林幸秀の中国科学技術群像
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【21-15】【近代編10】蘇歩青~日本との関係が深い中国の「数学王」

2021年06月18日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 中国のこれまでの科学者・研究者には日本との深いつながりを有した人も数多く、その代表的な例がすでにこのコーナーで取り上げた郭沫若 である。今回取り上げる蘇歩青も、日本に留学し日本人女性と結婚しその子息の一人が現在も日本で活躍しているという、日本との関係が極めて深い数学者である。蘇歩青は、微分幾何学などで業績を残し上海の名門復旦大学などで多くの優秀な弟子を育てたことにより、中国の「数学王」と呼ばれる。

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復旦大学に設置されている蘇歩青像

生い立ち

 蘇歩青は、1902年、浙江省の温州市平陽に生まれた。辛亥革命による清朝の滅亡の10年ほど前である。生家は山間部に位置する農家であり、土地を耕すとともに牛・豚などの畜産も行っていた。

 貧しかったが、両親は食べ物を節約して蘇歩青の学費を捻出した。両親の愛情に助けられて、蘇歩青は地元の小学校や中学校を優秀な成績で卒業した。1919年、17歳となった蘇歩青は通っていた中学校の校長の援助を得て、日本に留学することになった。

日本への留学

 日本に到着し、一か月程度の日本語学習を経て、1920年に東京高等工業学校の電気科に入学した。東京高等工業学校は、1881年に台東区蔵前に設立された東京職工学校が前身であり、1929年に東京工業大学(旧制)となった。在学中の1923年9月には関東大震災に遭遇し、書籍や衣類などを失ったものの、かろうじて生き延びている。蘇歩青は1924年に同校を卒業し、仙台の東北帝国大学理学部数学科に進学した。

 仙台では、茅誠司元東京大学総長と同じ下宿であった。茅誠司博士は蘇歩青の4つ年上の1898年生まれで、蘇歩青が東北帝大に入学する前年の1923年に物理学科を卒業し、同大学附属金属材料研究所所長であった本多光太郎に師事していた。この茅博士との交流は、戦後まで続いている。

 東北帝大の数学科では窪田忠彦教授に師事し、微分幾何学を専攻した。1927年に同大学を卒業し、附属臨時教員養成所の講師になった。外国人留学生が帝大の先生になるということで、当時でも大変珍しいこととして新聞でも報道された。1929年には仙台出身の松本米子と結婚した。1931年、蘇歩青は東北帝大から理学博士を取得した。東北帝大に留学した外国人としては、後述する陳建功に続く2番目の理学博士所得者であった。

帰国して浙江大学の数学科教授

 博士号を取得した蘇歩青は、同年1931年に夫人を同伴のうえ中国に帰国し、浙江省杭州の浙江大学数学科の教授となった。12年ぶりの帰国であった。浙江大学は、1897年に創立された求是書院を前身とし、1928年に国立浙江大学となっている。現在、北京大学や清華大学と並ぶ有力大学である。

 蘇歩青に浙江大学への道を開いたのは、やはり東北帝大数学科を卒業した陳建功である。陳建功は東北帝大で藤原松三郎教授に師事して三角級数論を研究し、1929年に蘇歩青に先んじて博士号を取得した後、中国に帰国して浙江大学に奉職していた。

日本軍の侵略で疎開を余儀なくされる

 1937年7月に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発すると、浙江大学がある杭州に日本軍の侵略が想定されたため、同大学は日本軍の侵略を避けて大陸の西に移動することとなった。しかし、日本軍の侵略は想定以上のスピードで、同年11月には上海が、12月には南京が陥落した。このため浙江大学は、当初浙江省内の山間部で難を逃れようとしたがかなわず、年末には江西省南昌市吉安に、翌1938年7月にはさらに西に位置する広西チワン族自治区の宜山(現在の河池市)に、1939年12月には貴州省遵義市に移動している。この間、蘇歩青は、大学の幹部の一人として、教職員や学生、その家族などを引率すると共に、教材や実験道具、家財道具などを運ぶという苦難に遭遇している。この間の逃避行の全距離は約2,500キロメートルに及んだと言われており、日本列島の長さ約3,000キロメートルにほぼ匹敵する想像を絶する距離である。

院系調整で復旦大学へ

 日本の敗戦に伴い日本軍は撤収し、浙江大学は1946年9月に漸く元の浙江省杭州に戻った。蘇歩青も貴州省の遵義から杭州に戻り、落ち着いて教育研究を続行した。新中国建国後の1952年に、ソ連の教育体制を参考とした院系調整(大学・学部・学科の再編)政策が中国全土の大学で実施され、浙江大学の数学科は上海の復旦大学に統合されたため、蘇歩青も復旦大学に移った。

 復旦大学では、数学の研究を続行するとともに、大学の運営にも携わり、1953年に教務長、1956年に副学長、1958年に数学研究所所長となった。文化大革命の際には、共産党の最高幹部から保護するように指示が出ていたが、それでも1972年には上海の造船所で下放を経験している。文化大革命の終了後の1978年に、蘇歩青は復旦大学の学長に就任した。

蘇学派の形成

 蘇歩青の数学の識見は、日中戦争中の1942年にたまたま貴州省に疎開中の浙江大学を訪問した英国ケンブリッジ大学教授を唸らせるほど高い数学研究のレベルを有しており、新中国になってからも、1955年7月に設置された中国科学院数学物理学部の最初の学部委員(現在の院士)に選ばれている。このような高い数学的な識見と優れた教育能力により、蘇歩青は浙江大学や復旦大学で多くの優れた弟子を育成し、彼らとともに中国数学界の有力グループである蘇学派を形成した。

晩年

 復旦大学学長就任から5年後の1983年、81歳となった蘇歩青は学長を退任し名誉学長に就任した。その後、いくつかの名誉職的な地位に就いた後、2003年に病を得て、上海で亡くなっている。100歳の大往生であった。

家族

 蘇歩青の夫人は、すでに述べたように仙台出身の日本人女性の松本米子である。日中戦争が勃発した頃に、日本にいた岳父の危篤の報がもたらされ、蘇歩青は夫人に帰国の意思を確認したところ、夫人は帰国せず蘇歩青と生涯をともにすると明確に答えたという。蘇歩青夫妻は極めて仲睦まじい夫婦として知られており、2人の間には11人の子供が生まれたが、このうちの1人は幼児の段階で日本軍の侵攻を受けての逃避行で亡くなっている。その後1986年に、夫人は86歳でこの世を去っている。子息の1人は、長い間奈良大学で教鞭を執った蘇徳昌名誉教授である。

参考資料