林幸秀の中国科学技術群像
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【21-07】【近代編6】李善蘭~清末の数学者・翻訳家

2021年04月01日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 前回 は清末の洋務運動を主導した曾国藩を取り上げたが、今回も清末の科学技術や高等教育に貢献した科学者に焦点を当てたい。アヘン戦争やアロー戦争さらには太平天国の乱を経て、衰えつつある清朝を復活させるための改革であった洋務運動において、数学を中心とした研究や欧米の書籍の翻訳で画期的な成果を挙げ、北京大学の前身である京師同文館で教鞭を取った李善蘭を、近代編の6回目として取り上げる。

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李善蘭

生い立ちと教育

 李善蘭(りぜんらん)は、前回取り上げた曾国藩と同じ1811年に、浙江省海寧(現在の嘉興市)に生まれた。李善蘭は、幼少期から読書好きであり私塾に通って勉強を始めた。

 9歳の時に、中国古代の算術の名著『九章算術』を父の本棚で発見し、数学に夢中になった。『九章算術』は紀元前に書かれ、その後色々な数学者が加筆修正して現在に伝わっている名著である。さらに14歳の時、独学で『幾何原本』全6巻を読破し、数学の造詣をさらに高めた。この『幾何原本』は、古代ギリシャのユークリッドが編纂した『ストイケア:原論』前半部を、明代の科学者徐光啓とイエズス会の宣教師マテオリッチ(利瑪竇)が共同で1606年に漢訳したものである。

 青年となった李善蘭は、中央での活躍を夢見て浙江省の省都杭州に行き、清朝の官吏登用試験である科挙の地方試験・郷試を受けたが、残念ながら失敗してしまう。しかし、受験のために滞在した杭州で、李冶の『測円海鏡』や戴震の『勾股割円記』といった数学の古典を買い求め、数学の知識をさらに高めていった。その後、引き続き科挙に合格することを目指して同様の志を持つ故郷の仲間と共に漢詩などの勉学に励んでいたが、これに併せて数学的な素養も磨き、例えば比例の原理を用いて近くの山の高さを推定したり、夜間に星の観測などを行った。

墨海書館で翻訳に従事

 1840年にアヘン戦争が勃発すると、李善蘭は帝国主義的な西欧列強に激しく反発し、科学の力で中国を救済しようと決心した。その後、江蘇省や浙江省に在住していた在野の数学者と交流を開始して数学的な才能を強化し、35歳となった1846年に自らの数学の研究成果に基づき『方円闡幽』など3つの著作を刊行した。

 1852年に李善蘭は自らの研究成果を西洋人に評価してもらうため、上海にあって西欧の文献を翻訳出版していた墨海書館(The London Missionary Society Press)を訪問した。墨海書館は、1843年に英国の宣教師が上海で創立し、上海で一番早く活字印刷術を導入した現代的出版社で、1863年まで20年間活動していた。活版設備の印刷機は鉄製で、ベルトで結ばれた牛が別室にいて、動力源としていたという。当時墨海書館にいた英国人宣教師アレクサンダー・ワイリーと会って自らの数学的著作を見せたところ、ワイリーはこれらの著作を高く評価し、その上で同書館で働くことを強く勧めた。

 このワイリーの勧めに同意した李善蘭は、その後渤海書館に住み、ワイリーと共同でユークリッドの『ストイケア:原論』後半部を『幾何原本』9巻に漢訳したのを手始めに、『代数学』13巻、『代微積拾級』18巻、『植物学』8巻などを翻訳した。また李善蘭は、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理:プリンキピア』の翻訳にも挑んだが、残念ながら達成できなかった。

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『幾何原本』第七巻之首に「英国 偉烈亜力(アレクサンダー・ワイリー) 口訳 海寧(浙江省嘉興市海寧州) 李善蘭筆受(翻訳)」とある。
出典:『幾何原本』第七巻(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)

京師同文館へ

 1862年、李善蘭は前回取り上げた曾国藩の幕に入り、科学顧問的な役割を果たすと共に同じ曾国藩の幕にあった化学者の徐寿(じょじゅ)らと交流を持った。曾国藩は、李善蘭の求めに応じてユークリッド幾何学の翻訳本『幾何原本』の出版費用を援助している。

 北京では洋務運動主導者の一人である恭親王奕訢(えききん)の建議により、外国語ができる人材の育成を目的として京師同文館が1862年に設立された。同文館では、教師の中心は外国人の宣教師たちであった。その後、天文演算学館(天文数学科)の増設に合わせ、上海や南京で活躍していた李善蘭を招聘することとなり、李善蘭は1868年に北京に赴いて京師同文館の教師となった。以降、約15年間にわたって京師同文館で数学の教鞭を取り、育てた科学者・数学者は約百人余りに達し、その後の中国の近代科学、特に数学の知識を広める上で重要な役割を果たした。なお京師同文館は、1900年に義和団の乱で閉鎖され、1902年に京師大学堂(現在の北京大学)に吸収された。

晩年

 李善蘭が京師同文館で教鞭を取っていた1868年から1882年までの間は、外国の侵略や内部の反乱が続いた清末では、まれに見る平和な時代であった。とりわけ、西太后を母とする同治帝(在位期間1861年~1875年)の時代は、アロー戦争の敗北、太平天国や捻軍の反乱の鎮定の後で、比較的安定が続いた時期であった。この間、同治帝の母親である西太后が実権を握り、李鴻章などの漢人官僚が活躍した時代であり、同治の中興と呼ばれている。李善蘭は、1882年に71歳で北京で死去した。 

数学の業績

 李善蘭の数学研究の業績としては、円錐曲線論、等差級数、素数論の3つが有名である。

 李善蘭は翻訳にあたって多くの数学に関する名詞を発明した。「代数」、「変数」、「函数」、「係数」、「微分」、「相似」などで、李善蘭の多くの訳書が日本に持ち込まれたことにより、これらの用語は現在でも日本で使われている。また、現在でも使用されている数学記号の=、×、÷、<、>は、李善蘭が最初に訳書に使用している。数学以外にも「植物」などの訳語を創作している。

参考文献

  • ・楊自強『李善蘭:改變近代中國的科學家』新銳文創、2017年