【19-04】日本人の幸福度と中国人の幸福度
2019年5月17日
柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員
略歴
1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員
国連の関連団体が公表している幸福度ランキングによると、中国の幸福度は2012年112位から2018年の86位に上昇したといわれている。この間、中国の経済が著しく発展したことが要因なのかもしれない。同時に、習近平政権において反腐敗に取り組んだことも、幸福度の向上に貢献したのかもしれない。
一方、同時期の日本人の幸福度は世界の44位から54位に下がってしまった。アベノミクスによって雇用が改善され、景気もよくなったはずだが、なぜ日本人の幸福度は逆に下がってしまったのだろうか。
そもそも幸福度は客観的に図れるものなのだろうか。筆者が兼職する大学の講義で50人の学生に「幸せと感じている人、手を挙げてください」と聞いたところ、大多数の学生が手をあげた。そのなかの何人かに、どうして幸せと感じているかと聞いてみたら、家に帰って、暖かいご飯を食べられるから幸せと答える学生がいた。またなかには、とくに何かがほしいというわけではないので、不幸せと感じていないと答える学生もいた。すなわち、不幸せと感じていない状況はイコール幸せと考えているようだ。
日本人は全般的に欲が浅いのは事実である。最近の若者の多くは車やマイホームがほしいと思わないといわれている。経済学者は若者の無欲さは日本人の消費意欲を押し下げ、景気悪化の原因と指摘している。
それに対して、中国人の貪欲さは恐ろしいぐらいである。先日、南京へ里帰りしたとき、成田空港からの直行便を利用した。日本人の乗客はほとんどいなかった。搭乗を待っていたとき、日本に観光に来た人たちはすでにたくさんの荷物を抱えているにもかかわらず、搭乗口近くの売店でまたチョコレートなど買っていた。彼らの目をみると、観光客ではなく、まるでハンター(狩人)のようだった。
国連がどのように幸福度を定義しているかは定かではないが、中国は、社会の現状を考察すればわかるように、高齢者の介護や医療保険などの社会保障問題が解決されておらず、深刻な社会不安になっている。現役世代は高額の住宅ローンを抱え、そのうえ、子どもの教育などの経済的負担も重い。さらに、子どもも決して楽な生活はしていない。少しでもよい大学に入れるように、毎日学習塾に通い、大量の宿題をこなさなければならない。
今の中国人は30年前と比べて、経済的にずいぶん豊かになっているが、その分、欲望も増幅している。中国人は同僚や隣人と比較しがちである。同僚の飲み会や同窓会のとき、たいていの話題は自分が何平米のマンションを買ったのか、どういう車に乗っているのかである。要するに、自慢話するのは趣味のようなものである。中国人は過去の自分と比べるのではなく、同級生や同僚と比較する。中国人の上昇志向は世界一のはずである。
欲望の強い人は欲が満たされなければ、生活を幸せと感じない。逆に、欲望の少ない人は満たさないといけない欲がないので、不幸せと感じない。
振り返れば、1990年代初期のバブル崩壊以降、日本では、バブルが起きていない。この間、政府と日銀は財政出動や金融緩和などの景気刺激策を繰り返して実施しているが、内需が振興されない。原因の一つは日本人の強い平等意識にある。要するに、ほかの人よりも突出して広い家に住むとか、高級車に乗るとかは日本社会の通念として自己抑制されているように思われる。
日本の企業に入ってみればわかることだが、一部の大企業は成果主義の評価方法を実施しようとした。しかし、そのいずれも成功していない。従業員の成果を評価する会社の幹部は格差が拡大してはいけないという先入観をもっている。したがって、評価の結果がそのまま、報酬や給与に反映されるのではなく、なるべく格差が拡大しないように調整される。そのため、多くの企業は従業員の評価結果を非公表にしている。
昔、中国に進出したある米系企業を見学に行ったことがある。パソコンを作るメーカーだが、会社の壁に設置されているメインボードにはたくさんの写真が貼られていた。一番上の写真のサイズが一番大きい。一番下のほうをみると、写真がなく、たくさんの名前のみが書かれている。支配人に聞いたら、それは従業員に対する評価をあらわしているという。写真が一番大きい人は成績が突出してよかった。逆に成績がよくない人は、写真がなく名前だけ書かれている。報酬(ボーナス)はこの評価に完全に連動している。なるほどと思った。
中国社会では、人生は競争である。日本社会では、人生は競争ではなく協調であり、会社では同僚との協調である。日本人は競争心が弱く協調するのが特技のようなものである。中国人は協調などできっこなく、すべては競争である。競争に勝った人は中国社会の勝ち組になる。しかし、いつの時代も同じだが、勝者は一握りの人だけである。その結果、負け組の親は自分の夢を子どもに託し、少しでもいい大学に入れるように頑張らせる。そのせいもあろうか、極論かもしれないが、中国ほど教育熱心な親をみたことがない。
振り返れば、毛沢東が指導した1949-76年の27年間はいわば禁欲主義の時代だった。78年から「改革・開放」政策が始まり、経済の自由化とともに、中国人の欲望も乗数的に拡大していった。その欲望は自分の能力を遥かに上回るようになった。国連の調査は別として、多くの中国人の幸福度はそれほど高くないはずである。幸福度が低いもう一つの原因は安心感がないことにある。たとえば、共産党幹部がたくさん賄賂をもらって、富豪になったとしても、決して安心した生活を送ることはできない。社会主義の中国は国民に対して安心感を担保しなければならない。それは共産党が課されている責任である。
一方、日本社会では、たとえ負け組になったとしても、最低限の社会保障が用意されているので、心配は要らない。しかし行き過ぎた社会保障と平等意識は、人々のやる気を阻む可能性がある。日本人の若者のやる気をいかに喚起するかが日本社会の課題である。