林幸秀の中国科学技術群像
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【21-06】【近代編5】曾国藩~清末の洋務運動を主導

2021年02月22日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト

<学歴>

昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構 
            研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
            中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)

はじめに

 清末の科学技術や高等教育に関係する最も重要な動きは、アヘン戦争やアロー戦争さらには太平天国の乱を経て、衰えつつある清朝を復活させるための改革であった洋務運動である。この洋務運動の主導者として、日清戦争の講和条約である下関条約に署名した李鴻章が有名であり、そのほか左宗棠(さそうとう)や張之洞(ちょうしどう)らが推進者として挙げられる。ここでは、これらの人々の中で指導者的な立場にあり、科学技術や高等教育の振興に最も尽力したと考えられる曾国藩を、近代編の5回目として取り上げる。

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曾国藩

生い立ち

 曾国藩は、清朝の時代である1811年、湖南省湘郷で普通の農家の長男に生まれた。当時の清朝の皇帝は、乾隆帝の十五男である嘉慶帝である。嘉慶帝は1796年に即位しており、清を大帝国に築き上げた康熙帝(1661年~1722年)、雍正帝(1722年~1735年)、乾隆帝(1735年~1796年)の治世という最盛期が過ぎ、西欧列強の侵略と内乱による衰退が始まろうとしていた時代であった。

 曾国藩は、幼い時から勉学に励み、6歳から私塾に入学した。8歳で四書、五経を唱え、14歳で「周礼」、「史記」などを読んだという。清朝での栄達を求めて16歳で科挙の前段階試験である童生試に合格し、1838年27歳で科挙の最終・最高試験で時の皇帝も臨席して紫禁城で行われる殿試に見事合格して、進士の称号を賜った上で軍機大臣に仕えた。

帰郷と太平天国の乱

 その後順調に出世を重ね、文官の任免・評定・異動などの人事などを司る吏部の副長官である左侍郎の職にあった1852年41歳の時に母親が死去したため、当時の慣習に従って湖南省に帰郷し喪に服することになった。

 曾国藩が帰郷する前年の1851年に、洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした太平天国による反乱が勃発した。清の正規軍たる八旗がその鎮圧に当たったが、建国以来長年にわたる貴族化により弱体化していた八旗は連戦連敗であり、洪秀全率いる反乱軍は曾国藩が帰郷した翌年の1853年3月に南京を陥落させて天京と改名し、太平天国の王朝を立てた。

湘軍の設立と太平天国との戦い

 危機感を抱いた清朝は、中国各地の実力者に対し「郷勇」と呼ばれる臨時の軍隊の徴募を命じ、太平天国の乱の平定に当たらせることとした。喪に服していた曾国藩は、故郷の湖南省一帯で師弟、親戚、親友などの人間関係を頼りに「湘軍」を組織し、太平天国の鎮圧を目指した。

 湘軍と太平天国軍との戦いは熾烈であり、湘軍は幾度も敗戦の憂き目に遭いながらも戦いを続け、1854年4月に湖南省湘潭で太平天国に大勝利を収めた。しかしその後太平天国軍は、名将羅大綱・石達開らの活躍もあり安徽省中南部・江西省・湖北省東部を支配し、さらに1856年には江北・江南を支配し足場を強固にしたため、以降数年にわたり膠着状態となった。

 曾国藩は1862年に、この局面を打開すべく自らの幕下にあった李鴻章に命じて安徽省合肥で郷勇を募り、約7,000名を集めて「淮軍」を設立させた。また、当初太平天国について中立の立場にあった英国やフランスなどの列強は、アロー戦争の講和条約である1860年の北京条約締結後に清朝に味方することとなり、武器等の調達に協力すると共に外人部隊の編成や西洋人将校の下での中国人傭兵を集めた「常勝軍」を編成するなどして、太平天国の乱の鎮圧に協力を開始した。

 曾国藩率いる湘軍、李鴻章率いる淮軍、西欧列強の指揮下にあった常勝軍などの猛攻を受け、1863年以降太平天国は無錫・蘇州・杭州と次々に失い、天京(南京)は孤立した。1864年6月、洪秀全は栄養失調により病死し、湘軍の猛攻に遭った天京は翌7月陥落して太平天国は滅亡した。

洋務運動を主導

 1861年に恭親王奕訢(えききん)が開始を宣言したとされる洋務運動は、西欧の近代科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動である。洋務運動は「中体西用」とするスローガンが有名であり、中国の儒教を中心とする伝統的な学問や制度を主体(中体)として、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべき(西用)との主張である。曾国藩は洋務運動を主導し、現代にも残る業績を残している。

 初期の洋務運動の目的は太平天国の乱を鎮圧することであり、大量の銃砲や軍艦を輸入するだけでなく、西欧の近代軍備を自前で整備することであった。曾国藩は、湘軍の指揮官として太平天国の乱を戦う中で、弾丸・火薬・銃・蒸気機関などを製造するため安徽省安慶に安慶内軍械所を1861年に設置した。この安慶内軍械所は、西洋からの技術移転なしに設立された最初の軍事工場で、砲弾や蒸気機関などを作り太平天国軍との戦争を支えた。太平天国の乱の鎮圧以降も、武器製造廠や造船廠を自前で整備する動きは各地で続き、李鴻章が上海に作った江南製造局(1865年)および南京に作った金陵機器製造局、左宗棠・沈葆楨らが福州に作った福州船政局(1866年)などがある。

 曾国藩は人材の育成にも力を注いだ。1862年、恭親王奕訢の建議により、外国語ができる人材の育成を目的として京師同文館が設立された。成立当初は教授を外国人宣教師たちに依頼していたが、曾国藩は徐々に優秀な中国人の登用を図り配下にあった数学者で翻訳家の李善蘭をこの同文館の教授として推薦している。同文館では教育の他、翻訳作業も行い、1873年には出版会を開いた。これは中国で最も早い大学出版会であり、李善蘭らが中心となり数多くの本を翻訳して出版した。京師同文館は1900年に義和団の乱で閉鎖され、1902年に京師大学堂(現在の北京大学)に吸収された。

 洋務運動に対する曾国藩のもう一つの重要な貢献は、優れた子供達を米国に派遣することを決断したことであろう。曾国藩は、米国のイェール大学を卒業し米国からの武器調達に功績のあった容閎(ようこう)を登用して自らの顧問としていたが、容閎が提案した「幼童留美」と呼ばれた中国初めての海外留学生派遣政策に賛同し、配下の李鴻章と共に清朝政府に強く働きかけ、1872年から同事業を開始させた。この事業は4年で終わり、当初15年間を予定していた留学期間も短縮された。これらの子供達の一部から、後に中国の政界・産業界などで活躍するものも現れた。前回 取り上げた詹天佑(せんてんゆう)もその一人である。

 現代中国では、この洋務運動に対する見方は非常に厳しい。とりわけ日清戦争の黄海海戦や威海衛の戦いにおいて、洋務運動の華ともいうべき北洋艦隊が日本の連合艦隊に惨敗したことから、技術的な面のみを取り込んで旧弊な政治制度・軍制を守ろうとし、合理主義などの西欧流の近代思想を取り込むことに失敗したと評価される。ただ、洋務運動により軍事、工業、教育、通信などの整備が進み、中国の近代科学の礎の一部が構築されたことは紛れもない。

晩年

 太平天国の乱の平定に活躍し、洋務運動を主導した曾国藩であったが、晩年にはその栄光に陰りも見られた。1865年、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力である捻軍の討伐を命じられたが、成果を挙げられず1866年に李鴻章に交代させられている。また、1870年に天津で発生したキリスト教排撃運動(天津教案)の処理を任され、フランスなどと交渉の結果、賠償金の支払いと謝罪により戦争を回避したものの、朝廷と民衆はこの対処に不満を抱き、曾国藩の名声は大いに傷ついた。1872年、南京で散歩中に脳溢血となり、60歳で死去している。後日遺骸は湖南省の長沙に移送され、葬られた。

四耐四不訣

 従来中国では曾国藩の人気は高くない。洪秀全が太平天国を打ち立て異民族である満州族の帝国である清を滅ぼそうとしたのに、漢民族の出である曾国藩がこれを鎮圧したことにも由来すると言われている。しかし、すでに述べたとおり曾国藩の科学技術や高等教育での貢献は大きなものであった。

 何よりも大変優れた人格の持ち主であったと考えられ、その証左として曾国藩が座右の銘としたと言われている「四耐四不訣」を紹介したい。四耐四不訣とは、「耐冷、耐苦、耐煩、耐閑、不激、不躁、不競、不随、以成事」であり、「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁がず、競わず、随わず、以て大事を成すべし」と読み下すものである。「訣」という語は、秘伝や秘訣などを意味する。

参考資料

  • ・叢小榕『太平天国を討った文臣 曾国藩(日本語)』総合法令、2000年
  • ・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター『中国近代の巨人とその著作―曾国藩、蒋介石、毛沢東(京大人文研漢籍セミナー)』研文出版、2019年