林幸秀の中国科学技術群像
トップ  > コラム&リポート 林幸秀の中国科学技術群像 >  【21-12】【現代編8】王澍~中国初のプリツカー賞受賞者

【21-12】【現代編8】王澍~中国初のプリツカー賞受賞者

2021年05月20日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は現役で活躍する建築家で、中国人として初めて建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞した王澍(おうじゅ)を取り上げたい。

image

王澍

ノーベル賞の対象ではない分野

 科学技術で最も栄誉ある賞がノーベル賞であることは万人の認めるところであるが、残念なことにノーベル賞は対象分野が物理、化学、生理学・医学の3分野と比較的限られており、カバーされない分野も多い。このため、ノーベル賞の対象とならないいくつかの分野で、「〇○のノーベル賞」と呼ばれる賞が存在している。有名な例では、アルフレッド・ノーベルの恋敵が数学者であったため対象分野とならなかった数学では、フィールズ賞がその代わりと言われている。また、農業技術関係のノーベル賞としては、このコーナーで取り上げた袁隆平 が受賞したウルフ賞がある。科学技術者数で最も多い工学も同様にノーベル賞の対象ではない分野であったが、近年ノーベル賞選考委員会は計測・材料などの工学的な研究を既存分野の受賞対象に含めたことで、工学系の研究者も選定されるようになってきている。

建築分野のノーベル賞・ブリツカー賞

 建築分野もノーベル賞には含まれておらず、米国のハイアット財団が授与しているプリツカー賞が建築界のノーベル賞と言われている。日本人では、1987年に丹下健三が受賞したのを初めとして、安藤忠雄、磯崎新などが受賞している。中国人関連では、広州に生まれ米国籍となった中国系米国人のイオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei、貝聿銘)が1983年に受賞している。今回取り上げる王澍は、現在のところ中国人ただ一人のプリツカー賞受賞者で、2012年に受賞している。イオ・ミン・ペイは、このコーナーで別途取り上げたい。

生い立ちと教育

 王澍は、1963年に中国の西端に位置する新疆ウイグル自治区の首府ウルムチに生まれた。ウルムチは元々シルクロードの要衝であるが、近年は原油採掘に係わる産業などの発展で人口約350万人の大都会となっている。王澍の家庭は、父が音楽家、母が教師であった。王澍の幼少期は文化大革命の時代と重なるが、反知識人的な文化大革命の雰囲気を恐れた母は王澍に図書館にできるだけ留まるように勧め、王澍はそこでプーシキンや魯迅などの読書に没頭した。

 陝西省西安にある高校を卒業し、1981年に江蘇省南京の南京工学院(現東南大学)建築科に進学する。本人は幼少から絵を描くのが好きであったが、一方で両親が技術者になるよう進めたため、一種の妥協案として建築科を選んだ。

 1985年に同校を卒業して大学院に進み、1987年に「死屋手記」と題する論文により修士号取得を目指したが、学位委員会で拒絶された。論文が当時の中国建築学界を痛烈に批判したものであり、学位委員会での審査員の質問に十分対応が出来なかったと判断されたためである。翌年には学位委員会でしっかりと対応することが出来、漸く修士号を取得した。

浙江美術学院に勤務

 修士号を取得した王澍は、1988年から浙江省杭州市の浙江美術学院(現中国美術学院)に勤務し、古い建築の改修や、環境と建築の関係についての研究を行った。この美術学院は1928年に設立された国立芸術院が前身であり、北京にある中央美術学院とともに中国における美術系の大学の双璧と言われている。2000年には、それまでの研究成果を上海の同済大学に提出して博士号を取得し、中国美術学院の建築芸術学院(日本の学部に相当)の教授となった。2007年には建築芸術学院の院長(学部長)となり、現在に至っている。

妻である陸文宇と建築事務所を設立

 建築家としての最初の作品は、1990年に浙江省の海寧市に作った青少年センターであるが、その後博士論文作成のための研究に時間を取られ、活動を中断していた。1997年に、王澍は夫人・陸文宇とともに、「業余建築工作室」と名付けた建築事務所を設立し、建築家としての活動を再開した。陸文宇は王澍の4歳年下で、同じ南京工学院出身であり、また中国美術学院の教授であることも同様である。夫妻の建築事務所名の「業余」はアマチュアを意味しており、従来の建築家の設計にはプロではあるが心がないものが多いという批判的な立場からこの名前にしたと言われている。

国際的な評価を得る

 王澍夫妻は建築事務所を設立後、国内外で活発な設計活動を行い、徐々に評価を高めていく。2000年に江蘇省の蘇州大学図書館を設計し、2004年の中国建築芸術賞を受賞した。2005年に作った「寧波五散房」は、同年にスイスのホルシム財団から持続可能性の高い建築に贈られる賞(Holcim Award for Sustainable Construction in the Asia Pacific)を得た。また杭州に作った住宅「垂直院宅-銭江時代高層住宅群」は、2008年にドイツの国際高層建築賞(International High Rise Award)にノミネートされた。

image

寧波五散房の建築物のうちのひとつである画廊

 さらに2010年に王澍夫妻は、ドイツのエーリッヒ・シェリング建築賞(Schelling Architecture Prize)を受賞、2011年にはフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞している。

プリツカー賞の受賞

 そして、王澍は2012年にプリツカー賞を受賞することとなるが、当時王澍は48歳であり、過去の受賞者でも4番目の若さであった。プリツカー賞の審査員は、王澍の「歴史に直接言及することなく過去を喚起するというユニークな能力」を強調し、その作品を「時代を超越し、その文脈に深く根ざし、しかも普遍的」とし、「建築の理想の発展において、中国が演ずる役割を認める上で重要な一歩」と述べている。

 このプリツカー賞の授賞式は2012年5月に北京の人民大会堂で行われ、李克強国務院副総理(当時、現総理)らの陪席の下、プリツカー・ハイアット財団理事長より王澍に同賞が授与された。

 王澍と陸文宇の二人は現役の建築家として、中国本土を中心に引き続き建築設計活動を行っている。

参考資料