林幸秀の中国科学技術群像
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【20-03】【近代編2】郭沫若~中国科学院初代院長

2020年12月25日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト

<学歴>

昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構 
            研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
            中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)

 今回取り上げるのは、中国の科学技術の総本山である中国科学院の初代院長であり、文人の郭沫若である。郭沫若は、日本に留学し日本人女性と結婚したこと、日中国交回復に尽力したことなどから日本との関係も深い。

生い立ちと教育

 郭沫若は清朝末期の1892年に、中国大陸西部でチベットに近い四川省楽山に生まれた。楽山は、四川省の中心地である成都から約120キロメートル南に位置しており、楽山大仏が有名である。楽山大仏は、長江の支流である岷江、大渡河、青衣江の3つの河が合流する地点に掘削された弥勒菩薩を象った石仏で、高さが約71メートルと東大寺の大仏の5倍の大きさがある。現在、近隣にあって杜甫の詩で有名な峨眉山とともに、ユネスコ世界遺産に登録されている。郭沫若の本名は郭開貞であるが、楽山大仏のある大渡河と青衣江の古称(沫水と若水)をとって自分の号(ペンネーム)とした。

 郭沫若は商業を営む父と清朝元官吏の娘である母の八男として生まれ、教育熱心な母親の影響もあって、物心のつかない頃から漢詩の手ほどきを受けた。その後、故郷の楽山や成都で初等中等教育を受け、22歳となった1914年に日本に留学した。辛亥革命が起こり清朝が滅亡した3年後である。

 日本では、東京で日本語の習得に努めた後、翌1915年に岡山にあった第六高等学校に入学し、3年後の1918年に同校を卒業して九州帝国大学医学部に入学した。九州帝国大学医学部での解剖実習がきっかけとなり、文学への創作意欲を高めた郭沫若は、中国人留学生仲間や中国本土の文人等と交流を進め、1922年8月、処女詩集『女神』を発表した。『女神』はこの時期の中国における浪漫主義思潮の代表作というのが定評となっている。1923年には九州帝国大学を無事に卒業した。なお、第六高等学校時代に日本女性の佐藤をとみと結婚している。

文人にして革命家

 九州帝国大学を卒業して中国に帰国した郭沫若は、中国革命に身を投ずるも、蒋介石に追われることとなり、1928年に周恩来の助けを得て上海から日本に亡命した。日本では、千葉県市川市に居を構え、中国古代の甲骨文や金文の研究を始め、1930年に『中国古代社会研究』を刊行している。

 1937年、盧溝橋事件が勃発し日中戦争が開始されると、郭沫若は同居していた妻をとみや子供たちにも知らせず密かに中国に戻り抗日活動を開始した。郭沫若は文筆活動も継続しており、代表作となる戯曲『屈原』を完成させている。1945年に日本が敗戦となった後に開始された国共内戦時には、上海、香港、瀋陽などにあって、中国共産党擁護の立場からの文筆活動を行っている。

新中国建国後

 1949年の中華人民共和国建国時に郭沫若は、政務院(現在の国務院、日本の内閣に相当)副総理兼文化教育委員会主任(当時の文化教育大臣)及び中国科学院初代院長に就任した。さらに1950年に全国文学芸術連合会(中国文聯)主席、1954年には全人代常務副委員長、となった。

 1965年に文化大革命の序幕として、後に四人組の一人と呼ばれる姚文元が劇作家で郭沫若の友人でもあった呉晗北京市副市長を批判したことを受けて、翌1966年に郭沫若は「今日の基準で言えば、私が以前に書いた全てのものは厳格に言えば全て焼き尽くすべきで少しの価値も無い」とする自己批判を行った。自己批判の後に郭沫若を庇護したのは毛沢東であったが、文革派の追及は執拗であり、中国科学院の院長に留まったものの名目だけとなった。また、当時の妻(于立群)との間に出来た2人の息子を文革派の迫害と暴力により失った。

 文革終了時には病床にあったが、四人組逮捕を大いに喜び、鄧小平が力強く科学技術の振興を訴えた1978年1月の科学大会に病を押して出席し、「科学の春」が来たとのメッセージを代読させた。この「科学の春」は、文化大革命の混乱と破壊から回復し未来に向かって科学技術を推進していくためのスローガンとなり、以降の40年以上にわたる中国科学技術の急速な発展を支えることとなった。

 郭沫若は、1978年6月12日に北京で亡くなり、遺言により遺骨は山西省の大寨人民公社の棚田に散布された。

科学技術への貢献

 郭沫若は文人で歴史学者であり、その業績は現在でも優れたものと評価されている。

 科学技術振興の面で重要なのは、中国科学院の初代院長としての貢献であろう。清朝末期や辛亥革命後の国民政府の時代には動乱が続き、個々の優れた人たちにより科学技術の活動は行われたものの、国として組織的な形の活動は少なかった。その中で国民政府時代に設立された中央研究院(1928年)や北平研究院(1929年)は例外であり、徐々に体制を整えて近代的な科学技術を実践しようとしていたが、日中戦争や国共内戦により充分な活動は出来ていなかった。新中国建国となって真っ先に設立されたのが中国科学院であり、近代的な科学技術の推進の原動力となっていった。

 郭沫若は、副総理を兼務する形で初代院長となり、中国科学院の充実強化に意を注いだ。文化大革命が発生して実権が剥奪されたのが1966年であるため、実質的に院長として指揮したのは1949年から約17年間で、この間に現代中国の科学技術の総本山である中国科学院の基礎を築いている。

 一つ目は、研究開発の実施体制の充実である。中央研究院などの遺産を引き継ぎ、国外に散らばっていた優れた研究者を呼び戻すことにより、設立10年後の1960年末には111の附属機関と5.8万人のスタッフを擁するに至っている。当時は現在の中国社会科学院で実施している社会科学・人文科学の研究も含まれており、また予算規模はかなり小さなものであったものの、現在の中国科学院の規模と遜色ないところまで来ていた。

 二つ目は、教育機関としての役割の強化である。当時既に、北京大学や清華大学などの大学は存在していたが、建国後の経済発展を進めるための技術者不足が顕在化したこともあり、中国科学院のポテンシャルを活かした独自の大学建設を目指し、1958年に中国科学技術大学を中国科学院の傘下に設立している。初代の学長は郭沫若自らが兼務した。

 三つ目は、現在の院士制度につながる学部制度の創設である。これは旧ソ連、フランス、英国などの科学アカデミーを範とするもので、優れた業績を挙げた科学者を顕彰するものである。

日本との関係

 郭沫若と日本との関係は、大変深いものがある。留学や亡命などで日本に長く住み、日本人女性と結婚している。

 郭沫若は、日本に留学する前に両親が決めた女性と名目上の結婚をしているが、ほとんど同居せず日本への留学の際も同行していない。留学中の東京で宮城県出身の佐藤をとみと知り合い、第六高等学校の学生だった1916年の冬に、家族の反対を押し切って結婚している。九州大学卒業後の1923年、郭沫若とをとみは上海に移り住んだが、蒋介石と対立し指名手配の身となって家族で日本に亡命し、千葉県の市川市に住んだ。盧溝橋事件の後1937年に、郭沫若は家族をおいて単身中国に帰国し、をとみにとって消息不明となる。

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千葉県市川市に保存されている郭沫若一家の旧宅(筆者撮影)

 第二次大戦後、郭沫若は香港で文筆活動を開始するが、そのことによりをとみは夫の消息を知ることになり、子供たちを連れて中国に渡った。ところが、郭沫若は舞台俳優であった于立群と1939年に結婚しており、2人の間には子供もあったことから、をとみは同居を断念し子供たち5人を中国人として育てることとして、遼寧省の大連に住んだ。その際、名前も中国風に郭安娜と変えている。2人の間には息子が4人(郭和夫、郭博、郭福生、郭志宏)と娘1人(郭淑禹)があった。郭淑禹の娘は日本へ留学して郭沫若研究家となった藤田梨那さんであり、現在、国士舘大学教授である。

松村謙三先生と日中国交回復へ努力する

 もう一つ日本との関係を挙げたい。郭沫若は1963年に中日友好協会名誉会長に就任し、国交のなかった日本との関係修復に努力することになった。日本側で国交回復に努力した一人が、松村謙三元文部大臣・衆議院議員である。松村謙三は戦争前ほとんど中国には縁が無かったが、戦後の1959年に周恩来首相の招きにより第1回目の訪中を果たし、その後全体で5度にわたって訪中し、郭沫若らと共に覚書貿易促進などにより国交回復を目指したが、残念ながら国交回復前年の1971年に亡くなっている。郭沫若は松村謙三の死を大いに悲しみ、その功績と徳を偲んだ書を贈っている。

 松村先生は私の生まれ故郷(富山県福光町)の大先輩であり、亡くなる前に一度だけお会いしたことがある。今回千葉県市川市の郭沫若旧邸を訪れて、郭沫若とのツーショットの写真を見た際に、思わず胸が熱くなったことを記しておきたい。

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郭沫若と日中国交回復に尽力した松村謙三(筆者撮影)

参考資料

  • ・劉徳有『随行記郭沫若・日本の旅』サイマル出版会 1992年
  • ・藤田梨那『詩人郭沫若と日本』武蔵野書院 2017年
  • ・郭沫若 (著)、大高順雄、武継平、藤田梨那 (訳)『桜花書簡~中国人留学生が見た大正時代』東京図書出版会 2005年