林幸秀の中国科学技術群像
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【22-14】【近代編36】張鈺哲~中国の近代天文学の父

2022年07月05日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 中国は古代文明の発祥地の一つであり、人民統治の重要な手段を提供する天文学が発展してきた。しかし、物理学の理論や望遠鏡などを用いた近代的な天文学は、他の科学技術と同様に遅れてスタートしている。今回は、近代天文学を欧米から導入し、中国の近代天文学の基礎を築いた張鈺哲(ちょうぎょくてつ)を取り上げる。

中国の天文学の歴史

 中国は天文学でも非常に長い歴史を持っており、殷(紀元前17世紀頃から11世紀)の中期にさかのぼる。中国の古代王朝が天文学を重要視した理由の一つは暦にあり、暦は王朝の権力と統治の象徴と考えられていた。

 歴史上最初に出現した中国の偉大な天文学者が、後漢の張衡(ちょうこう)である。張衡は、約2,500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。また、月は球形であり月の輝きは太陽の反射光だとし、月食の原理も理解していた。

 張衡の出現から1000年以上経過した元の時代に、もう1人の天才天文学者郭守敬(かくしゅけい)が現れた。郭守敬は元朝皇帝の世祖(クビライ)に仕え、当時の世界最先端であったアラビアの天文学を援用し、観測装置を改良して天体観測を続け、1280年に新しい暦である「授時暦」を作成した。この授時暦は元帝国内外に頒布され、中国歴代最長の暦となった。

 しかし、このような歴史を持つ中国の天文学も、近代になると西洋に大きく後れを取る。ルネサンス期以降、コペルニクスの地動説、ケプラーの惑星運動研究、ニュートンの天体力学と重力の法則、ガリレオの望遠鏡による天体観測などが相次いだ。その後も欧米では、望遠鏡の性能向上、分光器や写真技術の開発と向上などにより、天文学がさらなる進歩を遂げた。

生い立ちと基礎教育

 さて張鈺哲であるが、彼は清朝末期の1902年に現在の福建省福州に生まれた。2歳で父を亡くしたが、何とか地元の小学校に進み勉学に励んだ。11歳になった1913年に北京に行き、勉学を続行した。1919年に北京師範大学附属中学を卒業して、同年に米国留学予備校の清華学校に合格した。

米国留学

 1923年、21歳となった張鈺哲は米国に渡り、コーネル大学の建築学科に入学した。張鈺哲は、勉学を続ける傍らでたまたま読んだ天文学の入門書に興味を持ち、1925年にシカゴ大学の天文学科に転入した。シカゴ大学は附属施設として、ウィスコンシン州にヤーキス天文台を有していた。成績優秀であった張鈺哲は、学生であったにもかかわらず教授の許可を得て、同天文台の60センチ反射望遠鏡での天体観測を行うことが出来た。そして、博士課程の学生であった1928年に、1125番小惑星(アステロイド)を発見し、同星を「China(中華)」と命名した。中国人初の小惑星発見であった。

国立中央大学に奉職、紫金山の天文台建設に参画

 1929年、シカゴ大学から天文学の博士号を取得した張鈺哲は、同年帰国し、南京にあった国立中央大学(現在の南京大学)物理学科の教授となり、併せて中央研究院天文研究所の研究員を兼務した。

 中央研究院では、南京市内の紫金山に近代的な設備を有する天文台建設を計画しており、張鈺哲もそのプロジェクトに参加した。ちなみに紫金山には、明を建国した朱元璋の墓所(明孝陵)や孫文の墓所(中山陵)も存在している。天文台は1934年に完成し、張鈺哲は特別研究員として観測に当たった。

日本軍の侵攻と重慶への疎開

 1937年に日中戦争が始まり、南京は同年末に占領されたため中央大学は重慶に疎開し、張鈺哲も図書・資料などとともに家族で重慶に移動した。

 中央研究院の天文研究所も雲南省昆明に疎開し、市内の風凰山に新たに天文台を建設していた(後の雲南天文台)。1941年に張鈺哲は、家族を重慶において単身で昆明に赴き、中央研究院天文研究所の第3代所長に就任した。

紫金山天文台の再建

 1945年に太平洋戦争に敗北した日本軍が大陸から撤兵し、1946年に張鈺哲は天文研究所の職員らとともに南京に戻った。しかし、紫金山天文台では60センチの反射望遠鏡などの設備が日本軍により破壊され、重要な機材なども持ち出されてしまっていた。そこで、張鈺哲は米国のパロマー天文台、カナダのドミニオン天文台などを視察し、紫金山天文台の再建を目指した。

 中央研究院が新中国の中国科学院に接収されると、天文研究所は1950年に中国科学院の附属研究機関となり、名称も紫金山天文台に変更された。張鈺哲は、天文研究所所長から紫金山天文台長となり、引き続き天体観測を続行している。1955年には、中国科学院の院士に当選している。

中国科学院の天文学組織の建設に尽力

 張鈺哲は、紫金山天文台長の業務を続ける傍ら、中国全土での天体観測システムの構築を目指し、中国科学院本部の協力を得て北京、上海、雲南、新疆などに新たな天文観測施設を整備し、これらの観測施設の機器開発を進める南京天文儀器廠を設置した。これらは、現在中国科学院の附属機関として国家天文台(直属組織に雲南天文台、新疆天文台、南京天文光学技術研究所を有する)および上海天文台となっており、紫金山天文台とともに中国の天文学を支えている。

人工衛星の軌道計算に貢献

 ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたのが1957年であるが、張鈺哲は同じ年に、天体力学の基礎理論を応用して中国初の人工衛星軌道に関する論文を発表している。中国政府は、原水爆とミサイル開発であった両弾開発政策を変更し、人工衛星開発を加えた両弾一星政策を進めるのはその後である。張鈺哲は、この両弾一星政策をサポートし、人工衛星の軌道計算などを行うチームで活躍するとともに、打ち上げ後の衛星追跡・制御のための観測点を吉林省長春や新疆ウイグル自治区ウルムチなどに整備していった。

 1970年には、長征1号ロケットにより中国初の人工衛星「東方紅1号」の打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げ国であった。

晩年

 張鈺哲は、1950年から1984年まで実に35年間にわたり紫金山天文台長を務め、その後も名誉台長を務めている。この間に張鈺哲は、小惑星、彗星、日食、恒星などの研究や観測に没頭し、多くの論文を著して、現代の中国の天文学の発展に多大な貢献をした。

 1978年には、張鈺哲の国際的な天文学への貢献を考慮して、1976年にハーバード大学が発見した2051番の小惑星が「Chang(張)」と命名された。より新しい地点での天体観測への情熱も衰えず、張鈺哲は1980年に青海チベット高原に行き、中国初のミリ波電波望遠鏡の立地選定を行っている。1984年、張鈺哲は82歳の高齢にもかかわらず米国に赴き、ハーバード大学で学術講演を行っている。

 1986年、紫金山天文台の名誉台長であった張鈺哲は、同天文台の執務室で倒れ、亡くなっている。享年84歳であった。

参考資料

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書籍紹介:近代中国の科学技術群像