【21-04】二胡の音色で日中をつなぐ―二胡音楽家・教育家張濱氏に聞く
2021年05月26日 孫秀蓮(アジア太平洋観光社 取材・構成)
張濱氏は日本に住む二胡演奏家、音楽家、教育家の中でも異彩を放つ存在だ。二胡演奏団理事長、名古屋観光文化交流特命大使を務め、二胡演奏団を率いて愛知、上海万博に出場し、日本の小学校の教科書にも掲載されている。このような輝かしい経歴の背景には子供のように純粋に二胡を愛する気持ちがある。中国での安定した仕事を捨て日本にやってきてビザのため仕方がなく国に帰ったときもあった。月日は流れても初心は忘れず、二胡教育の普及に尽力し、日中友好につくした人生の歩みを後世に伝えている。
来日された経緯についてお聞かせいただけますか?
A 私は小さいころに二胡を習い始めました。高校を卒業した後、国立南京前線歌舞団に合格し、交響楽団で首席奏者を務め、太鼓も兼任していました。南京前線歌舞団では、よく日中交流活動の場で演奏していました。私も日本のドラマや映画を通じて、日本に興味を持っていたので、国立南京前線歌舞団を辞して1992年4月2日に日本に来ました。最初は全く日本語ができなかったので、まず1年間語学学校に通い、名古屋芸術大学で3年間を研究生として、さらに4年間を学部生として学びました。その後、また愛知県立芸術大学の研究生に合格しました。
国立南京前線歌舞団で活躍していた頃(中央が張濱氏)
日本で二胡を教え始めるきっかけは何だったのでしょうか?
A 名古屋芸術大学にいた時、友達から愛知大学で二胡を教えてもらえないかと頼まれました。愛知大学と南開大学は姉妹校なので、交流していた学生たちが二胡クラブを設立したというのです。しかし日本国内ではなかなか先生が見つからないということでした。私はそれを聞いてとても感心して、教えることを承諾しました。当時中国では、二胡奏者は伝統的な二胡の曲目を演奏するのが一般的でした。しかし二胡クラブの学生たちは、自分の好きな歌を演奏するのです。それをとても魅力的に感じ、私も何曲か練習しました。ある演奏会で、日本の歌「月の砂漠」を演奏したところ、観客は感動して、涙を流しながら聞いてくれた人もいました。二胡の演奏で人に涙を流させるのは容易ではありませんから、二胡が内側に秘めた純粋な力がはっきりと証明された気がしました。実はその時私が勉強していたのは管弦楽で、トロンボーンを専門にしており、もうほとんど二胡を弾いていませんでした。それは大学3年生の時でした。
日本で初めて中国の民楽奏者として芸術家のビザを申請したのが、張さんだったそうですね。当時何か困ったことはおありでしたか?
A 当時、私は学部を卒業して、愛知県立芸術大学の大学院に進学するつもりでした。しかし、合否を待っている間に、ビザが満了してしまう時期に差し掛かっていました。芸術家ビザを申請しましたが、スタッフから「二胡は中国の民族楽器です。それに二胡は日本での知名度が低く、演奏者もあまりおらず、前例がありません」と言われました。
「芸術」ではないとは一体どういうことか!私は日本でよく学校のボランティア公演に出ますが、観客の反応はとてもよいです。二胡の静かな音色がちょうど日本人が追求しているわびさび、幽玄、物悲しさを大切にする美意識に合っているのかもしれません。ある観客が公演後に葉書をくれたことが、強く心に残っています。彼は交通事故のため、今は歩くのが不便になってしまったが、私の演奏を聞いて元気をもらい、来月職場に復帰するということでした。これが、音楽の力です。二胡が私たちにくれた感動です。この話をビザ申請の担当者に伝えると、感銘を受けたようでもう一度申請する機会をくれると言いました。その代わり、必ず2週間後には一度日本を離れろというのです。
今でもはっきり覚えています。その年の6月30日、家族3人で荷物をまとめて神戸から船で中国に帰りました。その後に予定していた公演もキャンセルせざるを得ませんでした。3ヶ月待っても入国管理局からの連絡はありませんでした。その時は私が日本で公演した時の観客と学生たちが、大きな励ましと助けをくれました。およそ5ヶ月以上待ち続け、晴れて12月26日に、二胡芸術家としてようやくビザを受けとりました。
日本に戻られてからは、どのようなお仕事をされましたか?
A 日本に戻ると、二胡学院とイベント会社、二胡演奏団を相次いで設立しました。2005年には、二胡演奏団を率いて愛知万博に出演しました。CBCテレビで、コラム番組「張濱二胡・心の旅」をスタートし、二胡で日本の伝統的な曲を演奏しました。毎週土曜日の番組で、放送された5年半で合わせて250曲以上を演奏しました。その後、日本の中部地方(愛知県、岐阜県、三重県)では「二胡ブーム」が巻き起こりました。
CBCテレビでは番組を持ったこともある
2005年には大勢の二胡奏者たちを連れて愛知万博に参加され、中国の民俗音楽を演奏されたそうですが、それはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
A 当時、二胡学院を設立してずっと学生を指導して練習していました。世界万物博覧会が愛知で開催されていることを知り、これは私たちの練習成果を披露する絶好の機会だと思いました。私は責任者に連絡して、日本人に二胡がとても人気があることを説明し、中国の楽器で日本の曲を演奏して、日中友好交流の気持ちを表したいと伝えました。いよいよ本番となった2005年6月13日、私達は総勢124人で会場に赴きました。メンバーは日本人が122人で、中国人は私と娘だけでした。当日、会場に着いて9時からの二胡公演の入場券を配り始めると、瞬く間に11時には3,600枚の入場券がなくなりました。これほど多くの日本人が万博に出場して、二胡を演奏したことはなく、当時の日本各界からの反応は非常に熱く、テレビ局や記者が殺到しました。また、この公演の映像は日本の国立国会図書館に保存され、国家資産となりました。
愛知万博では124人で演奏
その後、また大勢を連れて上海万博に出演されたそうですね。
A そうですね。私たちは「104」の電話番号案内を利用して、上海万博のステージ責任者を探し、状況を説明しました。愛知県には、100人以上の二胡愛好家がいること、前にも愛知万博に参加して、大きな応援と感動の声を得られたこと。そして、今度は上海万博で日中友好の理念と心の声を伝えたい、と。さらに私たちが出演していた映像資料を全部送りました。そうこうしていると、上海側からスタッフが日本に来て、実際の様子を見に来ました。私たちの公演が認められ、結局上海万博で5回も公演しました。この時は舞台上の演奏者が100人、上海万博ステージまで応援に駆けつけたファンクラブや団員の家族や支援者が100人、合計200人のツアーで上海万博に行きました。上海万博終了後に、万博の成功に貢献したとして、世博組織委員会より栄誉記念証書を賜りました。
2016年に名古屋観光文化交流特命大使に任命されましたが、どのようなことをされているのでしょうか?
A 名古屋市は魅力発信と文化交流活動推進を必要としているため、自分にできることで尽力しています。また、私自身もずっと音楽による文化交流の方面の仕事に従事しています。例えば、私たちの演奏団が愛知万博に出演した2005年の翌年から、毎年4月に団員を率いて名古屋徳川園で桜二胡音楽会を開催してます。名古屋と南京は友好都市で、毎年3,000人近くの日中両国の観客が訪れます。
また、最近は名古屋市教育委員会と組んで、名古屋の子供達に、小さい頃から二胡に触れてもらうプロジェクトを計画しています。彼らも賛成していますが、経費は限られていると言います。私はこの計画はボランティアとしての仕事でも大丈夫だと言っています。先生と楽器は全部提供できるからです。私達はそれほどまでに、まず若い人に先に二胡を知ってもらい、興味を持ってもらって、二胡を更に普及させて日中の音楽文化交流を促進する必要があると考えています。
〈左〉観光大使の委嘱状を受け、PRに意欲を見せる張濱さん(右側)と娘の張日妮さん(左側)
〈右〉名古屋では毎年桜二胡音楽会を開催している
二胡の最大の魅力は何だと思われますか?なぜ国境を越えて、こんなに多くの人に愛されているのでしょうか?
A まず二胡が、様々なジャンルに対応できる楽器であるということです。中国の民謡はもちろん、日本の歌や西洋の曲を演奏できますし、様々な音楽ジャンルの奏法を研究すれば、未知の演奏領域はまだまだあると思います。これからも民族音楽に限らず、限界を突破して挑戦してゆきたいです。
第二に、二胡は演奏者の感情を表現するのに、とても向いている楽器だということです。演奏によって、聴衆も演奏者自身も感動を共有します。私たちの二胡演奏団や学校もそうですし、日本には二胡愛好家がたくさんいらっしゃいます。なぜこうして人が集まってくるのでしょうか?二胡という、一つの受け皿があったからです。二胡を通じて、私たちは感動し、お互いの心を結び付けることができます。これこそが、二胡の最大の魅力だと、私は思います。
〈左〉四川大地震チャリティーコンサートを主催 〈右〉国連創設75周年記念友好コンサートに出演した
〈左〉子供に二胡を教える張濱氏 〈右〉チャン·ビン二胡スクール発表会
張濱(チャン ビン)
略歴
中国遼寧省出身。特定非営利活動法人チャン・ビン二胡演奏団理事長。チャン・ビン二胡スクール主宰。中国音楽家協会二胡学会特任理事。名古屋芸術大学客員教授。愛知万博二胡大合奏の後「、桜二胡音楽会」を徳川園で毎年開催。上海万博のほか中国各地で友好音楽会を主催し、その活動はメディアで多数紹介される。2015年上海総領事表彰。名古屋観光文化交流特命大使、江蘇省海外聯誼会常務理事など日本と中国の架け橋として活躍中。
※本稿は『和華』第28号(2021年1月)より転載したものである。