【09-001】中国の歴史を概観する
寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー) 2009年1月23日
中国の長い歴史を概観し、その特徴及び現代における意義を考えてみたい。
中国の歴史がいつから始まるかを規定することは非常に重要なポイントである。中国の伝説には三皇五帝の物語があり、五帝の最後の舜帝は禹に皇帝の座を譲り、禹から世襲王朝の夏王朝が始まるとされている。
三皇五帝までは神話の時代と考えてよい。しかし、夏王朝が存在したかどうかについては、中国国内外で意見が別れる。中国の考古学学会は、洛陽郊外で二里頭遺跡が発見されており、夏王朝は存在したとしているが、日本や欧米の学者は証拠が不十分として夏王朝の存在は実証されていないと主張する。夏王朝が存在したかどうかは今後の遺跡発見と研究を待つとしても、その後に起こった商(殷)の文明の成熟度から考慮すると、商の前に何らかの文明が存在したことは疑うことはできない。一つのまとまりのある王朝であったのか、それともいくつかの諸侯の街が並存したかのどちらかであろう。
中国古代史の時代区分を決定するために設置された「夏商周断代工程(プロジェクト)」は、夏王朝の期間を紀元前2070から1600年と断定している。もし、夏王朝を中国の歴史の始まりとすると、中国の歴史は4000年になる。
一方、出土した土器から、紅陶を基本とする仰韶文化、その後の黒陶を基本とする竜山文化が存在したことは明らかであるが、その移行期が5000年前と考えられている。中国の歴史は5000年というのは、これが根拠であるが、仰韶文化を加えると、中国の歴史は更に長くなる。
こうなると、「歴史」とはいったい何であるのかという、定義の問題になってくる。人間が作った土器などの発見まで歴史を遡るのか、それとも文字による記述をもって歴史の始まりとするのか、それとも現代のその国家の本質の原点をもって歴史の出発点とするのかで、歴史の長さは随分異なる。土器などの発見に依存すれば、中国の歴史は7000年以上ということになり、記述を重視するのであれば周王朝又は夏王朝から数えることになり、歴史は4000年から3600年ということになる。しかし、現代との関係を重視するのであれば、秦の始皇帝による中国統一(紀元前221年)を起点とし、中国の歴史は2000年ということになる。定義によってこれほど違ってくる。そういう意味では、中国の古代史『史記』を書いた司馬遷は偉大といわざるを得ない。司馬遷個人が中国の歴史を最初に書くばかりでなく、その後の歴史の有り様にも多大な影響を及ぼしたと言えよう。皇帝たちは後世の「歴史」を意識しながら、国家の統治を行ったのであるからだ。
さて、ここでは、これらの議論を前提として、始皇帝による中国統一の前と後で時代を大きく区分することとする。始皇帝以降の歴史をみると、中国は統一と分裂を繰り返す。大まかな時代区分は以下のとおりである。
王朝 |
期間 |
中国統一以前の時代 | |
(紀元前221年:秦による中国統一) | |
秦、前漢、後漢 | 440年 |
(220年:後漢滅亡) | |
三国時代、五胡十六国、南北朝(北魏、宋) | 370年 |
(589年:隋による中国統一) | |
隋、唐 | 320年 |
(907年:唐の滅亡) | |
五代十国、南北朝(金、南宋) | 370年 |
(1276年:元による中国統一) | |
元、明、清 | 640年 |
(1912年:清の滅亡) | |
中華民国、中華人民共和国 | 100年 |
このように中国の歴史を概観すると、以下のことが分かる。
まず、統一時代と分裂時代を繰り返している。分裂期間は、黄巾の乱が引き金になった漢滅亡後の三国時代、五胡十六国、南北朝の370年及び唐滅亡後の五代十国、南北朝の370年。同じ期間であるのは偶然の一致か。一方、統一期は合計1500年になるので、分裂期740年と比較すると、2対1の割合になる。何と秦の統一後中国の歴史の三分の一は、分裂期である。さらに、統一期の元代と清代は異民族による統一であるので、その期間340年を差し引くと、漢民族による統一期間はさらに短くなり、1160年になってしまう。つまり、漢民族による中国統一の期間は中国の歴史の半分になる計算だ。
中国は極めて不安定な歴史を経験してきており、それは戦争や紛争が如何に多かったかを如実に反映している。特に、黄巾の乱後は、中国全国が荒廃し、人口が十分の一まで減少したとされている。漢民族はこの時に滅亡し、その減少を埋めるために、北方から異民族が移住して来て、中国の北部は異民族に占拠されたと言ってもいい。漢代の人口を回復するのに、隋統一までの400年を要した。この時代の分裂と人口減少がなければ、朝鮮半島も日本も中国に飲み込まれてしまっていたであろう。もっとも、中国の王朝は国土が膨張すれば、ある時期に分裂するという運命を背負っているとも言えるから、その後の日本の運命は不明であるが。
三国時代、五胡十六国、南北朝の370年を経て、隋により中国は再統一されるが、隋もその次の唐も鮮卑族を先祖とする王朝であるので、漢民族と北方民族の混合はかなり進んだと言える。漢民族の視点に立つと、野性味のある北方民族を取り込み文明の活力としつつ、漢化を進展させていったのだ。日本の歴史学者には、中華帝国の膨張と揶揄する者がいるが、漢民族は遺伝子を絶やしつつも、文化としての漢民族の概念は拡大していったのだ。
辛亥革命により皇帝制度は終焉するが、孫文は中華民族の復興を唱える。この中華民族という概念は、漢民族と少数民族を含んでおり、歴史の過程から推測すると、少数民族の漢化が本音であると言えないこともない。
次に各王朝の特徴について述べよう。
○ 秦
秦が中国の統一を成し遂げたのは、成都平野の豊かな穀倉地帯の開墾と富国強兵策のお陰であった。相互監視体制の強化、徴兵制や徴税の徹底、度量衡の統一などを強行した。また、地方の支配体制については、周の封建制を廃止し、郡や県の役人を朝廷から派遣し、その世襲を認めないという中央集権体制を取り入れた。さらに、字体の統一も中国は一つであるという意識を人々に植え付けた。このような天地がひっくり返るような革命をしなければ中国は統一されなかったであろう。歴史の創造には人智を越えた制度改革が必要であった。秦の思想的基盤を形成した法家の商鞅、韓非子、李斯はいずれも非業の死を遂げた。
しかし、急激な変化は人々の反発を買い、秦王朝は僅か19年で滅んだ。
○ 漢
項羽との戦いに勝った劉邦が漢王朝を建てた。評判の悪かった郡県制の一部を封建制に戻し、いわゆる郡国制を採用するが、漢王朝の勢力の伸張とともに郡県制が再び強化されていく。この時代の思想の主流は老荘思想であった。漢王朝の栄光の時代は、建国の60年後の武帝と景帝の治世で「文・景の治」と称されている。武帝は朝鮮に大軍を派遣し、難儀しつつも直轄領としている。また、司馬遷は父の遺言どおり、大著『史記』を著し、後世に多大な影響を及ぼしている。
漢を儒教体制の国にしたのは文帝である。儒教は理想主義とされており、多くの儒者が登用され、理想的な政治が行われた。塩鉄専売は儒の精神に反するとして廃止され、国家財政が危機に見舞われた。
外戚の王莽は漢の帝位を乗っ取って「新」を建てる。王莽は聖天子が天下を統治した周に復帰することを目指し、社会を大混乱に陥れた。
まもなく、新は滅び、漢王朝が復活するが、首都を長安から洛陽に移し、その後を後漢と呼ぶ。後漢は、皇帝の権限を元に戻すために、官僚機構が複雑になっていた前漢とは異なり、小さい政府を目指した。仏教が伝来したのは、明帝の時代である。朝廷が宦官に牛耳られるようになると、宦官に高位の役人を推薦してもらうには賄賂が必要になり、拝金主義が蔓延する。官僚選考の基準がお金になり、官位がお金で売買されるようになる。
搾取された農民の一揆の“黄巾の乱”が勃発すると、国土は戦乱に陥り、漢王朝は滅亡する。
○ 隋
589年、隋は南朝の陳を亡ぼして中国を再統一した。秦による天下統一が法家商鞅の政治改革の成果の上に成っているように、隋による統一は、北朝の政治的業績の上に立っている。北魏太祖による部落首長制から郡県制への転換、均田法による政治改革、諸族通婚奨励による人権的偏見の解消などの改革に依存している。隋は秦と同じように強引な政治改革を実行したため、短命に終わったが、唐王朝の基盤を作ったと言える。
隋は科挙を創設し、隋体制の求心力を高めた。朝鮮の高句麗に3回も出兵し、最初の2回は大敗している。中国は強力な政権が誕生すると、かならず遼東に進出している。秦の始皇帝は燕を遼東に追い詰め、漢の武帝は朝鮮半島に出兵し、三国時代の魏も司馬仲達が遼東に出兵している。また、南北を結ぶ大運河の建設も隋によるものだ。煬帝は遊興のために豪華な竜舟を何千艘も作らせている。
○ 唐
隋も唐も鮮卑系の皇族であったが、人種民族を問わず、高度な文明により統一されるべきだという考え方から唐は世界帝国への道を歩き始める。この発想は元、明、清に引き継がれることになる。つまり、中国は華夷統合を経て世界帝国へと発展していく。
玄宗皇帝の治世40余年は「開元・天宝」と呼ばれ、中国史上の全盛期と言われている。この時の人口は四千九百万人で、前漢の人口六千万人に比べると少ないが、過剰人口を抱えていなかった分、安定していたとも言えよう。
唐時代には科挙制が定着し、律令国家を形成し、官僚至上の社会になる。日本も遣唐使を通じて、自立性を失わないように配慮しつつ懸命に律令国家建設に励んだ。
玄宗皇帝が楊貴妃に惚れ込むようになると、楊貴妃の親戚を登用し、政治が乱れ、“安史の乱”が起こる。唐は自ら乱を制圧できず、ウイグルの力を借りてやっと秩序を回復するが、9世紀末、塩の密売人・黄巣による“黄巣の乱”には無力となった。907年、唐は滅亡し、再び分裂の時代を迎える。
唐代には、李白、杜甫、王維などの文学の巨匠が現れ、豪放で力強さに満ちた文化を生んだ。
○ 宋
宋は中国の南半分しか治めることができなかったが、庶民が幸福であったかどうかは別である。宋の市民は長安の市民より裕福で自由であった。長安は日没後には城門のみならず「坊」とよばれるブロックの門まで閉じられていたが、宋の開封の盛り場は不夜城だった。貴族が独占していたものに庶民でも手が届くようになった。宋代は官吏の数が最も多く、官吏の給料が最も高かった。印刷術、羅針盤、火薬の三大発明も宋代のものであるし、焼き物は宋代に極点に達し、宋磁に匹敵するものは出現していない。中国の奇書の『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』の原型は宋代の盛り場で生まれた。
一方、宋は武力的に弱い国であったため、遼や西夏に莫大な歳幣を贈り、平和を買っている。また、漢文化に免疫性のなかった北方の女真族は、固有の言語、習慣をすぐに失い急速に漢化していった。
なお、作家の陳舜臣は、宋の太祖趙匡胤を中国史上最高の名君としている。
○ 元
モンゴル族は文字通り人類史上空前絶後の大帝国を築いた。征服王朝の北魏、遼、金、元、清のなかで、元が最も漢化されなかった王朝である。なぜなら、彼らは中国を征服する前に、西方の高度な文明に接していたからである。この視点は中国との交流を進めていく上で重要なポイントである。中国から見ると、北方民族は新しい血を輸入し、それによって中国の活力を蘇らせてくれたのだ。
元の文化は重商主義的で搾取的であった。元は文治主義、進士至上主義の宋の伝統をひっくり返したため、四書五経や修辞の勉強に縛り付けられていた知識人は、他の分野で才能を発揮し、戯曲が発展した。また、偏見なしに科学技術を取り入れ、優れた学者は招聘されたので、科学が発達した。
○ 明
仏教の一派である白蓮教の反乱から登場し、明王朝を創始したのが朱元璋(洪武帝)だ。彼のように貧農から皇帝になった者は中国史上にいない。地獄を見た人間が冷酷になりやすいように、洪武帝は側近の大粛清を強行している。前朝の正史は長い冷却期間をおいてから書くべきとされているが、洪武帝は元が滅びた翌年に『元史』を編んでいる。改竄が多く出来が悪いため、五百数十年後に『新元史』が作られている。
明の文化は、野生的で実利的という元朝の要素を抱え込んでいる。宦官の人数を百人以下に制限し、宦官の政治関与を厳しく禁じた。
明代は農本主義的で、商人が蔑視された。また、宋代にみられたような知識人や文化人の気質が極めて稀薄だった。明朝は漢民族の宋朝よりも、異民族の元の特徴をより多く引き継いでいた。
永楽帝は元王朝と同じく、世界帝国を志向し、宦官の鄭和に命じて、インド、アラビア、アフリカまで大艦隊を派遣している。しかし、洪武帝と永楽帝が強い光を放つと、その後の皇帝は小粒で王朝は次第に衰えていく。
1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、明は朝鮮救済のために莫大な戦費を費やす。1625年、徐々に力を蓄えていたヌルハチは瀋陽に国都を建て、1636年に清が建国される。豊臣秀吉の朝鮮出兵は無謀であったという議論が日本には多いが、日本よりも国力が弱かった満州族が明を亡ぼすには、半世紀も経過していない。朝鮮出兵の時期がよく、戦略が奏功していれば、東アジアの歴史が大きく変わった可能性があるのだ。歴史は偶然性に大きく影響されている。
○ 清
女真族は文殊菩薩の信者となり、自分たちを文殊と似た発音の“満州”と呼んでいた。康熙帝と乾隆帝は名君として誉れ高い。清朝は暗君がいない王朝であった。康熙帝は朱子学に傾倒し。漢文化にどっぷりとつかった。末期の皇帝は満州語を話せなくなっていった。1840年のアヘン戦争を契機に西洋列強の干渉が始まり、清朝の権益は削がれていく。康有為らが日本の明治維新やロシアのピョートル大帝の改革をモデルとして唱えた戊戌(ぼじゅつ)変法は挫折する。清朝は、1995年日清戦争に敗れると、中国の古い体質が強国になるのを妨げているとして、近代化に踏み切る決断をする。日本に留学生を大量に派遣し、近代国家への道を歩むことになる。
辛亥革命の翌年の1912年、清朝は滅び、中国は皇帝の歴史から解放されることになる。
以上、中国の歴史を概観してきたが、その特徴を以下に記しておきたい。
1.国家統一の条件
紀元前221年の秦の始皇帝による天下統一以来、中国は分裂と統一を繰り返している。広い国土と多数民族を考慮すると、分裂は回避できないであろう。当然、統一には多大なコストがかかることになる。皇帝中心の中央集権制、強大な軍事力、農民の搾取、イデオロギー性の強い政治思想、ライバルの粛清が不可欠であった。日本は中国から社会制度や技術を学んだが、この点が均一性の高い日本との決定的な差異を生んだ。そして、歴史の違いは現在の日中両国の関係の底に流れている。その意味で、歴史の相互学習は非常に重要である。
新王朝の創業期が終わったあとの安定期が人々にとって最もよい時代であった。この時期に繁栄を迎え、次第に制度の矛盾が拡大し、社会秩序が弱まり、混乱期に向かう。
2.皇帝継承の条件
皇帝継承は夏王朝を創設したとされる禹以来、世襲制の伝統に依っている。しかし、世襲制原則にもかかわらず、しばしば体制内の実力者に乗っ取られている。例外は、元や清などの塞外民族による王朝樹立期である。体制内権力闘争は官僚、宦官、外戚を巻き込み、激しさを増すが、その原因は皇帝に権力が集中しているためである。広大な国土を治めるためには、強権が不可欠であったが、それは皇帝周辺の者から見ると、その権力は魅力的であると同時に、いつか皇帝に粛清されるかも知れないと恐怖心を与えていたことであろう。皇帝の座を巡る戦いは必然的に激しいものにならざるを得ない。これは大陸文明の大きな特徴である。
3.塞外民族の漢化
漢人による王朝は、漢、宋、明など意外に少ない。隋と唐は鮮卑系の王朝と言われている。前にも書いたが、漢王朝滅亡後、混乱期を経て人口は十分の一まで減少し、漢民族の遺伝子は滅亡したと主張する学者さえいる。
漢民族は塞外民族を漢化し、勢力を拡大してきたように見える。中華帝国の膨張として世界に恐れられている所以である。漢民族の視点では、華夷思想の下で周辺の野蛮人の文明化を図ってきたように見えるが、実際には、むしろ華夷統合により、中華文明は活力を失わずに発展してきたのだ。北方や西方の異民族の野生の血を輸血することにより、文明の発生・成熟・衰退のサイクルを繰り返してきている。そういう意味では、中華文明は塞外民族を利用し、世界帝国へと眼を開かせられていったのだ。
特に、モンゴル帝国による中国支配の歴史的経験は大きかったと思われる。明は漢民族の宋からではなく、元から多くの制度を引き継いでおり、文化の性格も元に近い。文化的に発展したが、こじんまりした宋よりも、世界帝国を目指したモンゴルが支配する元を模範として、明は発展してきたのだった。
4.衰退期に現れる宗教秘密結社
王朝の末期に社会が混乱すると、宗教秘密結社が流民を信者として囲い込み勢力をふるうようになる。秘密結社が道教系、仏教系、キリスト教系など多種多様な宗教をもつのは面白い。皇帝をトップに頂く権力構造のなかで、庶民(=農民)は朝廷が地方に派遣する役人に搾取されていた。中央の王朝が交代すると、税制が異なってくるし、戦費がかさむと重い税金を課せられる。政権が崩壊すると全土が無秩序になり、餓死者が続出し、農民が救いを求めて宗教に走っても不思議ではない。次の皇帝を狙う者は、そのような宗教秘密結社をうまく利用したのである。
現代において、中国共産党が法輪功の動きに敏感になっているのは、このような歴史的経緯があるからであろう。宗教集団の爆発的拡大は体制を揺るがす恐れがある。
5.美女が果たした王朝滅亡
中国の歴史にはしばしば美女が現れ、王朝崩壊の原因となっている。夏、殷、周、唐の滅亡期には、有名な美女に狂う皇帝の姿がコミカルに描かれている。実際には、特定の美女がその原因となるはずはない。美女は、むしろ後宮の代名詞ではなかろうか。為政者は政治を疎かにし、美女や酒に耽ってはならないという戒めと考えた方が自然である。ただ、皇帝に権力が集中しすぎていると、暗君の出現が王朝を傾ける可能性は高くなる。
6.中国の歴史を作った男は司馬遷
中国の歴史における秦の始皇帝の役割は大きい。天下を最初に統一した始皇帝がいなければ、中国はヨーロッパのように分裂国家になったと思われる。しかし、中国の歴史を作ったのは『史記』を書いた司馬遷であると、筆者は考えている。為政者は『史記』を読むことにより、歴史が何たるかを学び、己の役割や後世の名声を考えて行動したと思われる。『史記』以降の歴史は、『史記』に規定されてしまったと言っても過言ではない。
7.歴史の現代への問いかけ
中国の歴史は皇帝の歴史であり、国土統一のためには中央集権の強権が必要であった。また、文明の活力維持のために、塞外民族の野生の血を吸収しつつ、華夷思想を克服し、唐、元、明、清の世界帝国へと発展していった。中国文明の本質は、強い中央集権の維持と周辺国の活力導入による拡大志向である。中国の欧米並みの民主化は夢物語である。
辛亥革命により皇帝制度は崩壊し、それを受け継いだ中華民国も中華人民共和国も中国の古い政治体制を改革しようと努めてきた。試みはある程度成功したと評価していいと思われるが、皇帝制度の長い経験を通じて払拭できていない点もあり得る。
中国政府は“中華の復興”を唱えているが、それは世界に燦然と輝いていた過去の栄光への復帰である。外資及び技術という“現代の活力の源”の積極的導入は、過去の塞外民族の野生の血の導入と同意語であると思われる。台湾や韓国は、彼らが生き残るために、中国に積極的に進出し、投資を続けているが、それを歴史的に見ると、華夷統合理論のプロセス上にあると思われる。北京五輪開幕式で、世界のリーダー達が北京に集ったのは、中国のリーダーである胡錦濤からすると、中華帝国への“入朝”に見えたことであろう。
改革開放路線後、中国人民は共産主義体制の禁欲から解き放たれ、消費欲望を駆り立てられている。世界の石油と食糧を飲み込んでしまうのではないかとさえ危惧される。
中国の歴史を概観してきたように、統一の次には必ず分裂期がやってくる。それがいつか、どのような形かを予測することは難しい。
日本は7世紀の建国以来、中国に対して留学生を派遣しつつも、鎖国政策をとり国書を持たせていない。入朝したこともない。これは中国文明に対する恐怖心や違和感または不信感があったためであろうか。それは現在でも、日本人の心の底に色濃く残り、払拭されていないのではなかろうか。しかし、中国は世界のシステムのなかに組み込まれているので、諸外国との協調以外には生き残るすべは持たない。中華の復興は、伝統的な皇帝システムに回帰することでは決してないはずである。中国はどこへ行こうとしているのか。中国人でさえ、分からないまま驀進しているように思える。中国は、内なる皇帝制度と世界システムのなかの中国という矛盾をどのように克服するのであろうか。
世界中の国々は、中国の歴史的特徴を学び、台頭する中国と向き合う上での自らの行動指針としていくべきであろう。