林幸秀の中国科学技術群像
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【21-20】【近代編14】聶栄臻~両弾一星を指揮し、科学技術政策の基礎を築く

2021年08月23日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、日中戦争や国共内戦時に軍人として活躍し、新中国建国後は政治家として科学技術の発展に尽力した聶栄臻(じょうえいしん)を取り上げる。日本では聶栄臻は余り知られていないが、中国の十大元帥の一人であり、科学技術の関係者には両弾一星政策を実務的に指導し、中国の科学技術政策の礎を築いた人物として有名である。

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聶栄臻

生い立ちと教育

 聶栄臻は、清朝末期の1899年に四川省江津(現在の重慶市江津区)の農民の子として生まれた。聶栄臻は7歳から私塾に、さらに11歳から近くの学堂に通い、1917年に地元江津の中学校(日本の高校に該当)に入学した。在学中の1919年に北京で五・四運動が発生した際、聶栄臻は日本政府の横暴に激しく憤り、この運動に共鳴する学生愛国闘争に参加した。

 同年末フランスに渡り、「勤工倹学」という制度により働きながら学校に通った。その後1922年にベルギーの大学に移り化学を学び、さらに1924年にモスクワに移りソ連の赤軍学校で軍事教育を受けた後、1925年に帰国した。その間の1923年に中国共産党に入党している。

軍人としての功績

 帰国した聶栄臻は、孫文が広州に設立した黄埔軍官学校の教官となったが、同校の校長であった蒋介石と対立することになり、以降中国共産党の中国工農紅軍(紅軍、現在の人民解放軍の前身)に所属し、北洋軍閥や国民党軍と戦った。

 1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争が始まると、国民党と中国共産党は一致して日本軍に対抗することとなり、聶栄臻は紅軍が国民党軍に編入された八路軍の将校として戦った。対日戦争勝利後に再び国共内戦となり、聶栄臻は八路軍などが再編された人民解放軍の将校として再び国民党軍と戦い、人民解放軍の勝利に貢献した。

新中国建国以降

 聶栄臻は、中華人民共和国建国の直前である1949年6月に人民解放軍の副総参謀長に任命され、さらに1950年に徐向前・総参謀長が病気休養となったため総参謀長代理となった。しかし、聶栄臻も激務のため病気となり、1953年に総参謀長代理を辞任している。

 これ以降、聶栄臻は人民解放軍での軍務を離れ、人民解放軍を指導する立場にある共産党中央軍事委員会の幹部職を歴任すると共に、政治家として軍事技術開発や科学技術全般の政策立案に尽力していくことになる。

両弾一星政策実施の指揮を執る

 聶栄臻は、1954年に軍事委員会の副主席として、軍の装備についての指揮を執ることとなる。1955年聶栄臻は、陳雲、薄一波とともに原子力開発に関わる三人組の一人に任命され、三名で議論を重ねた末、両弾(原水爆とミサイル)研究についての意見を共産党中央に対して1956年に提出した。同年国務院副総理となった聶栄臻は、翌1957年自らが団長とする調査団を組織し、ソ連に赴いた。同調査団にはこのコーナーで取り上げた 銭学森 も団員の一人として参加している。同調査団はソ連側と交渉を重ね、ソ連との間で中ソ国防新技術協定を締結した。これにより中国の両弾開発は大きく前進することとなった。さらに1958年には、新たに設置された国防科学技術委員会の主任となり、これまでの両弾に人工衛星の開発を加えた「両弾一星政策」を先導していった。

 しかし、フルシチョフのスターリン批判を受けて中ソ対立が始まり、ソ連の両弾一星政策への協力が徐々に縮小され、1960年には完全に停止されて派遣されていた技術者も帰国してしまった。この状況にあっても聶栄臻は、中国独力で両弾一星政策を完遂すべきであるとの意見書を毛沢東と周恩来に提出し、二人の同意を得て両弾一星政策を続行した。

 このような努力の結果、1964年に、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが、新疆ウイグル自治区の酒泉衛星発射センターから打ち上げられ、核実験とミサイルの打ち上げは無事に成功した。

長期的な科学技術政策の礎を築く

 聶栄臻は、両弾一星政策を推し進めるとともに、現在にも通じる科学技術政策全般の礎を築いている。両弾一星政策を進めるためには、原子力や宇宙に関する理論的な研究やその研究開発を支える人材育成が重要と考え、当時共産党と国務院で策定されていた「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」に積極的に関与した。同計画は全国の600人以上の科学者の参画を得て策定され、1956年に公表された。

 その直後に国務院副総理となった聶栄臻は、党と国務院で科学技術政策を担当することとなり、科学計画委員会と国家技術委員会を統合して1958年に国務院に設置された国家科学技術委員会の主任に任命された。この国家科学技術委員会は、その後科学技術部(科学技術省)と名称を変更し、現在の中国科学技術政策の司令塔となっている。

晩年

 聶栄臻は1955年に元帥となり最高位の勲章も授与されたが、それでも文革時には迫害を免れ得なかった。文革初期の1967年に開かれた共産党の幹部会合において、聶栄臻は葉剣英・陳毅らとともに林彪・江青らと激しく対立したが、毛沢東はこれら軍長老に激怒したため、林彪らは軍長老らの言動を反革命行動であるとして「二月逆流」とレッテルを貼り、これら軍長老への迫害を指示した。毛沢東はその後林彪と距離を置いたため、1969年以降は聶栄臻ら軍長老への迫害も徐々に収まっていったが、江青ら四人組とは最後まで対立を続けた。

 1976年に毛沢東が亡くなった直後に、軍長老の一人である葉剣英が中心となり四人組を逮捕し、文革が漸く終息した。聶栄臻は80歳に近い年齢となっていたが、文革時代の汚名を雪いで中央軍事委員会の副主席に復活した。その後いくつかの名誉職を務めた後、1987年に完全に引退し、1992年北京で心不全で死去した。享年92歳であり、中国十大元帥の最後の死であった。

日本との関わり

 最後に、聶栄臻は軍人として日本軍と戦ったことはすでに述べたが、その際のエピソードを紹介したい。

 1940年、聶栄臻率いる八路軍は、石炭の積み出し駅で河北省にあった南満州鉄道の井陘(せいけい)炭鉱駅を攻撃した。戦闘の結果日本軍は敗退し、駅舎も火災となった。ところがその燃えさかっている駅舎に幼女二名が取り残されているのを人民解放軍の兵士が発見し、無事保護した。二人は、同駅副駅長の子供で栫(かこい)美穂子(当時4歳)と琉美子(当時1歳)であり、両親は戦闘で亡くなっていた。聶栄臻は姉妹を手厚く世話し、その後直筆の手紙とともに日本軍に送り届けた。残念ながら、妹の琉美子は日本軍に引き渡された後に亡くなったが、姉の美穂子はふるさとである宮崎県都城市に無事に戻った。

 40年後の1980年に栫美穂子は中国に招待され、北京で聶栄臻と再会した。これが縁となり、栫姉妹の故郷である宮崎県都城市と聶栄臻の故郷である重慶市江津区は1999年に友好交流都市になった。

参考資料