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【20-06】教育と憎しみ、社会安定の条件

2020年9月08日

柯 隆

柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員

プロフィール詳細

 2020年7月30日、台湾元総統の李登輝氏が病気のため、死去した。個人的に台湾に行ったことがなく、台湾の政治指導者に関するニュースに接しても、ピンと来ない。筆者にとって、台湾といわれたとき、なんともいえない、簡単に縮まない距離感がある。なぜならば、1970年代、故郷南京で受けた小中学校の初等教育において、台湾に逃げた国民党は「反動派」といわれ、社会主義中国にとっての敵対勢力と教え込まれているからである。とくに、蒋介石は「反動派」かつ腐敗分子の代表格であり、親近感はなかなか沸いてこない。

 32年前に日本に留学に来てから、中国の近現代史を勉強しなおし、小中学校のときに受けた歴史教育がどれだけひどいものか、ようやくわかるようになったが、小さいころ心のなかに植え付けられた蒋介石と国民党への憎悪感を払拭することは簡単ではない。これは教育、とりわけ基礎教育の恐ろしさといえる。

 小さいころ、学校の授業以外に、やることがないので、絵を描くことが好きだった。そのとき、お小遣いを貯めたら、美術館に絵画展を観に行くことが多かった。当時の絵画展のほとんどは革命を題材にするものだった。社会主義中国で創作された油絵のなかでもっとも有名な一枚は「開国大典」という社会主義中国の建国を祝う作品だった。1949年10月、毛沢東主席は天安門のうえに立って「中華人民共和国が成立した」と宣言したシーンを描いたものである。この絵の構図はきわめてシンプルなもので、スタンドマイクの前に立つ毛の両側に劉少奇、林彪、周恩来などの戦友が並んで立っていた。

 この絵は毛に絶賛されたが、作者の董希文氏にとってのちにたいへん面倒なこととなった。なぜならば、毛はそれからの20数年間、天安門にいっしょに立っていた盟友のほとんどを追放してしまった。作者の董はそのつど、追放されたリーダーたちをこの絵から削り取って修正しなければならなかった。その作業は決して簡単なことではなく、一つでも間違ったら、政治問題となるからである。中国の社会主義の歴史は史実よりも、この絵のようにそのときの政治的必要性に応じて恣意的に書き換えられている。そのプロセスのなかで人民の心に政敵への憎しみが植え付けられている。

 想像するにはそれほど難しいことではないが、憎悪感のなかで育った若者は煽られやすく暴力的になりがちである。これまでの20年間を振り返れば、中国で、反米、反日、反独、反仏、反韓などの抗議活動が繰り返された。若者を中心に愛国を口にして敵国の工場、店、商品を手あたり次第破壊した。また、中国国内のインターネットのウェブサイトをみると、国際社会で禁止されているヘイトスピーチもたくさんある。とくに問題なのはこうした事件が起きるたびに、外交部スポークスマンが記者会見で問題の原因が相手国にあると言い放つ。要するに、相手国が中国を「挑発」しなければ、中国の若者も暴力的な行為に出ないという意味である。この論理の問題点は外国政府の「挑発」を自国の若者の暴挙を正当化する理由にすることにある。

 たとえば、日本の首相が靖国神社を参拝することが、中国人の若者が中国にある日系企業と日系スーパーを破壊することを正当化する理由になるかである。

 中国では、インターネットが厳しく管理されており、少しでも政府を批判していると思われる書き込みをすると、すぐさまネット管理者によって削除されてしまう。しかし、SNSのサイトをみると、個人攻撃、ヘイト、侮辱の言葉遣いなどで充満している。極論すれば、SNSサイトは言葉のごみ箱または下水道のようなものになっている。これは人民の基礎教育と道徳教育のレベルを如実に表していると思われる。

 現在、新型コロナウイルスの感染拡大により、在宅勤務が増えている。その関係で昼間、時間があるとき、ラジオを聞くと、NHKラジオは大学教授の物理学者や生物学者などを招いて、幼稚園児や小学生などに質問を答えてもらう番組がある。こういう課外授業は知識を普及するだけでなく、子供の感性を豊かにすることができる。そのなかから憎しみは絶対に生まれてこないはずである。

 教育の力とは、悪い種を植えれば、悪果が実ることになる。それに対して、良い種を植えれば、良い果実が実る。新型コロナ危機をきっかけに中国社会に潜んでいるさまざまな問題が露呈している。これらの問題を指摘し明らかにすることは中国政府を批判するのではなく、問題を一つずつ解決する糸口にしたいと考えることである。

 まず、教育の使命は人々の心に悪を植え付けるビヘイビアではない。想像すればわかるように、一つの社会が極端な利己主義になれば、その社会は安定するはずがない。したがって、教育は人々に善を教えるための行為であるべきである。

 そして、教育は利己主義の罠に陥ってはならない。今の中国は受験勉強が中心となる社会になっている。大学受験に役に立つ勉強でなければ、基本的に誰も勉強したくない。しかし、大学受験のテクニックだけ身に着けた若者は大学に入って、ほかの人と協調しないため、中国社会はますます助け合う精神を欠如し、互いにヘイトになりがちである。

 さらに、教育自治、すなわち教育の独立性を確立すべきである。教育は政治に翻弄されるべきではない。この点について戦前の日本は苦い経験がある。中国もかつて文化大革命(1966-76年)のとき、教育が荒廃し、紅衛兵と呼ばれる中学生と高校生たちは「造反有理」を毛沢東護衛の大義名分として教師たちを迫害した。

 振り返れば、「改革・開放」政策の起点は1977年と78年に進められた大学受験の再開だった。それまでは、大学の進学は工場労働者と農民のなかから共産党への忠誠心をもとに推薦され進学していた。学力がない者が推薦され進学しても、まともな勉強ができない。77年以降、受験が再開されたのを受けて、中国の若者は努力さえすれば、人生の階段を上ることができるようになった。しかし、受験をもって人材を選抜するのは教育のすべてではない。教育の本筋はいかに善を教え、人生を豊かにするかである。

「改革・開放」政策が始まってから、すでに40余年経過した。教育を含めたすべての制度改革について再度点検して、再出発するタイミングになっている。この40年間、マクロの経済発展を成し遂げられたが、格差が拡大し、社会不安が増幅している。社会の安定を維持するには、善を教える教育が不可欠である。