林幸秀の中国科学技術群像
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【21-25】【近代編19】趙九章~中国の人工衛星の父

2021年09月30日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、中国における気象学や地球物理学の基礎を打ち立て、さらに両弾一星政策(中国の核技術および宇宙技術の同時開発プロジェクト)の中で人工衛星の開発を指揮した、趙九章(ちょうきゅうしょう)を取り上げたい。

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趙九章

生い立ち

 趙九章は、1907年河南省開封の中国医学(漢方)を生業とする家に生まれた。趙九章が12歳となった1919年に北京で五四運動が発生したことから、科学救国を志して1922年河南省の欧米留学予備校(現河南大学)に入学した。1925年には浙江省杭州にある浙江工業専科学校(現浙江大学)電気工学科に入り、1929年に同校を卒業して北京の清華大学の物理学科に入り、1933年に卒業した。

ドイツへの留学

 その後、1934年に庚款(こうかん)留学生試験に合格し、翌1935年にドイツのベルリン大学に留学した。同大学ではハインリッヒ・フォン・フィッカー教授の下で気象学を専攻し、1938年に博士号を取得の後、中国に帰国した。

気象学者、地球物理学者として

 その頃中国では、前年の1937年に始まった日中戦争で北京が日本軍に占領され、母校の清華大学も北京大学などとともに西南連合大学を組織して、大陸西部の雲南省に疎開していた。趙九章は、西南連合大学で教鞭を執るとともに、物理学や数学を気象学に応用する気象力学の研究を開始した。気象力学とは、流体力学や熱力学の方程式を用い、気象状態の予測を行うものである。

 1941年に趙九章は、先輩気象学者の竺可楨(じくかてい)の推薦により中央研究院気象研究所研究員を兼務し、気象学の研究を続ける。併せて中央大学(現在の南京大学)でも気象学を教えている。1946年には気象研究所の所長となった趙九章は、西南連合大学の教え子であり後にスウェーデンのストックホルム大学で気象学を学んで1950年に帰国した顧震潮(こしんちょう、後に中国科学院大気物理研究所所長)とともに気象予報の数値化研究を行った。この研究は、現在の計算機を用いた気象予報に発展していく。

 1950年に中央研究院気象研究所は、地震や地磁気の研究所と統合されて、中国科学院地球物理研究所となった。趙九章はこの地球物理研究所の初代所長となり、気象学の研究を続行すると共に、気象学の手法を地球物理学の他の分野の研究に応用していく。特に力を注いだのは、磁気嵐などの研究を伴う宇宙空間物理であった。趙九章らのチームは、1957年に太陽の磁気が地球に与える影響などを観測するために設定された第1回国際地球観測年に中国を代表して協力し、上海や北京に地磁気観測台を設置した。

 これらの気象学や地球物理学での功績により、1955年に趙九章は中国科学院の学部委員(現在の院士)に推挙された。

両弾一星政策に参画

 中国の原水爆とミサイルの両弾開発は、1955年頃から検討が開始され、1957年に聶栄臻(じょうえいしん) や銭学森 らがソ連を訪問して中ソ国防新技術協定を締結したことで本格化した。一方、1957年10月にソ連がスプートニク1号を打ち上げたため、中国でもこの打ち上げに対応して人工衛星開発を進めることとなった。1958年には、聶栄臻が主任となって国防科学技術委員会が設置され、これまでの両弾に人工衛星の開発を加えた「両弾一星政策」を先導していった。衛星開発の準備組織として中国科学院に「581組」が設置され、同組の組長に銭学森、副組長に趙九章が任命された。趙九章は、代表団を組織してソ連を訪問し、関係の施設の見学・交流や技術協力をソ連側に申し入れたが、これらはほとんど実現できなかった。このため帰国後、趙九章らは自力での衛星開発を決断することになる。

 581組は当初数十人の規模で発足したが、1964年末には400名の人員を擁する規模となり、趙九章はこれらスタッフとともに、高層観測用ロケットの開発と打ち上げ、超高層物理学、スペースチェンバ-の開発などを実施し、着実に人工衛星の開発を進めた。

 1964年10月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが打ち上げられ、両弾一星の両弾の部分(核兵器とミサイル)の開発に成功した。以降、銭学森らはこのミサイル技術を発展させて、趙九章らが開発する人工衛星を運搬できるロケットの開発を目指した。

 1965年には、これまでの人工衛星の開発とその運搬手段であるロケットの開発の進捗状況を下に、国防科学技術委員会と中国科学院で議論が進められ、同年末には、打ち上げ時期を1970年とすること、衛星は直径1メートルの72面体の近球形とすること、軌道上で毛沢東や共産党を讃える歌である「東方紅」を発信することなどが決定された。この決定を実施するため、翌1966年1月に中国科学院に衛星設計院(「651設計院」)が設置され、趙九章が同院の院長に任命された。

 趙九章は、人工衛星の正確な軌道を計算するため中国科学院の数学研究所に、また軌道上の人工衛星の位置を観測するため中国科学院の紫金山天文台に、それぞれ協力を求めた。さらに、衛星の電装、構造、温度制御などの課題を着実に解決し、1968年2月にはプロトタイプを完成させた。

知識人迫害の嵐の中で

 ところが1966年頃から文化大革命が本格化し、衛星開発チームにも革命派の魔の手が及び始めた。周恩来は中国科学院の東方紅1号の開発チームを人民解放軍傘下の組織に移管して、引き続き人工衛星の開発を続行させたが趙九章自身は1968年の春節後に革命派から労働改造という名目で迫害を受け、同年10月その屈辱の中で毒をあおいで自殺した。61歳の悲劇的な死であった。

 趙九章の死にひるむことなく東方紅1号の開発は続けられ、1年半後の1970年4月に長征1号ロケットにより打ち上げに成功した。これはソ連、米国、フランス、日本についで世界で5番目の人工衛星打ち上げであった。

名誉回復

 1976年10月、四人組の逮捕をもって文化大革命は終結したが、趙九章の汚名が雪がれたのは、その死から10年後の1978年のことであった。そして1999年、新中国建国50周年を機に両弾一星政策に貢献した科学者・技術者23名に「両弾一星功勲奨章」が授与され、趙九章もその一人として追叙されている。悲劇的な自殺から31年後のことであった。

参考資料