路は漫々として其れ修遠なり、吾 将に上下して求索せんとす
路は漫々として其れ修遠なり、
吾将に上下して求索せんとす
序
まわりの同級生や友人がアメリカやカナダへの留学あるいは大学受験の準備で忙しくしている時期、私は深い縁のある日本という不思議な国への留学を決め、なかでも有名な早稲田大学を選んだ。2007年8月、私は日本で学ぶための長い道のりにその第一歩を踏み出した。
日本、東京
私の母方の祖父は、上海市外事弁公室の職員として上海市と横浜市との友好都市締結のための業務に参加し、また母は日本に一人で10年近く生活した経験があ り、私は「ABCD」を学ぶ前に「あいうえお」を覚えていた。そのため、私は上海生まれの上海育ちであるが、日本は私にとって決して未知の国ではなかった。
成田空港を出て電車に乗り車窓から東京の景色を見ると、10年の時間が手をひと振りしただけの時間のように感じ、10年前とは何の違いもないように思え た。10年前私が初めて日本を訪れた時と同じように整然とした家屋、同じように狭い道、同じように笑顔で会釈する人々、同じようにささやくような話し 声...。だが山手線に乗り換えると、私は自分の間違いに気づいた。鮮明に駅名を表示する電子スクリーン、ほとんど誰もが持っている携帯電話、耳にはイヤホ ン、独特な厚化粧の少女、混雑した車内の日本人以外の外国人など、いたるところで科学技術が進歩した社会発展の様子が反映されている。東京の変化は上海ほ ど速くはないにしても、最新テクノロジーが人々の生活の中に浸透し、文明の進歩が各方面に見られ、東京は依然として繁栄する大都市の息吹を発していた。
腰を落ち着けるやいなやさまざまな手続きに追われることになったが、そのつど新たな発見があった。銀行口座を開くため東京三菱UFJ銀行に行ったときに は、混みあう時間帯や曜日を示す貼り紙を窓口カウンターに見つけた。昨日混んだと思えば今日はがらがら、という中国の工商銀行での光景を思い出すと、日本 人の細かい気遣いには感心せずにはいられなかった。後に中科集団CEOの東京視察に同行することがあったが、そのCEOも日本人の細部にわたる管理の正確 さと厳しさを賞賛したほどだった。あるいはこの「さらに改善、工夫を重ねる姿勢」は、初めて日本に来た中国人がまず受けるレッスンかもしれない。
日本は祝日がとても多く、学生に春、夏、冬の長期休暇があるほかに体育の日、成人の日などさまざまな祝日がある。こういった休みを利用して私も東京のあち こちを見て回った。山手線の沿線はどこもにぎやかで、しかもそれぞれの街に特色がある。早稲田近くの高田馬場から南に向えばそこが新宿。新宿に初めて行っ た日、この豪華な迷宮に私がどれほど驚いたことか。東急ハンズには思いつく限りのものが売っているし、高島屋のブランド品には目もくらむほど。無印良品の シンプルでおしゃれなデザインは私を虜にしてやまない。それから伊勢丹地下1階の食品街、その美しさはこの上ない。この東京という都市、この新宿という街 は、シャネル5番の香りを撒きながら視覚、聴覚、味覚、嗅覚を刺激する。そして銀座ではこの物質欲が極点まで膨らむ。高級ブランドの旗艦店がここには砦を 築いている。i-podの店を一回りするだけでも十分に楽しめる。日本では、女性におけるルイ・ヴィトン、グッチ、コーチといったブランドバッグの普及率 は、男性におけるPSPの普及率と同じで、それを凌ぎこそすれ及ばないということはない。銀座を見て、私は日本人のブランドへの追求をやっと理解すること ができた。この追求は銀座を着地点とし、また銀座を出発点とするのかも知れない。しかし後になって、実は新宿がさまざまな表情を持っていることに気づい た。たとえば歌舞伎町は、高島屋が持つものとはまったく違う雰囲気を放っている。そのにぎやかさはむき出しの欲望で彩られたものだ。森山大道が新宿を貧相 だと言うのもそのためだろう。渋谷も大きな繁華街だが、新宿と違ってここは若者のための場所だ。ここには思い思いに着飾った若者たちが集まる。パンク風あ り、ロリータあり、前衛ファッションのオンパレードだ。有名な109ビルに行けば今年の流行最先端の服が手に入る。しばらく後にはそのスタイルが中国でも はやるのだ。109-2には、私にも忘れられないハローキティストアがある。この店の目印ともいえるのがハローキティの自転車。これはハローキティ愛好者 の夢だろう。私はやはり日本人に敬服せずにいられない。商業化を心得ているのは本当にアメリカ人だけなのだろうか。かの国に世界一有名なネズミ、ミッキー がいるなら、日本には世界一有名なネコ、キティがいるではないか。新宿、渋谷と比べて、恵比寿はいっそうきれいで華やぎのある場所だ。恵比寿の魅力はにぎ やかさではなくロマンチックさにある。恵比寿ガーデンプレイス中央の巨大なシャンデリアは、まるで恵比寿がもつロマンチックな雰囲気をそのまま代弁してい るようで、その美しさに女の子なら誰も心にロマンスを思い描かずにいられない。それから買い物をするなら池袋、電気機器は何でも秋葉原、斬新さの六本木 に、壮大で歴史の息吹あふれる皇居、きらめく東京タワー...東京にはまだ歩きつくせない場所と見終わらない風景がある。私にとって東京は、多彩な魅力に満ちている。
早稲田大学
早稲田に受かった日の興奮と喜びは今も忘れられない。早稲田は日本や中国でだけでなく、世界的にも有名で、多くの企業家、政治家、スターを輩出している。
大学への憧れと早稲田への敬慕を胸に、私が初めて早稲田大学に足を踏み入れた日のことだ。早稲田大学の姿は、私が何千回想いめぐらせてみたとしても想像が つかないようなものだった。それは早稲田のキャンパスが大きすぎるからではなく、この有名大学に「早稲田大学」という名前を掲げる大きな看板もなく、塀や フェンスすらもなかったからだ。以前、アメリカのハーバード大を見たことがあるが、その赤レンガの学舎はとても美しいものの、ひしめく壁がその象牙の塔を 外界から遮っていた。マサチューセッツ工科大(MIT)でも、大学名こそ目立たないもののアルファベットの一文字一文字が建物の最上部に整然と並んでい た。しかし早稲田大学はそれとは異なる。早稲田の正門を探すというのが実は非常に難しい。というのも、門らしい門がないばかりか表示もなく、ただ道を挟ん で立つ学舎が迎えてくれるだけなのだ。ほかにはただ、正門から程近いところに早大の創始者大隈重信の像があり、その正門の向かい側にある早大のシンボル時 計塔と遠く離れながら対をなしていて、ほかとは違う早大の非凡さを体現している。早大には125年の歴史がありながらなおカビ臭さはなく、キャンパスで生 き生きとした草花や、そびえる木々のように活気を放っている。
全講義を英語で行う国際教養学部という学部を開設したのも、早稲田の大胆な試みの1つだ。東大や慶応大でさえこうした学部はまだ設けていない。早大の国 際教養学部には世界各地からの学生が集っている。白・黄・黒の肌、黒・黄・亜麻色そして赤い髪、英語・日本語・中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語にス ペイン語、ここはまるで小さな国連のように、それぞれの文化をもつ若者たちが理想を抱いて世界のあちこちから集まり、交じり合い、とけ合う場所だ。私にも アメリカ、日本、シンガポール、それにパプアニューギニアの友達までいる。私はここで外の世界を見、そして世界に向って中国を伝えている。
早大でもっとも有名なのは部活動である。入学式の日にさっそく私は早大部活動のパワーを目の当たりにした。まずはグリークラブの合唱。彼らの歌声はとても真剣で、体中の神経と筋肉を総動員して最高の歌声を生み出す。続く応援部はさらに印象的だ。
応援部の先輩たちは黒ずくめの服装で厳しい顔つき、きびきびとした動作に「ワセダ、ワセダ、ワセダ、ワセダ...」 の歌声を合わせて私たちの心を揺さぶる。最後は交響楽団の演奏。そのバイオリンはまるでささやくようで、プロのレベルにも迫るほど。さすがは早大!と私は 心密かに感心してしまった。早稲田で過ごすうちに、ここに来られた幸運をよりいっそう感じるようになった。
日本はこんなに近い、文化はこんなにも似ている、けれど来て見てみればたくさんの新発見があり、同じアジア文化という背景の下での差異を経験し、さまざまに 優秀な人たちと1つのキャンパスにいる。すると、突然目の前がぱっと開けるような感じがするときがある。それはまるで山登りのよう。上に登れば登るほど視 界が開けてきて、自分の存在の小ささ、これまで大問題だと思っていたことのつまらなさに気づき、そしてさらに上を目指したくなるのだ。
早稲田はハード面でも一流だ。中央図書館は私の一番好きな場所の1つで、蔵書は非常に豊富だ。何千何万という日本語の本のほかに英語や中国語の雑誌、書 籍も多く、中国の二十四史まである。ここでは世界各地の新聞も読め、世界の脈拍をこの図書館で感じとることができる。ICC(国際コミュニティセンター) も面白い施設で、ここにある8台のテレビでは、アメリカ、中国、韓国等のテレビ番組を放送している。こ こで初めて「魯豫有約」を見たときは驚きを抑えきれなかったし、同時に国際化の本当の意味を知ったように思う。ここは早大中のあらゆる国際資源の集結地 だ。ここに来るのは日本人よりも外国人が多くて、私もここで外国の友人がたくさんできた。"日本人の友達とはペアを組んで、彼に中国語を教え、彼からは日 本語を教わっている。ICCでは、チャイニーズ・フェスタ、カフェ・タイ、ジャパニーズ・フェスタなど定期的にイベントを開催している。私もチャイニー ズ・フェスタの準備作業に参加した。北京大学からの交換留学生たちといっしょに、中国のはるかな歴史と文化について外国の友達に紹介し、日本の学生たちと カラオケで一晩中中国ポップスを歌ったりした。ICCには異文化交流があり、楽しみがあり、そして開放的な雰囲気がある。
早大にはまた、数え切れないほどのクラブやゼミがある。各クラブは練習の成果を発表することもあるが、その代表的なものが早稲田祭だ。早稲田祭は、年に 一度各クラブにスポットライトが当たる舞台なのだ。雑技クラブは1号館の前で雑技を披露し、WIF(Waseda International Festival)に参加している外国出身のメンバーは次々と自国の伝統舞踊を踊り、大小さまざまなクラブが模擬店を出す。さらにそのそばではアコース ティックバンドが演奏をしていて、縁日よりももっとにぎやかだ。この日は多くの早大OBも母校を訪れるが、流行のお笑い芸人小島よしおもやって来てライブ をした。大隈講堂前に組まれた舞台の上で応援団がもう一度校歌を歌い始めたころ、私の中の早大への思いはまたいっそう深まっていった。舞台の下では、白髪 頭のOBたちが早大の学帽をかぶり、歌声を応援団に合わせながらかつての青春を呼び覚ましている。早稲田祭は一年一年引き継がれ、人の輪を繋げていく。学 部や年齢を問わず、早稲田を愛する気持ちさえあれば誰でもここに参加できる。早大の講座も貴重な資源といえる。著名な学者による講義のほかに、各界の専門 家を招いた講演会も開かれる。かつてアメリカの元国務長官パウエル氏が、リーダーシップについての講演をしたこともある。運がよければ、胡錦濤主席の姿 や、福原愛と王楠の試合会場外での対戦も見ることができるかもしれない。
早稲田は、知識を得て成長するための学校というよりも、巨大な舞台と呼ぶほうがふさわしいだろう。歌い、踊り、自分を表現する度胸さえあれば、その舞台 で演じるチャンスは必ず与えられる。そしてそれを重ねるごとに私たちは成長し、早大OBの尊敬すべき先輩方に近づくことができる。四川大地震が発生したと きには、私たち留学生も被災地の同胞たちの状況を昼も夜もなく注視し続けた。多くの友人が居ても立ってもいられず、中国のために、四川のために何かしたい と思っていた。そればかりか、中国のため力になりたいと申し出る日本の友人も少なくなかった。日本は地震の多い国で、ほとんどの日本人が大なり小なりの地 震を経験している。だから中国の被災者に対しても自分のことのように感じるのだ。そこで私たちは早大募金を実施することにした。まずは学校の許可を求めよ うと学部長を訪ねると、学部長はWAVOC(早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター)を教えてくださった。私たちがWAVOCに着いたころにはもう 終業時間近かったが、担当の方は私たちの姿を見るとあたたかく迎え入れ、私たちが何を計画し、どんな願いを抱いているか話し終わるまで根気強く耳を傾けて くださった。そして、私たちと大学側と三者で数日後に話し合いの場をもうけ、募金について具体的に決定することを提案された。 大 学のサポートの下、募金活動は順調に始まった。大学からは、募金のための場所や机、椅子、募金箱などをお借りし、義援金受付口座まで開設していただいた。 授業の合間にはみんなが自発的に募金箱の場所に集まり、旗を振って叫びながら募金を呼びかける者もあった。四川の人たちに、物質的な支援のほかに精神面で の励ましもできるようにと、ポスター、看板、メッセージカードなども準備した。私たち中国人学生、そして少なからぬ日本人学生の尽力の甲斐あって、2週間 で約200万円の募金が寄せられ、この間の努力は最高の形で報われた。集まった義援金は学長から在日本中国大使館の大使に手渡され、私を含む3名の代表が メッセージカードと学生たちの声を大使に伝えた。早稲田大学がこのような機会を与えてくれたおかげで、私たちが思いを果たすことができたことをとても感謝 している。学生に対する早稲田大学の支援というものを、私は身をもって実感した。このような支援によってこそ、多くの偉大な夢が実現し、偉大な人物が輩出 していけるのだと思う。
留学
留学の意義はと問われれば、多くの人が外国語の習得や異文化の吸収を思いつくだろう。しかし1年近くにわたる留学生活を経て私が思うのは、それは 留学によって得られるほんの一部分でしかないということだ。留学の本当の意義は、成長、そしてより広い世界の発見にこそあると思う。
中国の子供はほとんどが一人っ子だ。家では甘やかされ、勉強だけが生活の柱。そんな私たちが日本にやってきて、ある者は学生寮に入り、寮から大学まで毎日 往復2、3時間、時には通勤ラッシュにぶつかってすし詰めで通っている。中国での父母の送り迎えつきの通学と比べたらまるで天と地の差だ。私は早くに寮を 出て大学近くに住んでいるが、生活のすべてについてやはり自分で面倒を見なければならない。引越し、家具の購入、部屋のしつらえにはじまり、住まいが落ち 着けば毎回の食事を何にするかに頭を悩ませなければならない。家に居たころは、今日は何を食べたいかと母に聞かれてもいつも生返事しかせず、食事のときも あれこれと好き嫌いしていたことを思い出すと、実に恥ずかしい限りだ。これを機に、私も買い物、洗濯、炊事に忙しい「主婦」になって、怠け癖を改め、自立 するようになった。私は日本に来て成長し続けている。
中国人留学生のほとんどにはアルバイトの経験がある。日本人学生でもアルバイトするのはごく普通のことで、新宿区内の一般的な仕事であれば、時給 は850〜1,000円程度だ。早稲田大学生協の統計によれば、早大生のアルバイト収入は、月平均で5万円近くだという。日本の大学生がアルバイトに費や す時間はかなり多いといえるだろう。そして、私の周りの日本人学生たちはみな非常に節約している。それは彼らがお金を得るたいへんさをよく知っているから だ。このことも彼らの経済的自立の一面だろう。中国の「○老族(親のすねかじり)」(○は口偏に肯)のように、30歳近くになっても両親に頼って生活して いるのとは違う。
自分自身もこんな生き生きとした「刻苦奮闘・勤勉節約」の体験をし、経済的に自立していくため、私は中華料理店でのアルバイト生活を始めることに した。その店は小さいが、店員もお客さんもみな日本人。アルバイトは初めてでサービス業の決まりごとをまったく知らない私は言葉の心配をし、仕事について いけないのではないかという不安な気持ちをこらえきれなかった。だが店長の指導のおかげで、私は基本の「いらっしゃいませ」から注文をとるときの間、お辞 儀にいたるまで、お客さんに対する礼儀をすぐに習得することができた。私のメモ帳には、接客用語が1ページまた1ページと書き込まれた。仕事を終えて帰る といつもくたくたに疲れるが、心には充実を感じる。それまでの緊張がほぐれ去って替わりに自信が湧いてくる。今は、なぜ「不可能はない」のかが分かるよう だ。もちろん私がこうして順調にアルバイトを続けられるのも店長のおかげだ。私は店長から多くのことを学んでいる。特に彼の努力の姿勢には心を打たれる。 私のイメージの中で店長はいつも元気いっぱいだ。店は11時まで営業しているため、閉店時間は12時を過ぎてしまうのだが、店長は店に残り、椅子を並べて そこで休むことも多い。この店長の姿は多くのがんばる日本の若者たちの一例に過ぎないと思う。そうした彼らの努力と勤勉があるからこそ、日本経済の急成長 神話も実現したのだろう。言葉には国境があるかもしれない。文化にも国境があるかもしれない。しかしこのがんばる気持ちには国境はない。周恩来元総理も 言っている「中華の興隆のため奮闘せよ」と。私は繰り返し自分に言い聞かせる。日本留学は、この小さな国土で少しずつ積み重ねた貴重な収穫を、心の中で祖 国建設の力へと転化させるためのもの、そして、極端な考え方をもつ人たちの日本への誤解を解き、日中友好の道へ微力をささげるためのものなのだと。
留学がもたらしてくれた成長は、生活面でばかりでなく精神面でも大きい。私たちは長期間一定の場所で過ごせば現地の習慣が当たり前だと思い、比較 の対象がなければ良し悪しが分からない。まさに新東方の徐小平先生がこう言うとおりだ。「五千年の文化伝統における生活様式や考え方は、それが良かろうと 悪しかろうと、人々の生活をその中に紛れさせ、それに気づかせないものだ。私たちのように海外留学から帰国した者だけが、中国と西側のそれぞれの文化に浸 り染まるという独特の経験を経ている。私たちは過去のすべての習慣に対して懐疑と反省の念を抱いている。些事と人生のどちらに対してもおよそ自分なりの自 由で新鮮な観点を持っている。懐疑と反省という動力源さえあれば、改革と革新の意識が生まれる。そしてはじめて中国の発展を推進する力が生まれる。」中国 は発展していかなければならない。改革には新しい思想が必要だ。私たちのように異なる文化の中でもがいた経験がある留学生にこそ、別の目で中国を見、異文 化との比較を通じて伝統を打破し、新機軸を出していくことが可能なのではないか。