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【10-02】教育こそ中国経済発展の原動力

柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員)     2010年 2月22日

 30年に亘る中国の「改革・開放」政策は著しい経済発展を成し遂げ、今年にGDPの規模が米ドル換算で日本を追い抜いて世界二位になるのが確実視されている。30年前の中国経済は今日の北朝鮮とよく似ていて、物不足により食糧などについて配給制が実施されていた。わずか30年で中国経済はどのようにしてここまで成長したのだろうか。

 中国経済発展のメカニズムについて、経済学的な解説として経済の自由化により市場メカニズムが機能するようになり、資源配置が徐々に合理化するようになったためだといわれている。問題はどのようにして資源が確保されているのだろうか。とくに、経済発展にとって不可欠な人材資源がどのように確保されているかはポイントである。

「改革・開放」政策の始まり-教育改革

 諸外国では、中国の「改革・開放」政策は鄧小平が行った市場開放から始まったものと思われているが、実は、ほんとうの意味での市場経済構築への方針転換は1977年に行われた大学一般入試の復活が始まりだった。それまで、中国では大学の学生募集は公開入試によるものではなく、勤め先の共産党組織の推薦によるものであった。大学進学推薦の基準は本人の成績ではなく、親が共産党員か反革命的な右派かという「成分」が重要な決め手だった。成績のよい若者は大学に進学できず、国全体の教育レベルが下がる一方だった。このことは結局、国民経済が大きく後退する遠因になったのである。

 中国にとって、1966年から76年までの10年間はまさに失われた10年だった。学校教育が荒廃し、若者の多くは農村へと「下放」された。経済学的に考えれば、農業に従事する労働者が増えれば増えるほど、農業の労働生産性が低下する。77年、鄧小平は「改革・開放」の突破口として、従来の共産党組織の推薦による大学進学制度を廃止し、本人の成績を基準に優秀な人材を抜擢する公開入試制度を復活させた。

 一昨年、中国で上映された「高考、1977」(大学入試、1977)は当時の推薦制から公開入試に変わるプロセスと中国社会がそれによって受ける影響を描いた映画で話題を呼んだ。公開入試制度の復活は若者に比較的公平に競争するチャンスを与え、中国社会で勉強の熱を高めたのである。

「望子成龍」の儒教思想

 もともと中国社会は儒教思想の影響により教育にはたいへん熱心である。古い諺には「望子成龍」という言葉があり、親は子供が勉強して出世するのを望む気持ちの現れである。貧しい家でも、子供の勉強のためなら、皆が節約することは習慣になっている。

 中国では、家計の貯蓄率は3割ぐらいと高いレベルで推移している。「なぜ貯蓄を増やすのか」とアンケート調査したところ、やや意外な答えが返ってきた。それは、中国の親が自らの老後の生活の足しにすると答えず、子供の教育費にあてるために、貯蓄を増やすと答えた。恐らくは教育に無関心な民族は明日がない。

 大学の公開入試制度の復活をきっかけに、中国社会では、勉強の熱は一気に高まった。まずは、中学校と高校は日本の偏差値のような発表こそないが、大学の進学率によってランク分けされる。それだけではない。クラスレベルでも、生徒は成績順に並べられ、その情報が全部公開されている。その考え方は生徒がもっと勉強するようにモチベーションを上げることのようだ。

 現在の中国社会を考察すると、格差は大きく拡大している。富裕層の家庭は子供のために、優れた家庭教師を雇ったりして、子供は勉強の条件について有利のようにみえるが、内実は必ずしもそうではない。富裕層の家庭では、現状の生活に満足し、ほしいものは何でも手に入るため、苦労して勉強しようとする原動力がいくらか弱い。

 それに対して、貧しい家庭、とくに農民の家庭では、子供にとり勉強して大学に進学することは人生の階段を登るようなものである。富裕層の子供は親の監督がなければ、真面目に勉強しないのに対して、貧困層の子供は自ら努力して勉強する。

 無論、大部分の貧困層の子供は大学に進学することについて経済的に許されないため、断念せざるを得ない。公開入試に参加する機会について公平になっているが、格差の拡大により家庭の経済状況はそれぞれ異なり、勉強したくても大学に進学できない子供も多い。

 マクロ的にみて、学校の進学について競争が激しいため、学生の勉強の緊張感が一応保たれている。要するに、現行の教育システムに問題がないわけではないが、大学への進学を目指す若者は激しい競争に鍛えられると同時に、やる気のある若者は大学に進学し、大学は名実ともにエリート教育機関になっている。

行き過ぎた進学競争の陰

 客観的に中国社会を考察すれば、数千年の封建社会の影響の結果かもしれないが、それはやはり階層社会になっていく傾向が強い。過去60年間の社会主義の教育により、平等の思想が植えつけられ、貧困層も一応に負けずに頑張って富裕層に追いつこうとする。中国社会の至る所に満ちた上昇志向こそ大学への進学競争を激化させている。

 実は、教育現場では緊張感が保たれることはいいことだが、行き過ぎた進学競争は様々な弊害をもたらすことになる。

 中国では、私立の学校は原則として認められていない。ほとんどの学校は公立のものである。しかし、公立の学校といってもそれは単なる学校の所有制を表すだけで、学校の授業料は年々高騰している。その結果、貧困層の家庭にとり、子供が頑張って進学できたとしても、学業を終えるほどの財力はない家庭が多い。

 一方、近年若年層の自殺率が高くなっているといわれている。進学競争の圧力に耐え切れずに、自殺するケースが増えている。毎回、テストの点数がすべて公開されるため、それに失敗した学生にとり、予想以上の重圧になる。学校も家庭も勉強を励ますあまり、学生の心理的なケアが十分に行われていない。

 何より、進学のための入試はパターン化された問題を解く力をみるためのものであり、学生の総合的な能力を評価するものではないことに問題がある。現状では、中国の若者は社会、学校と家庭からの圧力により受験勉強に懸命に取り組むのであるが、総合的な能力は必ずしも強化されていない。

 教育というのは実に難しい問題である。社会全体がそれに高い関心を払っているのは何よりのことである。「改革・開放」政策が始まってから、すでに30年経過した。鄧小平の号令が始まった大学の進学制度も時代の変遷とともに、その歪みも現れている。

 教育機会をすべての国民に均等に与えなければならない。また、中国社会にとり、エリート教育が問題というよりも、農村部を中心に基礎教育の普及が遅れていることが問題である。政府の力で基礎教育レベルをボトムアップすることが急務である。

人材獲得を巡る21世紀のグローバル競争

 考えてみれば、アメリカ社会の競争力は世界のエリートの人材を引き付ける優れた教育システムにある。中国は過去30年間公費と私費で海外へ留学した学生の7割は本国に戻らず、海外に滞在している(筆者もそのうちの一人である)。中国にとり、エリートの人材を育成することも重要だが、エリートの人材を引き付ける戦略を考えなければならない。

 実は、このことについて日本もまったく同じ問題に直面している。一流の人材を獲得した国は一流の国になっていく。日本では、先般の予算仕分け事業で「なぜトップにならなければならないのか」というコメントが出された。実は、一流の国になることは手段ではなく、目的でもない。一生懸命教育した結果である。

 おそらく日本にとって、教育システムの問題は基礎教育にないが、エリート教育が荒廃していることにある。小中学生の学力の低下は日本で問題になっているが、同時に、大学教育レベルの低下も予想以上に深刻化している。

 筆者の専門は経済学だが、日本の経済学教育の実状を考察すれば、理論も実証もままならないレベルに低下している。教育者はプライドを持たなければならない。現状では、真面目な教育者は減っており、テレビで軽いコメントしかしない評論家が増えている。教育者は金儲けのために奔走するようになれば、教育の使命は果されない。

 同様に、中国の大学でも似たような現象が起きている。大学の先生に対する評価はもっぱらfund raising(資金集め)によってなされる傾向が強まっている。また、学位を取得するために、他人の研究成果を無断で剽窃することも日常茶飯事になっている。このままでは、大家と呼ばれる教育者は二度と生まれないかもしれない。