林幸秀の中国科学技術群像
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【21-11】【現代編7】周琪~幹細胞研究の第一人者

2021年05月11日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、中国科学院副院長の周琪を紹介する。周琪は中国におけるiPS細胞など幹細胞研究の第一人者で、2012年の山中伸弥京都大学教授のノーベル生理学・医学賞受賞に貢献した人物と言われている。

生い立ちと国内での教育

 周琪は、1970年に中国の最北東部に位置する黒竜江省の省都であるハルビンに生まれた。黒竜江省は黒竜江(アムール川)をはさんでロシアと国境を接しており、国境線の総距離は約3,000キロメートルに及ぶ。省都ハルビンは中国の歴代王朝により徐々に開発されてきたが、19世紀後半からロシアの影響が強くなり、とりわけ1898年からこの地域で東清鉄道の建設が開始されると、ロシアの旧満州経営の拠点として多くのロシア人が移り住み、ロシア風の建物も建てられた。日露戦争で日本が勝利し、東清鉄道などの経営権が日本側に移ると日本の影響が徐々に強くなっていった。初代首相の伊藤博文が安重根により暗殺されたのもこの地である。

 周琪は、1987年に地元ハルビンにある東北農業大学に入学し、1994年に同校から修士号を、さらに1996年に理学博士号を取得した。

海外留学と百人計画での帰国

 翌1997年に周琪は、北京にある中国科学院の発育生物学研究所(現在の遺伝・発育生物学研究所)のポスドクに採用され、その後副研究員となった。二年後の1999年、フランスの国立農学研究所(INRA、現在の国立農業・食糧・環境研究所:INRAE)に留学し、ポスドク研究員として分子発育生物学の研究を行った。

 INRAで着実に研究成果を挙げた周琪は、中国科学院で海外人材招聘政策として1994年から実施されていた「百人計画」に応募し、見事当選した。32歳となった2002年にフランスから帰国し、北京にある中国科学院動物研究所の研究員となった。専門分野は、ライフサイエンス研究の新興分野として注目を浴びていた幹細胞研究であった。

世界的な幹細胞研究の流れ

 生物は多くの細胞から成り立っているが、元をただせば受精卵というたった一個の細胞が始まりであり、これが頭、手足などに分化していく。特定の臓器に分化した後の細胞は他の臓器の細胞には分化できないが、その前の段階にあって分化しうる細胞が発見され、これは幹細胞と呼ばれることとなった。1981年、英国の科学者エバンス(1941年~)は、マウスの受精卵から細胞を取りだしてES細胞を作製した。さらに1998年、米国のトムソン(1958年~)らは、ヒトの受精卵からES細胞を作製することに成功した。しかし、ES細胞は受精した後の細胞を滅失して作られるため、生命となったものを消滅させるとの懸念を惹起させ、倫理的な問題が提起された。とりわけキリスト教の倫理観が強い欧米では、ES細胞研究に厳しい規制がかかることになった。

中国の幹細胞研究

 中国は、漢方医薬などの分野で歴史的な実績があるものの、近代的な生物研究では欧米に後れを取っており、とりわけ文化大革命の影響で分子生物学などの近代生物学は欧米とさらに大きな距離が出来ていた。ただ、近代生物学の一分野であるクローン研究だけは別であり、将来このコーナーで取り上げたいと思っている童第周(1902年~1979年)は、1963年に世界に先駆けて魚類クローンの作製に成功している。

 クローンの技術は、幹細胞研究とは直接関係していないが広い意味で発生学にくくられる研究であり、クローンの研究や技術レベルが高いことは幹細胞研究でも意味があると考えられる。中国では童第周の画期的な成果を受けて、他の動物(ウシ、ヒツジなど)でのクローン研究が国内の中国科学院の研究所や中国農業大学などで継続的に進められていた。この様な背景を有していたため、マウスやヒトのES細胞の樹立という世界的な研究の流れにも素早くキャッチアップしてきた。

山中教授によるiPS細胞の開発

 欧米諸国でES細胞研究を巡って侃々諤々の議論が行われていた時に、彗星のように現れたのが、2006年8月の山中伸弥京都大学教授らによるiPS細胞の開発である。山中教授らは、マウスのしっぽの皮膚細胞に4つの遺伝子を入れて培養した細胞が、様々な臓器に分化する万能性を有することを確認したのである。

 ES細胞では倫理的な課題がある上に、受精した後で母体内から細胞を取り出すことになり母体に負担がかかるおそれが高い。また臓器移植などの臨床応用を考える際、受精卵という主に他人の細胞を用いることになるため、拒絶反応の問題もある。iPS細胞はこれらの課題を解決する可能性を秘めているのである。

iPSマウス「小小」作製

 iPS細胞は、ES細胞と同様な多機能細胞であると証明するためには、iPS細胞由来の丸ごとのマウスの作製が重要と言われていた。しかし、日本や欧米の研究者の必死の努力にもかかわらず、なかなかうまくいかなかった。このため欧米の学者の一部には、iPS細胞はES細胞とは違い多機能性を十分に持った細胞ではない、という主張も出ていた。

 2009年に中国の研究チームは、このiPS細胞研究で世界を驚かせる成果を挙げる。周琪らのチームが、iPS細胞由来の丸ごとマウスを世界に先駆けて作製に成功し、2009年7月にNatureの電子版に発表したのである。マウスの皮膚細胞からiPS細胞を作製し、それを四倍体胚補完法という技術を用いて、世界で初めて成功したのである。

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iPSマウス「小小」

 さらにほぼ同時期に、やはり中国の北京生命科学研究所の高紹荣研究員らのチームが同様のマウスの作製に成功し、ライフサイエンスの学術誌として有名なCell誌に発表している。世界初のことを、欧米や日本の研究者を尻目に、中国の二つのチームがほぼ同時に達成したのである。

 山中伸弥京都大学教授はiPS研究での成果を認められ、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

周琪とのインタビュー

 筆者は、山中伸弥教授のノーベル賞受賞の翌年、北京の中国科学院動物研究所で周琪と会い、話を聞いている。当時周琪は動物研究所の副所長であった。

 周琪によれば、2007年の山中教授によるiPS細胞の開発以降、中国でも高い関心を持って研究が行われており、自分も幹細胞研究の一環として取り組んできた。その中で、iPS細胞を起源としたマウスの作製がまだなされていなかったため、これに取り組んだとのことであった。世界で最初にiPS細胞から作られた動物(マウス)の名前を、中国名「小小」(英語名「Tiny」)と付けた。マウスの名前を「小小」と付けた理由として、周琪は「成果としては大したことではないから」と謙虚に答えている。しかし周琪の謙遜さとは違い、このマウス作出の実験は大きな賞嘆の声により世界に迎えられ、例えば米国の週刊誌「TIME」は、2009年度の「医学分野におけるブレークスル―」トップ10の発表で、この「iPS細胞誘発によるマウス育成の研究」を第5位にランクインさせている。

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周琪(右)氏と筆者(左) (2013年5月)

現在

 「小小」の作製後も周琪は幹細胞研究に精力的に取り組んでおり、Nature、Science、Cellなどの一流科学誌に200編近くの論文を発表している。その功績を認められ、2015年に中国科学院院士に、2017年に動物研究所所長に、2020年に中国科学院副院長に任命されている。

参考資料