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【22-10】なぜ中国人科学者はノーベル賞を受賞できないのか

2022年07月11日

柯 隆

柯隆:東京財団政策研究所 主席研究員

略歴

1963年、中華人民共和国・江蘇省南京市生まれ。88年来日、愛知大学法経学部入学。92年同大卒業。94年名古屋大学大学院修士課程修了(経済学修士号取得)。
長銀総合研究所国際調査部研究員、富士通総研経済研究所主任研究員、同主席研究員を経て、2018年より現職。静岡県立大学グローバル地域センター特任教授、多摩大学大学院客員教授。
主な著書に『中国「強国復権」の条件』(慶応大学出版会、第13回樫山純三賞受賞)、
『ネオ・チャイナリスク研究』(慶応大学出版会)。

 これまでの40年間、中国経済は飛躍的に成長し、2010年にドル建て名目GDPは日本を追い抜いて世界二位になった。しかし、中国経済の飛躍的な成長とは反対に、中国人科学者はほとんどノーベル賞を受賞していない。アメリカ系中国人の受賞者が複数いるが、中国大陸、すなわち、中華人民共和国の科学者の受賞はこれまでのところ、2015年抗マラリア薬を発見した中国人科学者屠呦呦(とゆうゆう)だけだった。それ以外にノーベル平和賞一人と文学賞一人、計三人のみだった。中国の経済力とノーベル賞受賞の現実を比較して明らかに非対称的といわざるを得ない。

 一般的に、ノーベル科学賞の受賞者数はその国の科学力を表すものと受け止められている。中国の国力はもとより、最近、海外のマスコミでも報じる中国人研究者が執筆した科学論文とそれの引用数および中国企業と研究機関が出願する国際特許の件数のいずれもアメリカを凌駕し、世界においてトップレベルになっているとみられている。それでもノーベル科学賞を受賞したのはただ一人しかいない。なぜか。

 昔、中国国内メディアでは、中国人科学者がノーベル賞を受賞できないのはノーベル委員会の偏見によるものとの指摘があったが、最近、こういった陰謀論のような論調は中国国内ではほとんど見かけなくなった。ここでは、中国人科学者がノーベル賞を受賞できない原因をノーベル委員会に原因を追究するのではなく、中国の教育制度と研究体制を精査して原因を究明することにする。

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中国の科学研究体制

 歴史的にみると、中国の教育制度と研究体制についてもっとも特徴的なのは政府が教育と研究に直接介入してくるという点にある。かつて、毛沢東時代(1949-76年)、中国で教育による人材育成について「又紅又専」という基準が重視されていた。「紅」というのは政治的に共産党に忠誠し信頼に値する人材でなければならないという意味である。具体的にその評価にあたって、その人の出自や日頃の言動などが精査される。たとえば、親が共産党員であれば、加点される。一方、「専」というのは専門性、すなわち、専門知識が十分にあるかどうかが重視される。しかし、どんな専門知識について優れた人材であっても、共産党への忠誠が認められなければ、有望な人材と認定されない。たとえば、日常的に研究に没頭している科学者は指導者の談話を学習する政治学習活動に一言でも不満を漏らし、同僚に密告されてしまった場合、その人の評価に汚点が付き、研究費の申請にあたって不利な立場に立たされてしまうことがある。

 むろん、毛時代と比較して目下の中国社会はそこまで暗黒でなくなった。科学者ははっきりと政府批判さえしなければ、一言二言日常的な政治学習活動に不満をもらしても、研究予算の申請への影響はゼロではないが、それほど多くない。問題は政府による研究活動への介入、具体的に研究予算の配分や研究課題の選定など政府機関の審査によって決まるため、現場からのボトムアップが弱い。

 日本では、研究費の配分は二つの系統に分かれている。一つは政府の財源である。もう一つは企業などの民間財源である。政府の財源は基礎研究の強化に軸足を置いているのに対して、企業の財源は基礎研究と応用研究のバランスを取りながら研究を進めているようにみえる。

 それに対して、中国では、研究の財源はもとより研究の課題も政府のトップダウンによって決められている。中国政府は5年おきに五カ年計画を発表し推進している。そのなかに科学技術発展に関する計画が含まれている。政府の財源はこの計画に沿って配分される。国有企業や国家の科学研究院などの研究機関もこの計画に沿って計画を立てて研究費を申請し研究・開発が展開される。この計画に盛り込まれていない研究課題に取り組もうとする科学者は予算を申請しても、認められることが少ない。研究費を申請する科学者はプロジェクトの申請が政府に認められれば、成果が出なくても所属機関はもとより業界でもたいへんな名誉になる。

 問題は政府によるトップダウンの研究指南と財源の配分は往々にして研究活動を間違った方向へミスリードしてしまう恐れがあることである。なぜならば、政府は政治の必要性から研究プロジェクトを指南するからである。政治的に重要度がそれほど高くないと思われるプロジェクトの遂行が劣後になる。逆に政治的重要度が高いと思われるプロジェクトであれば、政府はあらゆる資源を動員してそれに取り組む。このやり方は専制政治特有のものである。毛時代の中国では、核爆弾の実験や人工衛星の打ち上げに成功したが、同時に食料不足で餓死者が多数出ていた。この点は今の北朝鮮もまったく同じである。

 ここで問われるのは、科学研究は誰のもので、なんのために行われるものかである。

 民主主義の国では、科学研究は基本的に国富を増やすためのものである。国費を使った研究プロジェクトについては、議会の審議が必要となる。その予算配分は100%適正であるとはかぎらないが、明らかに間違った予算配分が是正されることになる。それに対して、専制政治において科学研究は国威発揚のツールになっている。ときには、科学研究のプロジェクトは指導者のメンツと直結するものになっている。それは国富の増加につながるものでなくても、実行される。

中国の教育制度

 教育は百年の計と一般的にいわれている。40余年前に始まった中国の改革・開放は実は経済改革からではなく、教育改革から始まったものだった。具体的に、毛時代、すべての学校教育が中止され、若者たちは毛を護衛する紅衛兵となり、知識人の迫害に奔走した。鄧小平は実権を握るようになってから、まず取り組んだのは学校教育を復活させた。1977年、10年以上に亘って、中止されていた大学入試が復活した。実は、教育改革こそ改革・開放政策の一丁目一番地だった。

 1980年代、大学が少なかったため、大学進学率は5%程度と低かった。半面、受験生の進学熱が高く、進学する学生のレベルが高かったため、教育レベルを大きく押し上げた。だが、大学は10年以上も学生を募集しなかったため、政府は学校を管理する「ノウハウ」がなく、大学のキャパシティーを強化する方向へ動いた。中国の教育方針が大きく転換してしまったのは1989年天安門事件がきっかけだった。天安門事件は北京の大学生を中心に民主化を要求する学生運動だった。その学生運動が全国に広がりを見せるようになり、このままいけば、共産党一党支配体制が脅かされると思われ、当時の最高実力者だった鄧小平は人民解放軍を投入し、学生運動を武力で鎮圧した。

 それ以降、教育は野放しせずに、学生たちの思想教育が強化されるようになった。イデオロギー教育が強化されてから、大学生による共産党への忠誠が求められている。大学の教育体制は中学校や高校と同じように、学生たちの思想を管理する担任が配置されている。そして、近年、教授たちの授業内容に対するモニタリングも強化された。教室には監視カメラが設置されているケースも散見される。そのなかで、とくに悪列なのは、大学が学生を動員して、授業で民主主義や自由と人権を唱える教授を密告することを奨励しているケースである。密告された教授は軽い場合は警告処分、重い場合、懲戒処分を食らってしまう。要するに、教育の自由が大幅に制限されているということである。

 むろん、教育の自由が大幅に制限されているのは文科系がほとんどであり、理科系については、制限する必要がない。問題は別の側面で起きている。それは教育腐敗という根の深い問題である。

 もともと、中国では、科挙という公務員選抜試験が歴史的に存在していた。その影響もあって、中国社会では、学歴に対する強い憧れが普遍的に存在する。大学受験制度が復活してから、全国の統一試験が実施されている。ただし、中国政府は経済成長が遅れている地方への配慮から同じ大学への進学に当たって、同じ点数で採用せず、一定の割引が実施されている。とくに少数民族の受験生に対する配慮から多少点数が低くても採用される。そのなかで理不尽なのは、北京の戸籍(住民票)を持つ受験生は、たとえば、北京大学に進学する場合、合格ライン(点数)はなぜか他の地方よりも低く設定されている。一部の教育者によれば、それは北京の政府高官に対する忖度であると指摘されている。それは真実かどうかわからないが、そういわれても仕方がない状況になっている。

 そのうえ、状況がもっとも混沌としているのは修士課程や博士課程など大学院への進学である。大学院への進学において統一試験はなく、各々の大学と教授によって可否を采配される。今の中国社会は世界トップレベルの拝金主義社会になっている。その結果、指導教官の収賄などのスキャンダルも日常茶飯事になっているといわれている。進学した大学生や大学院生は指導教官のために論文の執筆などただ働きさせられるケースが少なくない。上で述べた論文数などは確かに多いが、その背景にこういう事情がある。

 中国の受験勉強の教育熱をみると、日本は比較できないほど高まっている。中国の大学を視察すると、びっくりするぐらい敷地が広く、立派な図書館や教室棟が聳え立っている。それに対して、日本の大学、とりわけ国立大学の現状をみると、悲しいぐらい建物は老朽化が進んでいる。しかし、大学の教育レベルを決めるのは建物などのハードウェアではなく、教育内容などの中身、すなわち、ソフトウェアである。むろん、日本の教育制度には日本固有の問題が含まれている。中国の教育制度が抱えている問題の筆頭は政府による教育介入と横行する拝金主義の風潮である。中国人若者にはやる気が十分にあるが、それは正しい方向へと導かれていない。中国企業や研究機関が出願する特許件数などは確かに世界一になっているが、ノーベル賞を受賞できないのは問題の存在を物語っている。中国にとってまず進めるべきことは教育の自由化と教育自治である。政府による教育の介入をやめなければ、真の一流の大学が生まれてこない。むろん、ノーベル科学賞も受賞できない。

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