【20-01】【近代編1】銭学森~中国の宇宙開発の父
2020年12月15日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト
<学歴>
昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構
研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)
はじめに
現在の中国における科学技術の進展には目を見張るものがある。今世紀初頭からの爆発的な経済発展を受けて科学技術活動は質量共に大きく拡大し、長い間独走を続けてきた米国の背中が見える位置まで近づいてきている。この科学技術の発展は、鄧小平最高指導者が主導し現在も継続している改革開放路線によるところが大きいが、広範な中国人民が科学技術の振興にたゆまぬ努力を重ねてきたことも重要である。
このコーナーでは、清朝末期のアヘン戦争から現在までの歴史の中で、中国の近代科学技術の基盤を構築し発展させてきた科学者や技術者、さらにはそれを支えた指導者や教育者に焦点を当て、その人となりやエピソードを紹介することにより、中国の現在の科学技術を形作るファクターに迫ってみたいと考えている。既に亡くなっている歴史上の人物(近代編として扱う)と、存命中で現役として活躍している人物(現代編として扱う)に分け、できるだけ交互に紹介していくこととしたい。
銭学森~中国の宇宙開発の父
中国に生まれた者であれば、科学に疎くても銭学森の名を知らないものはそれほどいない。日本人でいえば、初めてのノーベル賞受賞に輝いた湯川秀樹博士のような存在であり、中国の宇宙開発の父、ロケット開発の父と呼ばれている。近代編の一回目は、この銭学森博士を取り上げる。以下敬称を略する。
銭学森
日本で学んだ父・銭均夫
銭学森が生まれた銭家は、元々浙江省杭州の名家で十世紀の呉越国の王が祖先という。父親の銭均夫は、現在の浙江大学の前身である求是書院を経て、1904年に魯迅らとともに日本に留学し、筑波大学の前身である東京高等師範学校に入学した。同校で教育学を学び1908年に卒業し、1910年に中国に帰国して孫文の主導する革命運動に身を投じた。辛亥革命の成功後は、中学校校長や浙江省の教育長などを歴任している。
米国への留学
銭学森は、孫文の指導により清朝が倒れた辛亥革命の年である1911年に上海で生まれ、北京師範大学附属中学を経て、1929年に鉄道部(部は日本の省に該当)が所管していた交通大学上海学校の機械学科に入り、1934年に卒業した。交通大学は、その後上海交通大学と西安交通大学に分かれ、所管も鉄道部から教育部に変わっている。交通大学を卒業した銭学森は、清華大学が募集した庚款留美学生(公費米国留学生)試験に合格し、1935年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の航空学科に入学した。一年後に同大学から修士号を取得し、今度はカリフォルニア工科大学(Caltech)に移り、セオドア・フォン・カルマン教授に師事した。カルマン教授はハンガリー出身のユダヤ系米国人で、現在でもカルマン渦で名を残す航空工学の著名な研究者であり、後にNASAのジェット推進研究所(JPL)の初代所長を務めている。銭学森は、このカルマン教授の下で数学と航空工学の博士号を取得し、1943年にCaltech助教授、1947年に教授となった。
米国での監禁生活と釈放
1949年10月、新中国建国の報を聞いた銭学森は家族で帰国しようとしたところ、当時全米を揺るがしていたマッカーシー上院議員をリーダーとする赤狩り運動に巻き込まれた。銭学森は、軍事機密研究関与を防止するとの理由で研究室への入室証明書を取り消されたうえ、帰国のために乗船しようと港に到着したところをスパイ容疑で米国海軍に拘束された。Caltech当局が巨額な保証金を支払ったことにより銭学森は2週間後に釈放されたが、その後は研究活動も思いどおりに出来ず、一種の軟禁状態に置かれた。
1954年4月、米国・ソ連・英国・フランスなどが参加して朝鮮問題・インドシナ問題に関する国際会議がジュネーブで開催され、中国からは周恩来首相らが参加した。周首相はこの機会を捉えて、米国で拘束されている銭学森を含む中国人研究者らの釈放交渉を事務方に指示した。ジュネーブ会議の際には合意に達しなかったが、その後も粘り強く交渉を続け、翌1955年に朝鮮戦争で捕虜とした米空軍のパイロット11名の釈放を交換条件とすることで米側と合意した。
ミサイルやロケット開発を陣頭指揮
銭学森は妻と幼い息子と娘を同行して汽船に乗り込み、1955年10月に漸く祖国に帰った。
銭学森の帰国を待ち望んでいたのは、釈放交渉に当たった周恩来首相ら共産党と政府の幹部だった。当時の中国の最大の懸案は、両弾一星政策の実現であった。原水爆とミサイルの両弾、人工衛星の一星を技術的に完成してこそ中国の安全保障が保たれ、また第二次世界大戦の戦勝国としての地位が確立されるとの考え方から、両弾一星政策が進められてきた。帰国後の1956年に銭学森は、ミサイル開発を進めるため国防部に設置された第五研究院の初代院長となり、ミサイル開発の陣頭指揮を執った。また同年、中国科学院に設置された力学研究所の初代所長を兼務し、基礎的・理論的な研究や人材育成にも力を注いだ。
銭学森が帰国した頃から中ソ対立が始まり、ソ連からの技術援助が中断されたが、銭学森らはこれにひるむことなく自前の技術開発を進め、1964年10月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが酒泉衛星発射センターより打ち上げられ、20キロトンの核弾頭が新疆ウイグル自治区ロプノール上空で爆発した。これによって、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。
さらに銭学森らは、両弾一星の一星、つまり人工衛星の開発を目指した。人工衛星の打ち上げは、1957年のソ連によるスプートニク1号が人類初であり、以降、米国、フランス、日本と続いていた。銭学森らは、ソ連からの技術をベースとして独自開発を加えたミサイル技術を発展させ、1970年4月に長征1号ロケットによる東方紅1号の打ち上げに成功し、これにより両弾一星は完成した。
晩年は、中国人民政治協商会議全国委員会副主席や中国科学技術協会主任などを務めた後、2009年に98歳で北京において逝去している。
謙虚な人柄
銭学森は、強い愛国心と謙虚な人柄で多くの中国人に尊敬されている。「外国人にできることは中国人にもできる」と述べた言葉が、中国人に愛国心や自負心を与えた。また、自分への賞嘆に対しては、「私は滄海一粟(蘇軾の詩に由来し、滄海は大海、一粟は一粒の粟のことで、比較にならないほど小さいことの比喩)に過ぎない」と述べたという。
日本人の血を引く蒋英夫人
米国の軟禁生活でも苦楽をともにした夫人蒋英は声楽家であり、日本人の母を持つハーフである。蒋英夫人の父は蒋百里で、清朝末期の英才として1901年日本陸軍士官学校に留学し、帰国後、保定陸軍士官学校校長などを務めている。蒋百里校長が病気となった際、日本の領事館から看護婦として派遣されたのが、後に妻となる佐藤屋子(中国名は蒋左梅)である。1919年生まれの蒋英夫人はこの夫婦の三女であり、1936年に父に従って欧州のイタリア、オーストリアなどをめぐり、1937年にベルリン音楽大学に入学、1941年に卒業した。第二次大戦終了後の1947年に銭学森と上海で挙式し、以降米国に住んだ。数年間の軟禁生活を夫とともに過ごし、中国に帰国した後は、中央音楽学院声楽科の教授として活躍した。
近親のノーベル賞学者ロジャー・チェン
銭学森の近親にノーベル賞受賞者がいる。銭学森の父銭均夫の弟に銭沢夫という人がいて、その子の銭学榘(銭学森の従兄弟)はMITで空気力学を学び、卒業後ボーイング社に勤め米国籍を取得している。この銭学榘の子がロジャー・チェン(銭永健)であり、彼は1952年にニューヨークで生まれ、ハーバード大学や英国ケンブリッジ大学を卒業後、カリフォルニア大学バークレー校やサンディエゴ校で教授を務めた。2008年に、「緑色蛍光タンパク質の発見と開発」の研究成果により下村脩博士、マーティン・チャルフィー博士とともにノーベル化学賞を受賞した。チェンは2016年、交通事故により64歳の若さで死亡している。別途このコーナーで取り上げたい。
参考資料
- ・"Qian Xuesen, Father of China's Space Program, Dies at 98" New York Times(2009年11月3日)
- ・"Qian Xuesen Obituary" The Guardian (2019年9月13日)
- ・"毛泽东封钱学森为"火箭王"" 中華人民共和国教育部(2008年11月1日)
- ・『銭学森的故事-実干興邦科学家故事叢書』林承謨 華中科技大学出版2013年5月