勝負に打って出たのです。盆栽専門の美術館。それは収益の見通しも立たない危険な賭けでした。1989年から三段階にわけて少しずつ完成させ、 私財10億円つぎ込んで美術館を作っていきました。資金調達にも苦戦し、所有していた作品、お茶碗、絵画、人間国宝の陶芸品など、全て投げ出し美術館建設の資金に充てました。迷惑を承知で父親や妻、弟子、関係者全てに協力してもらいました。

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10億円の私財を投じた春花園BONSAI美術館と歴史的名品盆栽を観られる庭園

 そして2002年、苦節13年を経て春花園BONSAI美術館が落成。私の男の意地が実った瞬間でもありました。あの時、一度死んだつもりで見返すことを誓った決意...そしてなにより大好きな盆栽を世界に発信する無謀とも思える発想。それを妻、家族、弟子たちや仲間、様々な人が私を支えてくれました。そして美術館は現在すでに年間の来館者は3万人、内8割は外国人のお客様が占める国際的な美術館へと成長し続けています。

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最愛の妻フミ子さんと

先生は28歳で盆栽業界に入られましたが、当時から現在までご自身の作風はどのように変化されましたか。

A 言うなれば「仁王が仏に変わる」かのような変化でしょう。私は盆栽に関わって44年になります。最初の頃は形の綺麗な盆栽を作っていた。生きていくために「売りやすく、賞を取れる盆栽」を作ることが必要でした。ところが盆栽に向き合っていくうちに形の綺麗な盆栽に疑問が湧き始めます。歳を経るごとに私の興味は「お金を稼ぐための盆栽」から、「命の美を表現する盆栽」へと移り変わって行きました。わびさびに代表される美意識やもののあわれを盆栽で表現したい。そんなことを漠然と考えながら20年前に訪れた中国での体験が作風を変化させる大きな契機となったのです。そこにあったのは日本の型に嵌めたような三角形の盆栽ではなく、枝の作りが上下左右に屈折し、躍動感が溢れ出る盆栽でした。「過去の成功を捨て作家として新しい価値観を世に問いたい」

 2015年、そんな衝動に駆られ、過去日本一の栄誉に輝いた真柏盆栽「清風」の改作を行いました。平面的な作りを切り込み、枝の曲線美を表現しました。その結果、尊敬する盆栽飾り景道片山流二世家元である須藤雨伯先生から「小林くんの作風もついにここまで来たな」と賛辞をいただいたことが何より誇らしかったです。

先生にとって究極の作品とはどのような作品でしょうか?

A 「感動」の一語に尽きます。作品に魂がこもっていなければ、人に感動は与えられません。歴史的芸術家はどのような作品を世に残したでしょうか。

 技工が優れたものは世に溢れているのにも関わらず、本物の作品はその時代の人々の価値観を一変させるだけの影響を与えています。究極の作品とは世間に迎合せず、己の「美に憑かれる業」を徹底的に曝け出した結果ではないでしょうか。

 私は未だに作品創りに満足していません。命ある盆栽芸術は永遠に未完であり、変化し続けます。樹の個性・調和・品位を重んじ求めながら生きていく。盆栽作家の命は盆栽と共にあります。自分自身が究極の作品に近づけるようこれからも精進していきたいですね。綺麗な盆栽ではなく試練をくぐりぬけた味と生命を表現したいです。

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真柏盆栽、銘「旭光」。僅かな8畳間に海抜二千米に自生する樹の命を感じとる

2021年「景道」(盆栽道)の三代目家元になられますが、「道」についてどのように思われますか?

A 「道」という漢字は甲骨文字の時代に遡ると、邪霊からの災いを祓うため異族の首を手に持って歩んだことが成り立ちとなっています。元々の意味に立ち返れば「道」とは人の迷いを払い、人生の標となるもの。その意味で中国の「道教」から学ぶものは大きいです。老荘思想の中で「道」とは宇宙の原初で万物の根源となる存在。物事の変化を司る簡明にして深淵な法則です。人は地にあり、地は天にあり、天は道にあり、道は自然にある。つまり、「盆栽道」とは人よりも長い命をもつ盆栽を育て、作ることで自分の健康と長寿を保ち、盆栽飾り「景道」の作法を通じて精神と美意識を鍛錬していく。かつて私は盆栽飾り「景道」を片山一雨先生に学びました。それは礼儀作法に始まり、お客様をおもてなしする心、そして日本の四季の風情を味わい、一座建立を目指す作法です。

 この度私はその「景道」の三代家元を受け継ぐことになりました。道を極めるとは片時もその先にある目標を見据え、災いや誘惑に迷わず努力することです。

 道を極める日々の修練は所作や礼節、挨拶や掃除です。基本を忘れず盆栽道を極めて行くことが求められます。そして盆栽飾り「景道」の根本的な精神は最終的に禅の世界へ繋がると考えています。盆栽を技術的に作ることも必要ですが、盆栽の本質を見極めるためには床の間飾りは必要不可欠なものです。盆栽、掛け軸、添え物の三点を飾り、四季の景色を感じさせる...。鑑賞者は目に見えない席主の意図を見抜くよう努める。その無言の会話は京都龍安寺の石庭を眺めるかのような禅問答の世界です。ましてや人間は自分一人で生きることは出来ず、多くの人に生かされています。私が世話になってきた盆栽の世界にどうやって貢献できるか考えたとき、やはり盆栽の魅力や素晴らしさと本質、即ち「景道」(盆栽道)とは何かという点を春花園BONSAI美術館から啓蒙していくのが私の役目だと考えています。

これまでどのような外国人のお弟子さんを受け入れてこられましたか?

A 海外から私のところに弟子入りする子たちは105人にのぼります。その中でも中国から来てくれた子が一番多く34人。太ったベジタリアンで肉を食べない子が来たときは大変でした。弟子の料理を作るおかみさんはその子の分の料理だけ肉を取り除くのに苦労をしていました。ご飯にはこだわるのにアイスクリームをたくさん食べるから太るんです。変わった子もいますね。弟子入りの条件は一点「盆栽が心から好きか」だけですね。その他は国籍、性別を問いません。たとえ言語が違おうが、盆栽を愛する心に国境はないんです。今まで欧州、北米はもちろん、果ては南米やオーストラリアから盆栽を勉強しに来る子がいました。

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盆栽を学んだ弟子たちの名札

 若い子たちは寮に住み込み、食事も共にしています。内弟子制度は親方の生活を一挙所一投足を見て学び取る最善の方法であると思います。最近、8歳になる孫が私に弟子入りしまして、将来はこの子に春花園を継いでもらおうと教育しているところです。

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春花園三代目・一見永祥(8歳)に盆栽の極意を伝授

弟子の育て方と盆栽の造り方には何か共通点はありますか?

A 一言で言えば「個性、調和、品位」ですね。私はもう72歳になって、名誉もお金もほしいと思いません。私が皆さんにお返しできることといえば、やはり次の世代の人を育てることだと思います。しかし、盆栽を造る方が弟子を育てるよりも楽だと思いますね。盆栽は植物なので素直に私の言うことを聞いてくれます。人と盆栽の共通点はどんな子にも個性があるということ。それぞれの個性をどう引き出し、伸ばしていくか。それが調和を作るということ。欠点がある時は目立たないように修正してあげる。礼儀や挨拶を教えることで最終的に品位のある人格を備えることができる。人格が身についてようやく良い盆栽を作れるようになると思います。

 スポーツ選手なんかは才能が大事だと思いますけど、才能というのは遺伝しません。盆栽をやっていくに一番大事なのは情熱だと思います。情熱がある人であれば感性や美意識も磨かれていきます。世間は私のことを「盆栽界の鬼才」とか「空飛ぶ盆栽作家」と華々しい二つ名で呼びますが、実際日々地道な努力の積み重ねで今の自分があると考えています。28歳の時から今でも1日15時間は盆栽を作っています。盆栽が好きだから一つも苦になりません。夢も盆栽 ばかりです。

先生と中国の繋がりについて教えていただけますか。

A 20前に初めて盆栽の視察団で中国へ行ったのを皮切りに2020年までに53回訪問しています。上 海、温州、寧波、武漢、広州、杭州、常州、如皋...当時、中国の路上はボロボロの車やリアカーみたいなものばかりでしたが、今や殆どが外国車が走ってますね。会社や建物、ビルも竹林が伸びるように増えて行きます。中国人の持つ広い国土と豊富な人口とエネルギーというのは日本のものと比べ物にならない勢いがあります。どんどんどんどん上がって、わずか20年でストーンと発展しました。何よりも中国の人との出会い。日本人は空気を読み、仕事を優先しますが、中国の人はみな大局を見据え、大らかで家族の繋がりを大切にする。やはり広大な国土、悠久の歴史、孔子、老子を生み出した大きな国だなと思いますね。

中国と日本の盆栽文化にはどのような違いが感じら れますか?

A 日本の文化の源泉は中国から渡来したものです。両者は非常に似通っている。盆栽もそのうちの一つですね。1300年前に唐の時代、李賢という皇族の墓に盆上に石と植物らしきものが描かれた壁画が登場します。そしてその「盆景」文化は800年前に日本に伝わってきました。そこから日本人の「引きの美学」によって鉢の中に単一の植物が植えられたものが江戸時代に「鉢植え」と呼ばれ庶民へと普及していきます。そして、明治時代、「盆栽」という呼び名が確立され、時の明治天皇が愛好なされたのをきっかけに政界で大きく広まり、いわゆる「旦那様の趣味」というイメージが根付いていきます。そして昭和。1970年の大阪万博で大規模な盆栽展覧が行われて世界中に盆栽が認知されるようになりました。今、日本の盆栽は形は綺麗ですが、一つの型にはまりすぎていて変化が必要だと思っています。

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左・右/中国盆景の枝作りからヒントを得て改作を施した真柏盆栽、銘「清風」

 対して中国の盆栽は非常にのびやかで大きく、躍動感があります。10年ほど前、中国で盆栽を見てから「盆栽って何だろう」と自問自答し続けました。そして、盆栽の生命力を引き出すには平面的でなく、立体感のある必要が有ることに気が付きました。勢いある中国の盆栽から躍動感を学んだのです。ただ、中国の盆栽は躍動感が素晴らしい一方でバランス感覚が必要だと思います。例えば鉢合わせの調和をもっと図り、樹と鉢、卓との三位一体のバランス感覚を作っていく。私が中国から学んだように中国が日本から調和の美を習得すればより次元の高い文化を作って行くことが可能であると思います。

盆栽にはどのように日本人の美意識が現れているか、お聞かせいただけますか?

A 日本文化というのは凝縮されたものを簡略にする、この点に良さがあると思います。例えば中国では盆栽の隣に置物や人物、馬、羊などを置き一箇所に集中させることを美徳とします。ここに古代から広大な国土の中心地を求めて止まなかった「中華思想」が反映されていると考えています。小さい日本の中では余計なも物を省く引き算の文化が大事にされていますよね。能楽の真髄を表した世阿弥の「風姿花伝」に「秘すれば花」という言葉があり、想像させる余韻をもたせることの重要性が説かれています。俳句や短歌など、5・7・5の少ない言葉の美は日本文化の結晶だと思います。

 対して中国では南宋の時代に謝赫が確立した画の六法に「気韻生動」という美意識があります。作中に気が満ち溢れ神気が漂うことを理想に据えている。やはり美意識の出発点から目指すものが違います。今後、中国では同じ盆栽を何十年と持ち続け、年を重ねることによってわび、さび、物の哀れなどを表し、余計なものを省いていく...そんな日本人独特の感性を理解し、活かしていってほしいですね。

今後日中両国の盆栽分野の発展についてはどのように思われますか?

A 日本人は盆栽の本質を見極めることはある程度まで出来たように思います。しかし、少子高齢、人口、経済、あらゆる流れ考慮すれば将来中国に勝つことはできません。日本にできることは争うことなく盆栽文化の本質を伝え、交流しながら新しいものを創り出していくこと。私は中国で兵馬俑を見た時に、始皇帝の力に驚嘆しました。中国と日本ではスケール感がまるで違う。盆栽においても同じですね。現在中国ではたくさんの場所、省や地域で大規模な盆栽大会を開いてますし、盆栽技術が進歩するスピードが著しいと感じます。中国の盆栽は大きく、躍動感がある。だからこそ細部まで手を抜かず、徹底的に拘り、極めることを目指して欲しい。今の盆栽のかたちを確立したのは日本人ですが、これから世界の盆栽界のリーダーシップ、指導権を握るのは中国になるでしょう。盆栽界を牽引していくには、財力のみでなく、精神の内面から漂う品位、そして高い教養から生み出される文化が求められることは間違いありません。日中盆栽界のより深い交流が必要になってくるでしょう。

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日中友好会館での企画展

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中国山東 省盆景大会、盆栽創作デモンストレーション時の小林國雄氏

今後の日中交流についてはどのように思われますか?

A 中国では2021年5月に上海にある崇明島で国際園芸博覧会が開催されます。上海市崇明島区の区長から要請がありました。現地を訪問した際、盆栽培養の指導を行ったところ崇明島名誉村民の称号を頂戴しました。そこで崇明島に中国春花園を打ち立て、弟子の陳怡君に私の盆栽作品500鉢の培養管理を任せています。

 中国は日本と一番近い隣の国ですし、日本文化の多くが中国から渡来しています。中国人と日本人はまさしく兄弟。中国とは仲良く、これから先も付き合いを深めて中国の素晴らしさを多く学ぶべきだと思います。また、中国の方も日本の良さを学び取って、お互いに成長し合っていきたいです。

小林國雄

小林國雄(こばやし くにお)

略歴

1948 年東京都江戸川区生まれ。春花園 BONSAI 美術館創立者。一般社団法人日本水石協会理事長。家業の園芸農家より28歳から盆栽の世界へ。遅咲きのデビューながら独学でのし上がり、内閣総理大臣賞、国風賞、文化庁長官賞をはじめ、数々の栄誉を獲得。盆栽文化普及のため、海外での講演は30カ国150回を超え、「空飛ぶ盆栽作家」の異名を持つ。国内外の弟子育成にも尽力。盆栽文化の普及に努める。主著に『盆栽芸術-天-』『盆栽芸術-地-』『BONSAI』『イチから教える盆栽』等がある。


※本稿は『和華』第28号(2021年1月)より転載したものである。