書籍紹介:近代中国の科学技術群像(ライフサイエンス振興財団、2022年3月)
書籍名:近代中国の科学技術群像
- 著 者: 林 幸秀
- 発 行: ライフサイエンス振興財団
- ISBN: 978-4-88038-075-9
- 定 価: 1,200円+税
- 頁 数: 247
- 判 型: 四六
- 発行日: 2022年03月31日
書籍紹介:近代中国の科学技術群像
小岩井忠道
他の研究者に引用された回数が上位10%に入る影響力が大きい論文数で、中国が米国を抜き世界一になった。2010年から2019年の10年間で中国の研究開発費の年平均増加率は10.6%と、米国(5.4%)を大きく上回る。英教育誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」の「世界大学ランキング2022」で清華大学、北京大学がそろって順位を上げ、アジア・太平洋地域で最上位の16位となった―。この1年に限っても、中国の研究力向上を裏付けるニュースが相次ぐ。科学技術分野におけるこうした中国の躍進は、単なる幸運の積み重ねではない。この書を読んでそう納得する読者は多いのではないだろうか。
著者の林幸秀氏は、中国の科学技術力が急激に向上することを20年近く前に予測し、以来、中国本土での調査を含め、中国の科学技術に関する調査・研究を続けている。2020年には「中国における科学技術の歴史的変遷 」を著している。清朝末期に、西洋近代文明を導入して国力増強を目指す「洋務運動」など、今につながる科学技術と人材育成重視の政策が始動していた。さらに新中国建国直前、1949年9月の中国人民政治協議会議第1回総会で、「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める」という条文が入った「共同綱領」が採択されていた事実などを詳しく紹介していた。
新しい書は、清朝末期にまでさかのぼって科学技術振興を主導した一人一人の実績を紹介することで、あらためて中国の科学技術力向上が長年にわたる多くの人々の強い意志と努力によってもたらされたことを浮き彫りにしている。
最初に取り上げられている曾国藩は、清朝の衰退が始まろうとしていた1811年に農家の長男として生まれている。著者が高く評価しているのは清朝政府にあって、「洋務運動」を主導した功績。中国の伝統的な学問や制度を主体としつつ、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべきだとの考えに基づく政策だ。初期の目的は、清朝政府に対して洪秀全が起こした「太平天国の乱」の鎮圧だったが、西欧の近代軍備を自前で整備するという当初の目的を超え、現代につながる業績となっている。人材育成を目的に「京師同文館」という教育機関を設立し、さらに「幼童留美」という中国で初めての海外留学生派遣事業の実現にも大きな役割を果たした。この留学生派遣事業は1872年にスタートしている。
中国が留学を早くから重視していたのもこの書からよくわかる。著者が取り上げている人物は、中国本土以外で生まれた人々を除いても50人に上るが、このうち42人が海外留学経験者となっている。留学や滞在先のほとんどは米国で、次いで日本、欧州だ。「幼童留美」は10~16歳の少年30人を毎年米国に留学させる制度で、1872年の第1回留学生の一人、詹天祐が留学した時の年齢は11歳。日本では女子英學塾(現 津田塾大学)創立者、津田梅子が1871年に6歳で米国留学したことがよく知られているが、中国の留学制度の歴史は日本に比べそん色ないことが分かる。
詹天祐は、1881年に米国イェール大学シェフィールド理工学院土木工学科を卒業したのち帰国、北京から張家口に至る京張鉄路建設を主任技師として中国人だけで完成させるなど多くの実績を挙げ「中国鉄道の父」と呼ばれている。曾国藩とともに、清朝末期から新中国建設までに中国の科学技術を主導した人物として紹介されている。同じく曾国藩の科学顧問的な役割を果たした人物として取り上げられている李善蘭は、留学経験はないものの、上海にいた英国人宣教師アレクサンダー・ワイリーに数学の能力を認められたことが大きな転機となった。代数、変数、函数、係数、微分、相似といった数学用語が、ワイリーと共同で李善蘭が漢訳したユークリッドの「ストイケア」の訳語だと初めて知る読者も多いのではないか。
新中国建国後に政治家として活躍した周恩来、鄧小平が科学技術振興でも大きな役割を果たしたことも詳しく紹介されている。著者は、周恩来の科学技術面での貢献で最も重要なのは「四つの近代化(中国語では四个现代化)」を提唱したことだ、と評価している。「産業、農業と科学・文化の近代化」は毛沢東が始めた大躍進政策などの政治的経済的な混迷のため実施されることはなかったが、周恩来の意思を引き継ぎ、実現させたのが鄧小平。1978年3月、北京に全国から7,300人の科学技術関係者を集めて開催した全国科学大会で農業、工業、国防、科学技術の四つの近代化を唱え、1982年に制定された新憲法(82憲法)の中に国家の大目標として明記した。
中国の科学技術の発展が帝国主義列強による中国侵略と、新中国建国後の反右派闘争と文化大革命という国内問題で停滞を強いられた事実も詳細に紹介されている。日本による侵略で大学、研究機関、科学者・技術者が被った苦難も多い。1937年日中戦争が勃発し、同年7月末までに北京と天津市内が日本軍に占領されたため、清華大学は北京大学や天津にあった南開大学とともに内陸部の雲南省昆明に移動し、1938年5月「国立西南連合大学」となった。北京にあった北平研究院物理研究所や、上海の中央研究院地質研究所(現中国科学院地質・地球物理研究所)なども内陸部への移転を強いられている。
中国が初めて独自に設計し建築した近代的大橋として1937年9月に完成した杭州市内を流れる銭塘江をまたぐ鉄道、公道両用の二層橋梁「銭塘江大橋」を、関係者たちが涙をのんで爆破するということも起きている。日本軍の手に落ち日本軍による中国侵略の兵站に利用されるのを恐れたためだ。
新中国建国後には、親中国政府の衛生部生物製品研究所長としてペスト、黄熱病、天然痘などの防疫を担い、トラコーマ原因菌の発見などの輝かしい研究実績も持つ細菌学者、湯飛凡が、1958年9月首をつって自殺するという悲劇も起きている。毛沢東が1956年に打ち出した「百花斉放百家争鳴」の方針に基づく「反右派闘争」で、資産階級の反動的学術権威、国民党反動派残党、米国スパイ、国際スパイなどと罵倒され、部下の女性技術者と不倫関係にあるとの陰湿な中傷もなされたのが原因だった。
このほか、北京協和学院副校長の内科学研究者、張孝騫が、1966年に紅衛兵たちによって「反動学術権威」や「スパイ」であるとののしられたうえ、むちで乱打され、眼鏡を割られ、額が血だらけになった事実も紹介されている。「この時期を生きた科学者・技術者は、ほとんど何らかの形で迫害を受けている」。著者はこのように記しており、実際に紹介されている著名な科学者・技術者たちの中には、数々の実績とともに被った苦難が記されている人たちも多い。
「日本は、将来にわたり中国の科学技術と協調するか対峙するかは別として、何らかの関係を持つしかない。中国の近代科学技術がどのような人たちによって構築されたかを知ることは大変重要」。著者は冒頭に記している。近年の中国の科学技術力向上が、多くの苦難を経ながら清朝末期以降の多くの人々による強い意思と活動によってもたらされたことを理解し、納得する読者は多いのではないだろうか。
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