林幸秀の中国科学技術群像
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【22-12】【現代編15】金怡濂~中国スパコン開発の父

2022年06月08日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、中国のスパコン開発に尽力した金怡濂を取り上げる。世界では、日本、米国と並んで中国がスパコン開発の中心国であり、金怡濂はスパコン「神威・太湖之光」の開発の指揮を執り、同機は計算速度で世界一の座を2年間維持した。

生い立ちと清華大学入学

 金怡濂(きんいれん)は、1929年に天津で生まれた。地元天津で基礎教育を終えた後、第二次大戦後の国共内戦時である1947年に、北京の清華大学に入学した。

 専攻は電気工学で、同学科の同級生に朱鎔基がいる。朱鎔基は、卒業と同時に政治の道を歩み、上海市の市長や党書記を務めた後、1992年に国務院副総理、1998年に国務院総理として、国営企業改革などを断行した中国でも著名な政治家である。

軍に配属後ソ連に派遣される

 金怡濂は、中華人民共和国の建国直後の1951年に清華大学を卒業し、電気工学科の同級生5名とともに人民解放軍に配属された。当時の卒業生は自ら就職先を選択できず、政府が配属先を決定したのである。人民解放軍では、電子部品の開発に従事した。

 1956年に中国政府は、中長期的な科学技術政策として「科学技術発展遠景計画綱要(1956年~1967年)」を公表し、大型コンピュータの開発を含むいくつかの重要分野を選定した。この政策を受けて政府部内にプロジェクトチームが設置され、金怡濂はその一員となった。そして同年、金怡濂は他の同僚約20名とともに、ソ連に派遣された。ソ連では、ソ連科学アカデミー傘下の研究所である「レベデフ精密機械・計算機工学研究所」で計算機工学を修得した。

帰国後、大型コンピュータ開発に従事

 1958年にソ連から帰国した金怡濂は、以降一貫して中国の大型コンピュータ開発に従事することになった。当時中国科学院では、汎用の大型コンピュータ開発のプロジェクト104号が進められ、金怡濂もその開発チームに加わった。104号の開発は順調に進み、1959年の試運転でメーデーの天気予報を計算し、最終的に同年9月に国家の検収試験に合格した。

 しかし、米ソ冷戦のあおりを受けて、1963年頃から大型コンピュータ開発を実施する研究機関は中国大陸の沿岸部から内陸に移動し、金怡濂も研究所と共に内陸に移り住んだ。文化大革命などの影響もあり、金怡濂は中国南西部で雌伏の時を過ごした。

スパコン時代の到来

 計算機の中でも特に高速の計算機を「スーパーコンピュータ(スパコン)」と呼ぶが、このスパコンの開発に先鞭を付けたのが米国で、1960年代に軍事目的を中心に開発が進められた。その後、1970年代には米国クレイ社などが民生用のスパコンを開発し、これに日本のNECなどが参入した。

 中国でも、文革終了後の1980年代にスパコンを導入する動きが本格化した。金怡濂も、中国の需要に応えて外国からのスパコン導入に関与したが、導入に際しての外国メーカによる屈辱的な条件に心を痛め、中国独自によるスパコン開発を政府に強く訴えるとともに、自らも並列計算機によるスパコン開発の構想を温めた。

中国のスパコン開発

 中国政府が独自のスパコン開発に注力し始めたのは、ハイテク産業技術の開発を目的とした応用技術研究開発プログラムである「国家ハイテク研究プログラム:863計画」が鄧小平の主導で1986年3月に開始された時期であり、863計画の対象の一つとしてスパコンが選定された。この863計画での成果を踏まえ、1990年代以降の五カ年計画でスパコン開発が取り上げられ、第10次五カ年計画(2001年~2005年)では「テラFLOPSスパコンとその環境の開発」が目標に掲げられた。

 このような政府の方針を踏まえ、国防科技大学(天河・銀河シリーズ)、中国科学院計算技術研究所(星雲・曙光シリーズ)、国家並列計算機工程技術研究センター(神威シリーズ)の3者が競い合って、スパコンの開発を進めることとなった。

 金怡濂は、1992年に国家並列計算機工程技術研究センターの主任に就任し、以降一貫して並列式の計算技術によるスパコンの開発を目指した。

「神威・太湖之光」で世界一に

 計算速度の速さ(HPLベンチマークTOP500による性能ランキング)で、最初に世界トップに躍り出た中国製スパコンは、国防科技大学により天津に設置された「天河1号A」であり、2010年11月のことであった。翌年、日本のスパコン「京」に後れを取ったが、国防科技大学はさらに「天河2号」を開発し、2013年6月に再び世界一を取り戻した。

 金怡濂の神威シリーズでは、2001年に「神威Ⅱ号」で中国トップレベルの計算速度を達成した。その後開発を進め2011年11月には「神威藍光」で世界第5位となり、2016年6月に江蘇省無錫に設置した「神威・太湖之光」は、「天河2号」を抜いてついに世界一を達成した。その後「神威・太湖之光」は、2年間世界一の座を守り、2018年6月に米国オークリッジ国立研究所に設置されたIBM製の「サミット」に世界一を譲った。

国家最高科学技術賞を受賞

 金怡濂は、1994年に中国科学院から分離された中国工程院の院士に当選している。また、2002年には中国科学者に与えられる最高の栄誉である「国家最高科学技術賞」を受賞している。

 金怡濂は、現在92歳と高齢であるが、引き続き後進の指導に当たっている。

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科学技術ニュース 2016年06月21日 純中国製の「神威太湖之光」、世界一のスパコンに

書籍紹介:近代中国の科学技術群像