【22-09】【近代編34】黄昆~中国における半導体研究の基礎を築く
2022年04月06日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、中国における固体物理学や半導体研究を主導した黄昆を取り上げる。半導体は、産業のコメとも言われてIT産業などに不可欠な素材であり、中国でもその研究開発と産業化が熱心に進められている。中国において、固体物理学を基に半導体の理論的な研究の基礎を築いたのが黄昆である。
生い立ちと教育
黄昆は1919年に北京に生まれた。父の黄徵是は中国銀行に務めており、母も同行の職員であった。黄昆は、北京の師範大学附属小学校などに通った後、1937年に燕京大学理学部の物理学科に入学した。
燕京大学は、1919年に北京にあったキリスト教系の3大学(滙文大学、通州協和大学、華北協和女子大学)が合併して設立された。燕京は北京の古称で、戦国時代の燕が都とした地の意味である。設立時の燕京大学は、文学部、理学部、法学部で構成され、1926年には米国の篤志家の援助を得て天安門の西北にある頤和園に近接する地に移転した。新中国建国後には中国政府に接収され、1952年の院系調整で大部分が北京大学に、工学部が清華大学に、社会系学部が中国人民大学に移管された。
黄昆にとって幸いであったのは、燕京大学が米国のキリスト教系の大学であったことである。1937年に盧溝橋事件が勃発して日中戦争が始まり、北京は日本軍によって占領されてしまったが、燕京大学は米国の管轄下にあるとの認識から占領されず、教育を続行することが出来た。同じ北京にあった北京大学や清華大学は日本軍の占領を免れるため、大陸西部の雲南省に疎開し西南連合大学を設置している。
黄昆は、1941年に燕京大学を卒業し物理の学士号を授与された後、西南連合大学で物理の助教として採用された。同年末には真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発し、北京の燕京大学も日本軍によって占領されており、黄昆はタッチの差で日本軍の暴虐を免れた。
1942年には、西南連合大学の研究生となり、太陽のコロナスペクトルに関する研究により1944年に修士号を取得して、昆明天文台の補助研究員となった。なお、この時期に同じく西南連合大学にいた楊振寧とは、同じ宿舎に住み物理学の議論を戦わせたという。
英国留学
1945年、黄昆は英国ブリストル大学に留学する。同大学では、ネヴィル・フランシス・モット(Nevill Francis Mott)に師事して、固体物理学の研究に従事した。師のモットはその後「磁性体と無秩序系の電子構造の理論的研究」により、1977年にノーベル物理学賞を受賞している。
1949年にブリストル大学で博士号を取得した黄昆は、スコットランドのエジンバラ大学でポスドク研究員となり、同大学の教授であったドイツ人のマックス・ボルン(Max Born)とともに「結晶格子の力学的理論(Dynamical Theory of Crystal Lattices)」と題する教科書的な書籍を1951年に著した。このボルンも、「量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱」により、1954年にノーベル物理学賞を受賞している。
黄昆は、英国のリバプール大学でもポスドク研究員を務めたが、その際リース(Rhys)という女性研究員と知り合い、中国に帰国後の1952年に結婚している。
帰国して北京大学の教授に
黄昆は1951年に、建国されたばかりの中華人民共和国に帰国し、北京大学の教授となった。1952年に夫人となったリースも北京大学に奉職している。その後、黄昆は北京大学で一貫して半導体を含む固体物理学研究に従事するとともに、後輩技術者・研究者の育成に当たった。1955年には、中国科学院院士に当選している。
半導体研究所長就任と晩年
黄昆は文化大革命が終了した1977年に、北京にある中国科学院半導体研究所の第3代所長に就任した。同所長を1983年に退いて名誉所長となったが、その後1985年には国際的な物理学の組織である「国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)」の半導体委員会の委員を務めた。また、1987年から1991年まで中国物理学会の会長を務めた。
中国科学院半導体研究所内の黄昆の像
(左端が筆者、右端は茶山科学技術振興機構北京事務所長)
2001年には、それまでの半導体研究と後進の育成への貢献に対し、国家最高科学技術賞が授与されている。黄昆は、2005年に北京で死去した。86歳であった。
学術的な業績
黄昆は、固体物理学の基礎理論で大きな学術的な業績を挙げており、代表的なものはノーベル賞学者のボルンとともに公表した「ボルン-黄近似」理論である。ボルンは、1926年に同僚のロバート・オッペンハイマー(後に米国に渡り原爆製造プロジェクトであるマンハッタン計画を主導)とともに、電子と原子核の運動を分離して、それぞれの運動を表す近似法である「ボルン-オッペンハイマー近似」理論を提唱した。ボルンはその後中国から来た黄昆ととともに、より精度の高い近似理論として「ボルン-黄近似」を提唱したのである。
教育者としての業績
黄昆は優れた教育者でもあった。長年北京大学の教授として、また中国科学院の半導体研究所所長として多くの優れた後進を育て、彼らが現在の中国の半導体産業や研究を発展させている。
とりわけ重要なのは、教育に使用するための教科書の執筆である。黄昆は、英国に滞在中にボルンとともに「結晶格子の力学的理論」を公表しているが、中国に帰国してからは、この書籍の中国語版を出版するとともに、中国語の教科書である「半導体物理学」(著名な女性科学者・謝希徳との共著、1958年出版)、「固体物理学」(1966年出版)などを次々に著した。これらは、現在でも中国の固体物理や半導体研究の優れた教材として使用されている。
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