【11-03】中国の「法外正義」
柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員) 2011年 3月30日
今回、日本で起きた震災は中国社会に大きな衝撃をもたらした。それは震災そのものの恐怖はもとより、地震が起きてから一般市民がパニックに陥らず、秩序を守るマナーの良さがテレビの前に座る中国人に深い印象を与えた。というのも、約1年前に上海で開かれた万国博覧会でパビリオンにズルして楽に入ろうとする一部の中国人の醜態とは好対照だからである。
中国政府も自国民のマナーの向上に手を焼いている。これまでの常套手段は政府によるマナー向上のキャンペーンが繰り返されてきた。しかし、公共場所における秩序の順守を呼びかけても、一部のマナーの悪い市民が公共の秩序を守らないことで、中国社会のマナーが一向に向上しないのは事実である。
1.劇薬としての「法外正義」
すなわち、政府による道徳喚起キャンペーンはまったく機能しないということである。学校教育のなかで社会秩序を順守しなければならないと教えられているが、マナーの悪い大人を毎日のようにみている子供は社会の秩序は守らないといけないと思わないはずである。
こうしたなかで、内陸の武漢市では、地元新聞「武漢晩報」は、信号を守らない、違法に駐車する、勝手に道路を横切る、勝手にゴミを散らかす、といったマナー違反の行為について、違反者の写真を新聞にモザイクなしに掲載することにした。しかも、違反者の実名と罰金の金額もそのまま公開される。その狙いは戒めのためだろう。
武漢市のこのやり方は偶然にも太平洋の向こう側のアメリカでも実施されている。ニューヨークのチャイナタウン(中華街)では、万引きなどの軽犯罪者について、もし犯罪者が罰金を払わなければ、その写真とID番号を地元新聞にそのまま掲載するとしている。この店側の自衛手段は明らかに法律によるサポートがないはずである。しかし、軽犯罪者が恥を世に晒すのを嫌がり、結果的にチャイナタウンでの万引きなどの犯罪が減少に転じているといわれている。このような「法外正義」と呼ばれる措置は明らかに正規の起訴に比べ、「効率的」といえる。同時に深刻な問題が残る。
武漢市はこのような犯罪(被疑)者の恥さらしをテストし、効果が上がれば、その適用範囲をこれから広げようとしている。たとえば、建設業者が残土を勝手に捨てることで市民にとって大きな迷惑になっている。市民団体は業者にいくら抗議しても、一向に改善されない。これから残土を勝手に捨てる運転手もこの「法外正義」の対象にするといわれている。
2.法の無力化の結果としての「法外正義」
中国では、法を無視するのは今から始まったことではない。文化大革命中、毛沢東の後継者とも指名されていた劉少奇国家主席が紅衛兵と呼ばれる若者に捕まり、迫害を受け、非人道的なリンチを受け死亡した。劉少奇が最後まで紅衛兵らに訴えたのは「私が国家主席だ。憲法によって守られている」との言葉だったといわれているが、それを聞き入れる若者は誰一人といなかった。何の法的手続きを踏まえず、国家主席が若者によって迫害され死亡した。
無論、それはあくまでも極端な事例である。今は、さすが国家の指導者がこうたい「法外正義」の犠牲になることは考えにくい。しかし、一般市民や軽犯罪の被疑者が「法外正義」の犠牲になることは依然日常茶飯事である。
同じ内陸の省では、公安警察は捕まった売春婦と買春の男を罰するために、トラックに乗せ、市内を一周させた。中国では、売買春はいずれも犯罪行為である。しかし、こうした犯罪行為が裁判所の認定がなく、警察が罰則を下すのは明らかに行き過ぎた行為である。
市民感情からすれば、このような恥さらしの罰則方法はほとんど抵抗なく受け入れられている。しかし、法理学的に考えれば、やはり問題が多く、人権が勝手に侵害されているといわざるを得ない。しかも、このような恥さらしのような罰則は必ずしも戒めの効果を発揮できない。現に、中国での売買春は増え続けている。
3.司法制度の構築と法治国家
繰り返しになるが、このような「法外正義」の措置は明らかに違法である。裁判所以外の第三者は犯罪被疑者を罰することができない。たとえそれが一般の市民によって支持されているとしても、である。
今年、全人代のスポークスマンの李肇星氏はその記者会見で、「我が国の法整備はすでに依拠する法律がほとんど整備されている」と豪語した。しかし、ここで指摘したいのは、法整備は依拠する法の条文を整備することも重要だが、法の施行は何よりも重要である。中国社会の現状を踏まえれば、法の条文が不十分ではなく、法を無視する行為が多すぎるのは問題である。「法外正義」はその典型例といえよう。
中国は人治社会から法治社会へ転換するとすれば、このような「法外正義」の措置をこれ以上広げるべきではない。確かに、法律が機能しない場合のむなしさがあるが、行政とメディアの職権乱用を認めるべきではない。
この議論の延長線上にあるのは、たとえ犯罪被疑者であってもその基本的人権が守られなければならないということである。ある犯罪行為に対して、市民の怒りが高まるからといって行政とメディアが裁判所の代わりに勝手に犯罪被疑者を罰則すると、必ずといっていいほど冤罪が生ずる。しかも、信号を守らなかったような行為に対して、肖像権のはく奪による社会の制裁を受けさせるべきかどうかの判断は裁判所以外の第三者が下すべきではない。
最後にこれらの軽犯罪者が社会の秩序を乱す意味で決して許される行為ではない。しかし、それを罰則するならば、法整備を強化するしかなく、とりわけ、司法制度の強化が重要である。